>>40
少なくとも1コリのこの章に関しては
内容上、男女を極めて対称的な形で書いているので、これは古代でも珍しいことなんじゃないかと
思いました
西洋の言語は「男」が「人一般」を表すことがあるので(これ自体、男性中心主義の現れですが)
パウロもその慣用に従ったってことはないですかね?コイネーの慣用が分からないので
なんとも言えませんが

>>41
さすがにクリスチャンがどんどん死に出しても最後の審判が来ないとなると
パウロ自身も考えを変更せざるを得なくなった、ということなんでしょうね

さて8章ですが、偶像に供えられた食物に関する章ですね

1節で言及される「知識」は4節で具体化されている内容と捉えていいんでしょうか?
要はユダヤ的な神(偶像)観による知識と考えていいのでしょうか?
そうだとすると、10節は(ユダヤキリスト教の)神を熟知した人たちが偶像の宮で食事をしているのを
知識のない人が見たら、その人はキリスト教の教えの下でも偶像に捧げられた食べ物を食べてもよい
と解釈して、滅びることになる、とパウロは言っているのでしょうか?

たしか使徒行伝などでは、ユダヤ教の食事規定は適用されない、ただし伝統的なユダヤ人に配慮して
偶像に供えられたものは食べないように、といった取り決めになっていたと思います
だとすると別に偶像に供えられたものを食べたとしても、配慮がないと言うだけで
良心が汚れるわけでも、滅びるわけでもないように思われます

パウロ側の手紙だけだとコリント教会側の発信が欠けているので
それを知らずに読む我々には具体的な文脈がよく分からないということもあるでしょうが、パウロの書き方
自体、持って回ったような書き方が多いので、もっとスッキリした書き方をしてもらいたいものですw