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宗教板避難所2

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1臨時で名無しです
垢版 |
2022/07/13(水) 17:34:34.75ID:hTLkqwwt
規制で入れない方はこちらへ
2022/08/08(月) 05:03:01.81ID:V6y8dCaD
>>52
atheistくん、おはようございます。
本日の聖句は1コリ9章です
54atheist
垢版 |
2022/08/09(火) 00:35:21.08ID:NrfjEhnM
>>53
9章はパウロの批判者に対する弁明ですね

前半は福音を宣べ伝える仕事に対しては食物等、物質的な対価があってしかるべき、という調子で
書かれていますが、15節からはそういった当然の権利を自分は利用していないし、物質的な対価を
もらいたいとも思っていない、と断言しています

パウロはなぜ福音を宣べ伝えているのかの理由を「そうせずにはいられないから」と述べています
さらに18節ではその報酬を「無代価で提供し、宣教者として持つ権利を利用しないこと」と言ってますが
これは対価(報酬)になるのでしょうか?
もっと素直に福音を宣べ伝えること自体が喜びである、とかそういった言い方なら
たしかに報酬と言えると思うのですが、パウロの述べる報酬はとても分かりにくいです
23節では明示的に報酬ということばは使ってませんが、「わたしも共に福音にあずかるため」と
理由を述べています
おそらくこれがパウロの本音なのではないかと感じます

27節は節制を説いた上で、説いた者の立場として自ら率先して節制する決意を表明しています
こういったところは感服します
自分にはやれと言われても、できませんから
2022/08/09(火) 05:36:27.11ID:2HYWbPb6
>>54
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ10章です。

パウロス大先生はエルサレム教会に献金するために各地教会から
大金を集めてました。そのことに対しての不満がコリントス教会にも
あったのを不正確に伝え聞いて、逆上しているのです。
「おまえら、金のことでいろいろ俺を批判しているらしいが
宣教者である俺自身は君らから献金を貰わず、自分の食い扶持を
自分で稼いでいたでは無いか、がたがた言うな」と。

でもよく考えてください。パウロス大先生は自慢されますが
自分の食い扶持を自分で稼ぐことはごくごく普通の事です。


パウロの述べる報酬がわかにくいのは、詭弁で構成されているからです。
この個所の論点は「エルサレム教会への多額献金」です
それに一切触れず、パウロス大先生は
1.宣教者は教会から献金を報酬として得る権利がある
2.しかして私は無報酬で君たちに福音を伝えた。
3.だから君たちは黙って私の権威に従い、エルサレム教会へ献金しなさい
と言っているのです

「わたしも共に福音にあずかるため」は誤訳です。
原文は「福音の共同者」です。
みんなと共に福音に与るとパウロス大先生はここでいってません
君たちに福音を伝える、福音の側になって、福音の共同者として、君たちを救ってあげる
と主張しています
56atheist
垢版 |
2022/08/10(水) 02:06:15.13ID:d6+NmAhA
>>55
本来はエルサレム教会への献金を各地の教会から集めていたことに対する
各教会の不満を、パウロは自身の生活費を集めていることに対する不満と
聞き間違えたわけですね

その上で、宣教に対する対価は本来もらって当然だが、自分は無報酬でやってる、
なのに不満を言うとはどういうことか、不満を言わずにエルサレム教会に献金しなさい、
とこんな感じで説得しようとしてるってことですね

途中で論旨がすり替えられちゃってますね

23節は「福音にあずかるため」ではなく、自身が福音の共同者として福音を伝えているのだ
という内容なんですね
これだと逆になっちゃいますね

さて10章ですが、ここもまた偶像礼拝(崇拝)に関することを述べた章ですね

11節まではモーセの例を引いて、偶像例はをしたり、不品行を行ったり、主を試したりしたものは
滅ぼされた、と言ってますが、このへんは民数記の具体例に言及しているのですかね
ただそれを教訓とするのはいいとしても、これらのことが起こった理由を「世の終わりに臨んでいる
わたしたちに対する訓戒のため」とするのはどうかと思います
単なるレトリックかもしれませんが、モーセの時代にはモーセの時代の生きた人々が
神と対峙し対話したわけであって、パウロの時代の人のための教訓として滅びたわけではないはず
だからです

あと気になったのはやはり20節です
これだと異教の偶像崇拝は悪霊に対する崇拝だと言っているに等しく
こういう態度にキリスト教を排他的な性格を与えてきたのだと思います

一方で26節のように地に満ちているものは神のものなのだから、良心を咎めることなく食えと
言っているのに、こと偶像へ捧げられたものに対する態度は一変して偏狭なものになっているような
気がします
57atheist
垢版 |
2022/08/10(水) 02:09:24.98ID:d6+NmAhA
> こういう態度にキリスト教を排他的な性格を与えてきたのだと思います

→ こういう態度が、キリスト教に排他的な性格を与えてきたのだと思います

の間違いです
なんでこんな間違えをしたんだろうw
2022/08/10(水) 07:27:07.35ID:7eFg2Yf+
>>56
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ11章です。

1-7節は出エジプトが下敷きで、「踊り戯れた」は、原文では「子供する」という動詞で
70人訳をそのまま引用しています。遊び戯れるという意味です。
8節から民数記が下敷きとなります。パウロス大先生は23000人としていますが
民数記25:9では24000人ですので、写本によっては訂正しているものがあります。

民数記25章ではモアブの娘たちと一部の人が淫行をなしたので
神が怒って、イスラエルに疫病をくだし、24000人が滅んだとあります。
全員が淫行したわけではありません。とばっちりです。

「世の終わりに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のため」は、
1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈に結論部分です。
ヘブライ語聖書の先例をこじつけにこじつけ、主張を展開しているわけです。

キリスト教神学では、伝統的にダイモニオンを悪霊と訳しますので、
20節は、強い意味となりますが、パウロス先生ご自身の主張は
異教の神霊に供え物を捧げると、異教の心霊の仲間になると言っているだけです。
勿論、パウロス大先生の時代すでに、キリスト教徒にとり神霊は悪霊ニュアンスがあったので
もろ排他主義ではありますが、悪霊と訳すといっそうイデオロギー化します
2022/08/10(水) 07:37:22.36ID:7eFg2Yf+
× 1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈に結論部分です。
〇 1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈の結論部分です。

× 異教の神霊に供え物を捧げると、異教の心霊の仲間になると言っているだけです。
〇 異教の神霊に供え物を捧げると、異教の神霊の仲間になると言っているだけです。

>>56
パウロの本音は、20節です。
偶像に捧げられた肉を食べるものは、悪霊の仲間になる という立場です。
でも一方で、パウロス大生はコリントスで、我々は自由だ―と理想論をぶちかましたのです
でもこれは建前の話で、本音では無い。
理想論に食いついたコリントス教会員らは、偶像に捧げられた肉をおいしく頂いていた。
するとユダヤ感覚を持つ者たちから異様に映り
、混乱が生じた。
そこで、我々は自由だが、弱い人の為に自由を制限すべきだという論法で
コリントス教会員をパウロス先生は抑えにかかっているということです。

理想論に騙されてはいけません。パウロス大先生は偶像に捧げられた肉を絶対に食べないのです
食べたら、悪霊の仲間になると思い込んでいるのですから
60atheist
垢版 |
2022/08/11(木) 03:31:29.22ID:UtZd4DHS
>>58-59
民数記だけじゃなくて出エジプト記もネタ元になってるんですね

食に関しては自由だという理想論を説きつつ本音としては
偶像に捧げられた肉を食えば悪霊(異教の神霊)の仲間になってしまうと思っている、ってことですね
そういった矛盾した言説が交錯するため、パウロの主張は読みにくくなっているわけですね

さて11章が前半で男女の神学的相違を、後半で聖餐について論じています

前半はパウロの女性蔑視や男女のステレオタイプを示す発言としてよく取り上げられるところですね
3節の「神→キリスト→男→女」という序列を示す発言や5節の女は覆いを被れという発言など、さらには
14-15節の男女による長い髪の相違などがその典型だと思います

8-9節の女は男から出た(男のために造られた)というのは明らかに創世記の記述を下敷きにしていると
思われますが、10節の「だからかしらに権威のしるしをかぶるべき」という結論がよく分かりません

後半は聖餐はキリストの血肉をいただくものだから、それをふさわしくないままで飲食する者は
キリストの血肉を犯す者だと言っています
気になったのは30節です
主のからだをわきまえないで飲み食いすることが原因で、弱いものや病人が大勢いると
言ってますが、これは病はその人の罪のせいではないと言ったイエスの発言と矛盾するように思います
2022/08/11(木) 15:27:31.80ID:W4YO4fpE
>>60
atheistくん、こんにちは。本日の聖句は1コリ12章です。

2節は皮肉です。かつてパウロス大先生が理屈で
「自由なので偶像に捧げられた肉を食べても無問題」というのを憶えて
実践しているのであれば、以下の女性差別も憶えて置けということ。

古代でもこんな差別者はいないのだが
パウロス先生を批判した主要メンバーらが女性預言者らだったので、
攻撃に転じているので、ひどい発言になっている箇所です。

3節のような序列はパウロス先生の独自説。神の権威に名を借りて女性差別を
固定化する差別者。
3節を仮に認めたとしても4,5節は詭弁。そもそもそんな規定はギリシアのどこにもない。
大都会のコリント人に対して、オリエント風のユダヤ的風俗を押し付けようとしだけ。
勿論、大反発をくらった。

10節「女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。」
女が特定の男に従属しているしるしとして、「権威のしるし」をかぶってないと
堕落した悪い天使がやって来て、妊娠させますよ、ということ。

つまりパウロス先生は、女性たちを脅かして、教会で黙っているように押さえつけているのです。
女性から批判されていたからです
62atheist
垢版 |
2022/08/12(金) 01:56:46.32ID:e/mqLC2Y
>>61
背景的には、パウロを批判していた主要な人たちが女性信者だったということがあるのですね
3節以降は正直に言って、著しく不快です
もちろん古代のことですから、ある程度の男性中心主義は一般的なものであったはずですが
そういった悪弊を打ち破って教えを説いていったのがイエスであったことを鑑みると
こういった男女差別はイエスに対する裏切りに等しく思えるからです

10節の権威のしるしというのは男性の権威ということなのですね
女性の貞操と従属を示すため、ということなんでしょうね

さて12章ですが、ここはパウロがよく使う体とその部位の比喩で
クリスチャンはそれぞれ賜物や働きが異なってもキリストにあってひとつである、
ということを強調してる箇所ですね

それはそれでいいのですが、やはり28節に見られるように
単なる働きの違いにとどまらず、序列を付けているところに
パウロの権威主義的な性格の一面が現れているのかもしれないと感じました

今回の質問は以前にも別の箇所で同様のことを聞きましたが
この章で言えば、3節で「神の霊」、「聖霊」、4節以降で「御霊」となっている部分です
口語訳では一応「聖霊」ということばが入っているので
これらはみな聖霊のことを指しているように読めますが
実際の原語ではどのようになっているのでしょうか?
2022/08/12(金) 07:49:05.31ID:OgnCZgDV
>>62
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ13章です

3節「神の霊」、プネウマ・テオー(テオスの属格) 直訳は神の霊
「聖霊」、 プネウマ・ハギオー(ハギオスの属格) 直訳は聖なる霊
4節 「御霊」 プネウマです。

日本語訳では、単なるプネウマを文脈に合わせて
「聖霊」「悪霊」「御霊」と訳し分けたりしますが、ここはほぼ原文通りです。

問題は「神の霊」と「聖霊」と「御霊」とは同じものを指していますが
なぜ分けているかですが、単に言い換えているだけで特別な意味はありません。

28節原文では、「一方でまず使徒となし、第二に予言者、第三に教師、
それから力あるわざ、次にいやしの賜物、また援助、舵取り、種々の異言を語る者」
とありますので、使徒・予言者・教師はパウロス先生の認識では人を指す用法で、
それから以降は、事柄を指す用法です。
つまり使徒・予言者・教師は教会の職責ですが、
それから以降は教会員の誰もが行うことが可能な行為です。
口語訳は、それから以降も~する者と訳していますが、原文には無いです
2022/08/12(金) 07:50:11.02ID:OgnCZgDV
×種々の異言を語る者

〇種々の異言
2022/08/12(金) 09:17:03.17ID:P+Td0Pbo
テスト
66atheist
垢版 |
2022/08/12(金) 22:35:05.78ID:e/mqLC2Y
>>63
3、4節の霊に関してはほぼ直訳ってことですね
28節は使徒、予言者、教師以外はそれぞれそういった賜物を指しているので
パウロが認識していた職責としては上記3つってことなんですね

13章はパウロの書いた文章の中でも最も有名なもののうちのひとつですね
パウロ版「愛の讃歌」とでも言えるかもしれません

愛がなければすべて無益、という発言はクリスチャンがまずもって涵養すべき徳として
愛をこれ以上なく明確に際立たせた発言だと思います

本筋とは全く関係ありませんが、ちょっと引っかかったのは12節で
「鏡に映して見るようにおぼろげ」とあるところです
最初はなんで?と思いましたが、ローマ時代だとまだ現在のように
クリアに像を映し出せる鏡はなかったということなのでしょうね
2022/08/13(土) 13:00:36.71ID:otZZbXYL
>>66
atheistくん、こんにちは。本日と明日の聖句は使徒19:1-20です。

13章は、パウロス大先生の最高傑作ですね。
最低人格から、最高神学が語れる奇跡ですね。

ちなみにコリントスは鏡製造の一大拠点です。
直訳だと「鏡を通して」ですが、口語訳のように「おぼろげ」にしか
見えなかったそうです。だからこそフェイス・トゥー・フェイスで見ると
はっきり見えるということとの対比に使われています
68atheist
垢版 |
2022/08/14(日) 03:19:47.27ID:5vNMsJdJ
>>67
鏡の一大生産地ということは、古代でも最も良質な鏡が作られていたのでしょうね
それでも「おぼろげ」にしか映し出せなかったというのは、ちょっとした発見です

さて休日分の使徒はエペソでのパウロの伝道の様子を記した箇所ですね

イエスやパウロの権威を示すためのエピソードが中心となっていますが
わたしにはこの箇所はほとんどが作り話のように思えます

まずエペソの人たち(ある弟子たち)はイエスの名ではなくヨハネの名によって
洗礼を受けていたということですが、ユダヤならまだしも小アジアで洗礼者ヨハネ教団の洗礼を
受けて、なおかつキリスト教の洗礼を受けていない、というのが考えにくいと思います
キリスト教は異邦人の地へ宣教していましたが、洗礼者ヨハネ教団が異邦の地へ宣教していたとは
聞いたことがありません

また、まじない師のエピソードではまじない師とイエス、パウロを対比する形で
悪霊の口からイエスとパウロの名を語らせ、それらが畏怖すべき存在であることを
匂わせていますが、これはキリスト教が魔術に取って代わったことを印象付けるための
ご都合主義的なエピソードとしか思えません

エペソはアルテミス信仰が盛んな地であったと思いますが
そういった地であるからこそ、このようなエピソードがキリスト教の勝利を印象付けるために
語られたのだという気がします

実際のところ、パウロたちの時代のエペソでのキリスト教普及率はどのようなものだったのでしょうか?
2022/08/14(日) 05:28:43.81ID:P3mZvOoL
>>68
atheistくん、おはようございます。明日の聖句は1コリ14章です。

BC4cのコリントス製鏡が発見されているので、実に2500年前のテクノロジーです。
中国の青銅鏡とは違い柄のある柄鏡ですので、女性が化粧に用いたのでしょうけど
おぼろげにしか映らない鏡でよく化粧できたものです。

作り話に見えるのは、パウロ派のルカによって書かれているからです。
ルカはパウロ流のキリスト教、聖霊による奇跡を売りにするエキセントリックなキリスト教が
本来のキリスト教だと信じていたわけですが、聖霊を売りにしないキリスト教も
初期にはあった。むしろ色んな流れのキリスト教があり、パウロ流は、よくて一つの流れ。
正確に言えば傍系でしかなかったのです。その傍系を主流に書いたのが使徒行伝です

つまりパウロス大先生がエフェソスに来た時、非パウロ流キリスト教、アポロ系のキリスト教などが
大勢いたわけです。でヨハネの名というより、「悔い改めのバプテスマ」を受けていたのです。
それをパウロス大先生が、改宗させて、異言を語るキリスト者にした。パウロ流キリスト教徒にしたわけです

ユダヤ人のまじない師の原文は「神霊払いをしている者たち」
パウロス大先生の評判が高かったので真似してみたというエピソードですね
70atheist
垢版 |
2022/08/15(月) 02:55:45.93ID:XI9J2LEV
>>69
大きくは異教を駆逐したキリスト教、という筋書きであっても
ルカとしてはパウロ派こそが本当のキリスト教と信じていたので
異教の駆逐と他派の駆逐という二重の構造がこの章のプロットにはあるわけですね

パウロ派は聖霊の奇跡を売りにしている、ということですが
それがパウロ派が結局キリスト教の主流になった主因ということなんですかね

20世紀のキリスト教でも聖霊派が躍進するのは、聖霊体験という非日常や
癒しや繁栄といった奇跡に人々が魅了されたことが大きいのだと思います
現在のアフリカなどで聖霊派の一種と言っていい繁栄の福音が大躍進しているのも
アフリカの土着的呪術信仰の伝統との親和性もあるでしょうが
やはりこういった癒しや繁栄という奇跡の強調が大きな理由となっているのだと思います
2022/08/15(月) 08:26:07.42ID:yQ93FGxX
>>70
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ14章です。

とはいえ、コリントス教会のパウロス離れは、
聖霊の賜物ゆえなので、
皮肉なものです
72atheist
垢版 |
2022/08/16(火) 00:22:18.37ID:OLq6KRwe
>>71
聖霊の賜物といえば、まさに14章は聖霊の賜物である異言と預言について述べた章ですね

パウロは異言を神に向かって語るものであり、その人の徳を高めはするが
他人にはわからないことばなので、教会の徳を高めることはない、と言っています

一方預言は人に向かって語るものであり、他人が理解可能な言葉であるゆえに
教会の徳を高めるものだ、と言っています
それゆえパウロは異言よりも預言を勧めます

この異言と預言の区別は極めて分かりやすい区別ですが、パウロはここで預言の具体例を挙げて
いるわけではないので、ここではどのような預言を念頭に置いているのか気になりました
というのは、預言は教会の徳を高めると言っているので、単なる未来のことがらを予言するということでは
なさそうだからです
パウロが言う預言とはどのような射程を含んだものなのでしょうか?

34-35節はパウロの手紙の中でも最も非難の集まる箇所で
要は女は教会では黙ってろ、という内容ですが
この箇所は前後の文章に脈絡なく突然挿入されたもののように感じられます
女性の従順を称揚するパウロではありますが、この箇所はあまりにも極端かつ唐突に感じられます
本当にパウロの筆によるものなのでしょうか?
2022/08/16(火) 07:12:16.10ID:Em1aASBK
>>72
預言とは、神から預かったコトバを
人に伝えるために、預言者が解釈を加えて
民に説明するものです。
とはいえヘブライ語聖書の初期の預言には異言だけのもあったそうです。

パウロス先生は
1.異言・・・神に向かう言葉
2.預言・・・人に向かう言葉
という射程で対比されておられます。

が、結論部分は、女性預言者はエクレシア(集い)で
黙っておれ、です。
コリントス教会の女性預言者らがパウロス先生を批判していたからです。

パウロス大先生の射程は、エクレシアの秩序論です
1.エクレシアでは礼拝秩序を大切にして
 みんなにわかるように、異言をやめて預言を語りなさい
2.一般的礼拝秩序も守りましょうと話を広げたのが26-31節
3.そして結論、女はエクレシアで黙ってろ これが秩序である
2022/08/16(火) 07:29:52.83ID:Em1aASBK
ちなみに西方系写本は、さすがにこれはひどい差別だと思ったのか
34,35節を削除しています。
これを根拠に現代の聖書学者らのなかには
欄外注が本文に紛れ込んだと推定して、パウロス先生はこんなひどい
女性差別主義者では無いと擁護されている方々がおられますが
西方系写本は、修正を加えることで有名なので説得力がありません。

まあ教会も削除したくなるほどの女性差別なのです、

女性は教会で黙ってろが結論と正しく指摘した聖書学者は
『パウロとコリントの女性預言者たち』の著者A.C.ワイヤーだけです。
1万円する著作ですが、古本だと3000円で購入できるようです

現代聖書注解のR.B.ヘイズは、ワイヤー説を紹介しつつも疑問を呈し
校正挿入説を支持しています。糞野郎ですね
p396から6Pを費やして諸説を紹介しつつ、パウロス大先生を擁護されています
2022/08/16(火) 07:32:36.42ID:Em1aASBK
>>72
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ15章です
76atheist
垢版 |
2022/08/17(水) 01:58:50.51ID:zmYyRXYY
>>73-75
一応34-35節をパウロの筆ではなく後の挿入と考える学者もいるのですね
文献学的な推定の妥当性は私には分かりませんが、単純にこの箇所は
文脈上かなり突飛な箇所だったので、ちょっと不思議に思いました

逆にこの箇所がパウロの真筆だと考える学者によると
挿入どころか、この箇所こそこの章でパウロが言いたかったこと(結論)となるわけですね

背景的にはパウロを批判する女性預言者たち(あるいは異言をする多くの女性?)がいて
その女性たちを黙らせるために、異言ではなく預言を推奨し、さらに礼拝秩序を強調し
結論へのお膳立てをした、と考えるわけですね
その流れで本来言いたかった女性の沈黙遵守という結論にもっていった、と

さて15章ですが、前半はイエスの復活に関するパウロの認識を、後半はそのイエスを初穂とする
クリスチャンの復活の体(栄光の体)に関するパウロの認識を書き記しています
その意味でパウロの手紙の中でも極めて重要な箇所だと思います

この章で気になった部分はまず6節の「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」という箇所です
福音書にも使徒行伝にもこれを示す箇所はなかったように思いますが、ここは単なる誇張なのか
それともパウロの独自の認識なのか、あるいは福音書や使徒行伝とも整合する認識なのか、
このへんはどうなんでしょうか?

後半の復活体に関しては以前なるみやぴっぴさんたちといろいろ議論したことがありますが
蒸し返してもしょうがないので、端的に言えばパウロは
朽ちるべき肉の体(soma psychikos、直訳的には魂の体でしょうが、
要は今実際に生きている自然状態の体)から朽ちることのない霊の体(soma pneumatikos)へと
終末とともに一瞬にして変えられるのだという認識を示しています

質問はその本筋とは直接関係ないのですが、56節の「罪の力は律法である」という箇所がよく分かりません
ここはローマ人への手紙で書かれていたように、律法によって初めて罪を罪として認識できるということと
関係ありそうですが、あまりにも単純化されていて意味不明です
実際のところは何が言いたいのでしょうか?
2022/08/17(水) 07:25:35.81ID:uckgiMFg
>>76
atheidtくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ16章です。

ここでパウロス大先生は、本論である、「誰から使徒に任じられた」のか証拠を示せ
という論題と、コリントス教会員らが、死人の肉の復活を否定していたことを絡めて
目撃者がいるから事実だという主張を展開しています。

しかしイエースースの復活自体は事実では無くて、教会の創作話です。
とはいえ十二使徒への復活は福音書に伝承されていますから、コリント書より30年後には
教会の共通認識にはなってましたし、この時点でもそういう主張があったのでしょう。

さて500人は、使徒2章のペンテコステを指しています。
ここの記事にはイエースースが弟子たちに現れたという説は書かれていませんが
聖霊がそれぞれに下り異言で喋り出し、それに驚いた人々が3000人ほど入信したとあります。
この出来事を以て、パウロス大先生は500人に現れたと主張しているのでしょう。

義人ヤコブに現れたという事実もありませんが、エルサレム教会のボスも復活の目撃者だと
パウロス先生は主張し、最後に他の使徒たちにも現れたと述べています。
12使徒以外の使徒は知られていませんが、いることにして、その上で自分にも
最後に現れたのだと主張します。
本論はここです。自分に主イエースースが現れて、自分を使徒に任命したのだと弁明している
わけです。
勿論、そういう事実はありません。
とはいえ使徒22:12-21では、夢うつつ状態に主から異邦の民に遣わされたことになっていますので
パウロス大先生の主観的認知では、使徒であったのでしょう。
ただ誰も彼を使徒と認めていたわけではないので
コリントス教会から、証拠を出せと求められていたのです
78atheist
垢版 |
2022/08/18(木) 01:01:37.61ID:z0LZHENv
>>77
基本的にはパウロの使徒性を疑うコリント教会の人に対する反駁として
イエスの復活には多数の証人がおり、自分も復活したイエスに会って使徒を任じられた、
と主張してるわけですね

6節の「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」というのはパウロ以外に証言がないけども
使徒行伝に書かれたペンテコステの出来事を指し示しているのだろう、と

さて1コリも最終章の16章ですね

冒頭は献金のお願いというか命令、それに続いてパウロやテモテらの今後の動向、最後に若干の教訓と
挨拶で手紙を締めています

ここは取り立てて気になった箇所はないのですが、21節でパウロは「手ずからあいさつをしるす」と
書いているので、これまでの記述はパウロが後述したものを同伴者が代筆し、最後の部分だけ
パウロ本人が自ら書いた、ということですか?パウロは目が悪かったみたいなので
基本的には代筆に頼っていたということなんでしょうかね

強いて言えば、22節の「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」というのは
ある程度形式的な文言なんでしょうが、あまりよろしくないことばのように思われます
2022/08/18(木) 06:59:45.80ID:OkzRUduv
>>78
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ1章です

この時代の手紙は口述筆記だったそうです。
そして最後に署名するわけですが、数行の挨拶を記したみたいですね

パウロス大先生の問題は自分で書いた際に
いきなり呪いから入る点です。
この方の歪んだ性格というか、
コリントス教会から見放された要因の一つでしょうね。

次のマラナ・タは、アラム語なのですが、原文では何の注釈も無く
アラム語がギリシア語に音写れてますので、地中海諸教会でも
教会で口々に唱和それていた儀礼的な決まり文句でしょうけど
自筆挨拶冒頭で呪い文句を欠くのはパウロス大先生ぐらいです
2022/08/18(木) 07:14:20.75ID:OkzRUduv
プロテスタントメインラインの現代聖書注解のR.B.ヘイズは
愛を説くパウロス先生がなぜ同じ口で呪いを立てているのか
という疑問について注釈と言うか、擁護している

1.愛の共同体としてのキリスト教の共同体は無限に包括的ではない
2.イエースースを斥けるものは共同体には入れない
3.誰かが自分をキリスト教だと自称して福音を述べても、
 他方で他の使徒(パウロス先生のこと)を排除するならば教会き危機に陥る
4.そこでパウロス大先生は、他の福音を説くものたちにアナテマ(呪い)した。

つまり、自分たちの神学を支持しない者を呪うのは、主を愛してないと
彼らはみなすということだそうです。
とても危険な発想が現代キリスト教界にも底流に流れているようです。

パウロス先生の良い点は評価し、悪い点は真似しない教会になってもらいたいものです
2022/08/18(木) 07:25:13.27ID:OkzRUduv
ちなみに、新共同訳註解は、22節を典型的な典礼文としているが
証拠としての古代文の典拠を明示していない。
担当者は高橋敬基という牧師で、農伝校長をしたこともある左派であるが
あまりに勉強不足である。

コンツェルマンが「祭儀的・法的な、首都の否定関係」としていることを引用し
根拠としているが、この年代の日本人は外国の権威の説を検証なしに
無批判的に鵜呑みにしている者が多過ぎて呆れてしまうばかりである
2022/08/18(木) 07:31:01.76ID:OkzRUduv
ちなみに新共同訳略解のほうは、
マラナ・タのみをアラム語であり、エルサレム教会に由来し
異邦人教会の礼拝で用いられていたと
きちんと分けて、短くではあるが解説している。

注解のほうが詳しく、値段も高いのにほぼ役立たずである
83atheist
垢版 |
2022/08/19(金) 00:30:25.48ID:fXLkBVUg
>>79-82
パウロに限らず、この時代の手紙は口述筆記が一般的だったのですね

「呪い」の部分が定型的な典礼文であれば、それを裏付ける他の文書がなければならないでしょうが
それがないということはパウロ独自の表現ということになりそうですね

さて今日からは2コリというこで、最初の1章目は、まあ挨拶みたいなものだと思いますが
15節以下でパウロのコリント教会行きの計画について語られているので
2コリがどういう状況で、かつどういう目的で書かれたものかについての質問です

16節を読むと、一応パウロはコリント→マケドニア→コリント→ユダヤという行程で
2度コリント教会に立ち寄る計画だったようですが、23節を読むとその計画を実行しないでいると
書かれています
コリントに行かない理由として「あなたがたに対して寛大でありたいため」と述べていますが
これはコリント教会に叱責に行くつもりだったが、自分たちで自分たちを矯正するのを待つ、という意味で
「寛大」と述べているのでしょうか?

そうだとすると、いったい今回は何が問題になっているのでしょうか?
2022/08/19(金) 06:21:03.83ID:MqQ+E2x7
>>83
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はニコリ2章です。

15節以下をどの本文を採用するかで解釈が別れていて確定してません。
大きなポイントは、二度目。実際に行ったのか、計画だけだったのか。

二度目を行ってないと解釈する主流派は、矛盾する10-13章を他の手紙が流入した
という説を立て、コリントスの手紙四手紙説を提唱します。
第一は喪失 第二が1コリ 第三の一部が2コリ10-13章。第四がニコリ。
私は二度目を行って、ボコボコにされて、第三度目の訪問を計画していると読みます
つまり
「まずあなたがたの所に行き、 1:16それからそちらを通ってマケドニヤにおもむいた」
そして
「そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てた」が
後半の計画はまだ実現していない。

23節の寛大は、本来ならば罰を与えに訪問するべきところを遠慮したという意味です。
原文動詞は、通常は「モノ」に対して使われて「節約する」という意味の語で、「人」に対して用いるのが
パウロス先生流なのですが、「今回は遠慮して罰を与えるのをやめておいてやる」という意味。
そしてその猶予期間に、おまえたちは悔い改めとけというのが含蓄されています。

何が問題か。行かずに反省の猶予期間を与えたのに、まだ改めないので
やっぱり行って懲らしめるぞという手紙です 12章13章に出てきます
2022/08/19(金) 18:51:12.60ID:MNi2LFSy
テスト
86atheist
垢版 |
2022/08/20(土) 02:35:10.92ID:8CKxdHNF
>>84
なんだか複雑ですね
パウロのコリント行きと手紙の関係をどう想定するかで解釈が分かれてしまうということですね
ともかくも23節の「寛大」に関しては、叱責(懲罰)を猶予するという意味で捉えていいわけですね
「問題」となっているのは1コリで書かれたことで、これがまだ改められていないとパウロは考えていた
ということでいいのでしょうか?

さて2章ですが、焦点は6-8節なのだと思います
しかしその焦点となっている「その人」「彼」が誰で、かつ何をしたのかがわからないために
具体的な判断ができません

抽象的には何か問題を起こした人物がいて、多数の人から何らかの処罰を受けたのだから
もうその人を赦し、慰めよ、それが愛だ、ということなのだと思います

この人物が具体的に誰で、かつ何をして、どのような処罰を受けたのか、
ということは分かっているのでしょうか?

12節以降はトロアスに行ったときのことが書かれていますが、
その流れで15-16節で「救われる者」と「滅びる者」の対比が書かれています
ここでもパウロ的な二重予定説が背景にあるように感じられます
2022/08/20(土) 09:27:45.60ID:y/KntUnC
>>86
atheistくん、おはようございます。
本日と明日の聖句は
使徒16:1-5 Ⅱテモテ1;1-5 3:14-4:5です

本文中にある二度目を
1.行かなかったと解釈する主流派は、2コリ10-13章を別の手紙が挿入されたと解釈されます
2,二度目を行ったと解釈するとニコリは一つの手紙として素直に読めます。私はこちらの派。

「寛大」はいい訳です。直訳すると「遠慮しといてやる(みずからから反省しなさい)」です

パウロス先生は二度目に行ってボコボコにされてしまったので
三度目に行くまでに反省しろと激こうして書いているのです

5-10節は具体的なことが書かれていないので色んな推測がされています。
たとえば
エルサレム教会に対する献金をみんなで貯めていたが、ある人がそれをくすねてしまった。
パウロが全額ではないが一部を肩代わりにするので、みんなも愛を持って赦してやれと
言っているとか
逆にくするられた献金を教会員でもういちど積み立て直すと計画されているが
パウロス先生は金を出すわけではないが、全部でなくていいよ一部でよいよ
足りない分はパウロス先生の損失ということにしとけばいいよと言っているとか

新共同訳の略解も注解も具体的なことは書いてないですね
岩波委員会訳註は、手紙を受け取った当事者にしか不明
フランシスコ会訳注も具体的な事はわからないという立場です
88臨時で名無しです
垢版 |
2022/08/20(土) 09:58:30.67ID:jr8Zjgfc
テスト
89atheist
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2022/08/21(日) 01:45:49.06ID:X1lR51E0
>>87
要は二度目に行ったときにコリント教会の一部から散々批判されたことに対して
激怒しているってことですね

「その人」「彼」については、推測はあるものの何も具体的なことはわかってないわけですね

休日分はテモテに関する箇所のようですが、エペソにいるテモテに対してそこの教会への訓戒の指示を
出している箇所ってことですかね

ここでもパウロは食物は神の造られたものなのだから、感謝して食べれば何を食べても良い、と
いった感じの指示を出しています
1コリのどこの箇所だったかは忘れましたが、異教の神に捧げた食物は食べてはいけないと
言っていたことと矛盾するように思います

建前としてはユダヤ教的な食物規定は廃されたと語るものの
現実的にはやっぱり偶像崇拝につながり、よくない影響があるから
できるだけ異教の神に捧げたものは食うな、というのが本音といったところでしょうか
2022/08/21(日) 07:46:58.87ID:ZGt3pZbT
>>89
昨日と今日の聖句は使徒16:1-5 2;テモテ1;1-5 3:14-4:5です。

食物云々は1テモテですね。ややこしくてすみません。
91atheist
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2022/08/22(月) 02:59:49.71ID:r/yq4+KD
>>90
あれ、ほんとだw
2テモテのほうでしたね

ここではこれまたクリスチャンによって頻繁に引用される3:16が重要だと思います
もちろんここでパウロが言う聖書はヘブライ語聖書のことですが、キリスト教では
これを新約聖書にまで拡張して聖書の真理性を担保する聖句として用いてますね

4章の冒頭では忍耐をもって伝道に務めるようテモテを諭しています

1:5でテモテは祖母から始まる3代のクリスチャンであることが述べられているので
3:15に書いてあるように幼い頃から聖書に親しんできた筋金入りのクリスチャンであることが
察せられます
パウロにとってはテモテは最も信頼の置ける「弟子」だったのでしょうね
2022/08/22(月) 05:22:21.17ID:w5Oew7RL
>>91
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は2コリ3章です

この初期に代々クリスチャンが既にいたことに驚きますね
祖母と母はほぼ同時期に信者になったのでしょうけど
93atheist
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2022/08/23(火) 00:37:10.71ID:1q49Eyy6
>>92
古代では若くして子を生むことも多かったでしょうから
3代とは言え、それほど時は経過してなかったのかもしれませんね

さて2コリ3章ですが、ここは文字で書かれたモーセの律法と霊によるキリストの信仰を対比している
ように思われる箇所です
ただ例によってパウロの言い回しは直接的なものではないので、すんなりと理解できるものではない
ように思います

対比の表現として印象的なのは6節の「文字は人を殺し、霊は人を生かす」や
9節の「罪を宣告する務」と「義を宣告する務」などです

これは律法によって罪が罪として意識され、罪により死に渡される運命であったものが
キリストの贖罪によって罪から、つまり死から買い戻され、その信仰によって罪人は一転して
義と宣告される、といったことを述べているように読めますが、ここにパウロの旧約、新約という
契約の更新の認識が見て取れるような気がします

ただやはり言い回し的に判然としない部分が多いです
例えば13節から16節にかけて、モーセの契約に関して「おおい」がかけられており
キリストにあってその「おおい」が取り除かれる、といった類のことが語られます
この「おおい」とは具体的にどのようなことを言っているのでしょうか?
2022/08/23(火) 06:17:34.63ID:8UilOSFN
>>93
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は二コリ4章です。

覆いは出エジプトに
「34:33モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた。
34:34しかしモーセは主の前に行って主と語る時は、
出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、
その命じられた事をイスラエルの人人に告げた。」とあり
これに対してパウロス先生が
「 3:13そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、
顔におおいをかけたようなことはしない。」と仰せなのです

覆いで隠されている者は18節にある「主の栄光」ですね
律法に立つ人たちには覆いでかくされているが
キリスト教徒には覆いがなく直視できるのですが
しかーし直接みるのではなく
神を直接見ることが出来ないので、神の栄光も直接みれないので
鏡を通して見るそうです パウロス大先生の御意見では
95atheist
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2022/08/24(水) 01:12:46.18ID:qfx4q7I1
>>94
顔おおいというのは出エジプト記にちなんでいるのですね
律法に準拠していたユダヤ人は直接神の栄光を見ることはできないが
信仰に準拠するキリスト教徒はおおいなく神の栄光を見ることはできる、ってことですね
ただしなぜか直視ではなく鏡に映る像を間接的に見る、ということですが
ここはちょっと意味不明ですね

さて4章ですが、イエスの死を身に負っているがゆえに、イエスのいのちがこの身に現れる
というレトリカルな表現で、イエスの受難と復活にクリスチャンも与っているのだ、ということを
中心に語って信者を励ましている箇所だと思いました

まず気になったのは、3-4節です
ここでは「この世の神」が不信者たちの思いを眩ませているために
キリストの栄光の福音の輝きが見えなくなっている、と語っています
ということは「この世の神」というのは異教の神のことを指しているのでしょうか?

それから18節はキリスト教に限らず、Idealism(観念論、理想論)一般に見られる発想を
端的に表した文章だと思います
ここだけ見れば、そのままプラトンの言葉と言われてもまったく違和感がないほどです
直接的な関係はないにしても、キリスト教が西洋の思想史上、広い意味でのプラトニズムの系譜に
属していることがはっきりと分かる文章です
わたし自身はこのような「本質-仮象」「理性-感性」の二元的な枠組みの中で前者に究極の真理を求める
プラトニズムの考え方を取ることはありませんが、この一文はギリシャ思想とキリスト教を結びつける上で
極めて分かりやすい一文だと思いました
2022/08/24(水) 05:47:53.67ID:sMNk4XLU
>>95
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ5章です

「この世の神」。パウロが二元論的に、「真の神」と「この世を支配する悪しき神」を
想定していて有名なところですが、正統派キリスト教はパウロス大先生が二元論者だとは
認めませんので誤魔化します。そしてパウロス大先生は異端の二元論者ではないと主張します
でも実際は偶像崇拝を避難しているのですから異教の神のことです

略解曰く、「この世の神とはサタンのこと」
注解曰く「この世の神はエフェソ2;2の『この世を支配する者、すなわち不従順な者たちにも
働く霊の事である」
97atheist
垢版 |
2022/08/25(木) 01:33:31.44ID:SPi7RQrQ
>>96
パウロたちは異邦人の地で宣教を行ったわけですから、主にユダヤの地で教えを説いて回ったイエスと
違い、より鮮烈にユダヤの神と異邦の神の違いを意識していたのかもしれませんね
異教の神の力をある程度リアルに感じていたからこそ
それが異教の神に対する排斥的な態度となって現れているのかもしれません

イエスがヘブライ語聖書の伝統に伏在していた隣人愛の精神をもう一度復活させるべく
悔い改めを説いたのに対し、パウロらは異教からの改宗としての悔い改めに重点があったのかも
しれません

さて5章ですが、冒頭部は少し奇異に感じました
4節には「それ(地上の幕屋)を脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うから」と書いてあります
普通の発想だと、古い幕屋(地上での肉体やこの世の物質的状態か)を脱ぎ去って、
新たな建物(栄光の体や神の国の状態か)を纏う、となりそうなものですが、
パウロはここではっきりと古い幕屋の「上に」新たな建物を着る、と言っています

一方で8節では肉体から離れて主と共に住むことが願わしい、とも言っています
一見すると矛盾のように見えますが、これはいったいどのようなことを言っているのでしょうか?

それからもうひとつ注意を引いたのは、14-15節です
ここではキリストの死はすべての人の死であり、その死は生きている者が自分のためではなく
キリストのために生きるためである、と言っています
パウロのこの発想は「最後のアダム(第二のアダム)」として顕著に現れていますが
キリストとクリスチャンを一体化する発想で、個人主義とは真逆の発想です
パウロ的なキリスト教にはこのようなコーポラティズムが色濃く映し出されていると感じます
2022/08/25(木) 06:11:17.80ID:kVJk3s2W
>>97
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ6章です。

地上の幕屋は、比喩です。我々の肉体のことです。
つまりパウロス大先生は終末の時に自分は生きていて
肉体(地上の幕屋)の上に、永遠のいのち(永遠の家)を着ると言っているのです。

ただ実際には死んでいるクリスチャンが出て来ているので1節で
肉体が死んでも、大丈夫だよ。天で永遠の命が待っているといっているのです。
でも自分は生きたまま救われると。

4節と8節は矛盾しています。パウロス大先生は矛盾することを100%どちらも断言するので
コリントス教会の信徒たちから総スカンをくらったのです。どっちやねん、と。
4節では地上の肉体を脱ごうとは思わないと言い
8節では、地上の肉体を離れて神のもとに行きたい
ほぼバカですね

14-15節。これは屁理屈で本論は16接です。
「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」
2022/08/25(木) 06:17:00.14ID:kVJk3s2W
おまえは主イエースースを知らないでは無いかと
パウロス大先生は避難されてました。

それに対して、生身の肉、生きていたクリストスをかつては
しろうとしたが、もう知りたいと思わない。
復活のキリストだけが、私のキリストなんだと開き直った箇所です。

このパウロス流の理解があったので、
福音記者マルコと大げんかをして別れてしまったのです
マルコは主イエースースの思い出を大切にしたからです。

コーポラティズムだとしても、主イエースースを大切にする人たちからは
なんだ、こいつと思われて仕方ありません
100atheist
垢版 |
2022/08/26(金) 02:11:51.55ID:/7rtkz0+
>>98-99
生きているクリスチャンはそのまま救われると考えているのに
実際にすでに死んでしまったクリスチャンがいるため
説明が矛盾したものになってしまっている、っていうことですね

やはりここでも背景には、生身のイエスを知らないパウロに対する
コリント教会員の側の不信があってそれに対する反駁として
間接的に論を立てようとするために、読みにくいというか、おかしなことになってしまっている
という感じですかね

さて6章ですが、ここもまたパウロらしい対比的でレトリカルな文章構成になっているように思います
要は世の価値観から見れば、クリスチャンは不遇にあるようにみえるけれども
実際は大いに神の恵みに与っているのだ、と述べているようです

ここでパウロの言いたいことは、おそらく11節から13節の、自分を広い心で受け入れよ、ということ
なんでしょうが、ともかくそのあとの不信者と信仰者、キリストとベリアル、上の宮と偶像といった
二元的な対立軸が目についてしまいます

この章で気になったのは1-2節です

1節目で神の恵みをいたずらに受けてはならない、と忠告しているのに
2節目では今こそ恵みのとき、救いの日と言っています
矛盾とまでは思いませんが、この2つの節の脈絡がよく分かりません
今は恵みのときなのだから、これまで以上に注意して精進せよ、とか言うならまだ分かるのですが
101福音伝道
垢版 |
2022/08/26(金) 06:21:16.31ID:bm1vwFjV
>>100
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ7章です

「いたずらに」と訳された部分の原文は エン ケノン
~にという前置詞エン+無駄にというケノスの対格でケノン
なので、意味は
「神の恵みを無駄にしたらだめですよ」
「今は恵みの時ですよ 救いの日なんですよ」と勧告しているので
つながります。

古い人間の感覚では
「徒に」とは「徒労」とか「徒花」とか「無駄」という意味なのですが
最近では
「悪戯に」という語感の方が強くなり
神の恵みを必要以上にたくさん受けてはダメですよと読んでしまうのです
なので誤解が生じやすい古い訳と言えると思います

フランシスコ会訳は
「神から頂いた恵みを無駄にしないように」と現代風に訳しています
新改訳2017 新改訳第三版
「神の恵みを無駄に受けないようにしてください。と現代風
新共同訳
「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と現代風

対して聖書協会共同訳は口語訳に先祖返りして古風に
「神の恵みをいたずらに受けてはなりません。」系ですね
不思議ですね。訳担当者が高齢者だったのかもですね
102atheist
垢版 |
2022/08/27(土) 00:45:35.67ID:3tEJdx6l
>>101
なるほど、わたしの感覚の問題だったんですね
わたしは「考えもなく軽率に神の恵みを受けてはならない」というようなニュアンスで捉えてました
要は「恵みを受けてはならない」のほうに重点を置いて読んでいたので違和感があったようです

英訳(NIV)で確認してみると
we urge you not to receive God’s grace in vain.となっていて、口語訳とあまり変わりません
でもこの英訳だと「神の恵みを無駄にしてはいけない」というニュアンスで読めるのに
なぜか口語訳だとそうは取れませんでしたw
古い言い回しにはさほど抵抗がないつもりでいましたが、知らず知らずのうちに
現代的な使い方に影響を受けていたのかもしれませんね
その意味ではそういった誤解が生じないように工夫されたフランシスコ会訳や新改訳2017は
親切な訳だと思いました

さて7章ですが、パウロがマケドニアに着いて様々な艱難に会い、うちしおれていたときに
テトスがやってきてコリント教会のひとたちもパウロを慕っていることを知らせたために
パウロがそれを喜んでいる、といった内容かと思います

ただやはりここで言及されている「あの手紙」(8節)、「あなたがたを悲しませた」(8節)、
「処罰」(11節)、「あの問題」(11節)といったところが具体的にどのようなものかがわからないため
手紙の内容を判断することが難しいところです

「あの手紙」は1コリのことなのか、「あの問題」は偶像に捧げた食べ物を食べたことなのか等々、
こういったことは具体的に何を指しているのか判明しているのでしょうか?
103福音伝道
垢版 |
2022/08/27(土) 10:21:58.37ID:L6SQrcEa
>>102
atheistくん、おはようございます。
本日と明日の聖句は、使徒18:1-3 18-21 24-28 ローマ16:3-4

「あの手紙」(8節) コリントス教会でお金をくすねるという事件が起こった際に
パウロス先生が手紙で赦してやれと口出し、コリントス教会が大混乱し紛糾した事件
「あなたがたを悲しませた」(8節)のは、パウロス先生のアドバイスが頓珍漢だったため。

「処罰」(11節)、「あの問題」(11節) 横領した者をパウロス先生のアドバイスを斥けて
処罰したあの問題の事。
12節で損害を与えた「不義をした人のため」ではないと弁護しているが苦しい。

素直にあの時は間違ってました ごめんなさいとすべき箇所
104福音伝道
垢版 |
2022/08/27(土) 10:39:13.66ID:L6SQrcEa
キリスト教では

略解は
「あの手紙」(8節)を2:4の通称「涙の手紙」と解説しています。
「あの問題」(11節)は、二回目のコリント訪問中止になった事件と解釈しています

注解も「あの手紙」(8節)を涙の手紙としています。
「あの問題」(11節)は略解と同じ立場ながら、
「確実な事、具体的なことは定かではない」という穏健な立場です

フランシスコ会訳注 あの手紙は涙の手紙
「処罰」(11節)、「あの問題」(11節) パウロス大先生を侮辱したという問題。
パウロス大先生を侮辱した者をコリントス教会が処罰することで潔白を証明したと
でっちあげています。アホ言うな、という感じ。

岩波委員会訳も、あの手紙は涙の手紙
「あの問題」(11節)は何か不明という立場
105atheist
垢版 |
2022/08/28(日) 03:02:06.24ID:hAj2gZ10
>>103-104
「あの手紙」に関しては、各種コメンタリーは2章4節に出てきた「涙の手紙」を指していると
解釈しているわけですね
すぐあとの2章6節で「処罰」に言及されているところからもある程度妥当性はあるように見えますが
あくまでも一致しているのは「手紙」ということと「処罰」ということだけなので、説得力があるとまでは
言えないような気がします

対して

> 「あの手紙」(8節) コリントス教会でお金をくすねるという事件が起こった際に
> パウロス先生が手紙で赦してやれと口出し、コリントス教会が大混乱し紛糾した事件
> 「あなたがたを悲しませた」(8節)のは、パウロス先生のアドバイスが頓珍漢だったため。
>
> 「処罰」(11節)、「あの問題」(11節) 横領した者をパウロス先生のアドバイスを斥けて
> 処罰したあの問題の事。

という説は私には出どころが分かりませんが、内容的にはこれまでのパウロの手紙から
垣間見えるパウロの性格には合致しているような気がします

さて休日分はどうやらアクラとその妻プリスキラに関する箇所のようです
コリント、エペソでパウロに同行し、パウロを助けたという記述のようですね
ローマ人への手紙を読んだときには流してしまいましたが、ローマ16:4では
この二人はパウロの命を救うために「自分の首を差し出し」たと書いてあります
これはパウロの身代わりになって捕らわれた、あるいは刑を受けた、ということでしょうか?
106福音伝道
垢版 |
2022/08/28(日) 12:50:29.21ID:d/64ExGI
>>105
atheistくん、こんにちは。明日の聖句は2コリ8章です

「自分の首を差し出し」は、最大の賛辞ですが、具体的な事件については不明です

略解は1コリ15:32のエフェソスの事件かもしれないと推定を述べているが
107福音伝道
垢版 |
2022/08/28(日) 12:58:38.97ID:d/64ExGI
そこに二人の名前はあげられていない。
略解も特定できないとした上で注解と同じ立場。

フランシスコ会訳注もエフェソスの事件をあげて
かもしれないとするが、典拠は使徒19:23-40
こちらにも二人の名前は語られていない。

岩波委員会訳は言及無し。

諸注解は、断定できないとした上で、エフェソスの事件をあげているが
不明というのが、実際のところ
108atheist
垢版 |
2022/08/28(日) 22:54:51.64ID:hAj2gZ10
>>106-107
1コリのほうは「エペソで獣と戦ったとすれば」の部分ですが、これは例の闘技場でクリスチャンが
ライオンなどと戦わせられた、というやつですかね?
使徒のほうを確認すると、アルテミス神殿の模型を作っていた銀細工師たちに扇動されて
群衆が騒ぎ出した、という事件ですね

このふたつにエペソ以外のつながりがあるのかどうか分かりませんが
たしかにふたりの名前は出てきていませんので、断定はできないということですね
109福音伝道
垢版 |
2022/08/29(月) 07:04:33.99ID:nRCM0/uI
>>108
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ8章です

略解は1コリ15:32のエフェソスの事件かもしれないと推定を述べているが
1コリ15:32箇所では、「獣と戦った」は字義通りか比喩か意見が分かれる。
襲路楽過去にあったことで手紙の相手にはわかることを比喩的に語っていると
とるほうが無難であろうとしています。

だいたいロマ市民権のある者が闘技場で獣の闘わせられる事は無く、
闘うのは奴隷なので私は比喩と言う立場です。

パウロス大先生はものごとを大袈裟にいうのが好きなので略解らは、比喩と理解
した上でなんらかの事件があったという解釈です。
110福音伝道
垢版 |
2022/08/29(月) 07:06:22.02ID:nRCM0/uI
× 襲路楽
〇 おそらく
2022/08/29(月) 23:31:26.12ID:cLROqtVa
「統一教会」 が米国に寿司を広めた知られざる経緯. 日本人信者たちがいかに寿司企業を拡大したか.
東洋経済 2022/07/20 10:15
https://toyokeizai.net/articles/-/604521
2022/08/29(月) 23:32:05.14ID:cLROqtVa
アメリカの SUSHI レストランの8割を供給する 「統一教会」
現代ビジネス 2022.07.31
https://gendai.media/articles/-/98076?page=2
2022/08/29(月) 23:32:43.06ID:cLROqtVa
統一教会、日本人を使ってアメリカの寿司レストランで荒稼ぎをしていた
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1659351860/
2022/08/29(月) 23:33:27.09ID:cLROqtVa
旧・統一教会がアメリカで“生魚”を売り始めた 「意外な理由」 ─ 寿司ブームを支えた “日本人信徒たち”
ニューヨーク・タイムズ・マガジン
https://courrier.jp/news/archives/269954/
2022/08/29(月) 23:34:12.25ID:cLROqtVa
「アメリカに寿司を広めたのは韓国の統一教会」 米ニューヨーク・タイムズ紙報じる
Your News Online 2021年11月8日
https://yournewsonline.net/articles/20211108-sushi-in-america-unification-church/
2022/08/29(月) 23:34:43.19ID:cLROqtVa
反共、スシ、ライフル。統一教会とその 分派はアメリカでどう広がったか
週刊プレイボーイ 2022 05 01
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2022/08/01/116936/
2022/08/29(月) 23:35:26.43ID:cLROqtVa
宗教法人世界平和統一家庭連合周辺の和食系
https://www.navitime.co.jp/around/category/poi?spt=00011.030325428&category=0305
2022/08/29(月) 23:36:13.16ID:cLROqtVa
ニューヨークにあった統一教会系のレストラン
Ameba 2022年07月13日
https://ameblo.jp/satsuki-007/entry-12753153025.html
119HANADA🐙
垢版 |
2022/08/29(月) 23:36:54.86ID:cLROqtVa
「旧統一教会」は海外でどんなビジネスをしているのか 
IT media ビジネス ONLINE 2022/07/21(木) 7:48
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8365dd2dcf9528053dbfd9d869b33ddff2c5829?page=1
120WILL🐙
垢版 |
2022/08/29(月) 23:37:39.76ID:cLROqtVa
統一教会が日本の 「魚(豊洲)」、「肉(飛騨和牛)」 を世界へ
Ameba 2022年08月18日
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12759433165.html
121atheist
垢版 |
2022/08/30(火) 02:36:19.96ID:/qpZygMn
>>109
そう言えばパウロはローマ市民権保持者でしたね
だとするとやはり比喩と取るほうが適切だと考えられますね

さて8章ですが、ここは端的に言って、コリント教会の人たちに寄付を呼びかける箇所ですね

ただマケドニアの諸教会を引き合いに出して寄付を「競争」させるような文面になっていて
あまり感じのいい呼びかけには感じませんでした

暗に信仰や愛の大きさを寄付金の額で量っているから、それなりに出せよ、と言ってるみたいで
もっと素直にエルサレム教会の兄弟たちがお金に困っているから、できる限りでいいから
寄付してほしいと訴えかけたほうが素直にことばを受け取れるような気がしました

18節の「テトスと一緒に、ひとりの兄弟を送る」と言及されている兄弟は誰であるか
分かっているのでしょうか?
ここでは名前が書かれていませんが、なぜコリントにこれから行かせようとしている人物なのに
名前が伏せられているのでしょうか?
122福音伝道
垢版 |
2022/08/30(火) 05:32:57.06ID:iluPXPKe
>>121
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ9章です

パウロス大先生は、教会から金を受け取らず、自分の食い扶持を自分で稼ぎながら
伝道したというのが自慢なのてすが、この章では威張り腐った上で献金を呼びかけています。
しかも献金という言葉を使わず、「神の恵み」という概念を利用して
神があなたたちに恵んだのだから、あなたたちも貧しいエルサレム教会に恵みなさいと
命令しています。
その際にマケドニアの諸教会を引き合いにだしています。
フィリポイ、テサロニケ、ベロイアから献金を集めていたようです。
それでお前たちも出せ、その額で君たちの愛をはかるというような論調です

結局金をせびっているわけです。しかも偉そうにです。最低な人です
123atheist
垢版 |
2022/08/31(水) 02:51:17.45ID:N61GAsX6
>>122
こういうところは信仰を出汁にして献金を競わせるカルト的手法に近く
非常に危険な発想だと感じます

さて9章ですが、ここでは冒頭「聖徒たちに対する援助について」と書いてあります
まずこれは前章のエルサレム教会への寄付とは別のことなのでしょうか?

ここでも、「しいられてでもなく」(7節)とは書いてありますが、実際の文面は
ほとんど心理的に強制をかけるような言い方で援助を強いていると言っていいと思います

というかこの章を読んだら、繁栄の神学はちゃんとパウロに書いてあるではないかと
言われても反論できないような気がします

なぜぐだぐだ屁理屈など言わず、素直に援助を請えないのか、とどうしても感じてしまいます
124福音伝道
垢版 |
2022/08/31(水) 06:40:29.74ID:eMWs6al+
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ10章です

エルサレム教会への援助の事です。8章と同じ内容をくどくど
繰り返しているだけです

ところが教会は、この章と前の章を1-7章と別の手紙と解釈します。
略解曰く
「1-7章と8,9章は同じ手紙なのか、別々の手紙なのか議論されてきた。
ほぼ同時期に書かれた一つの手紙ではあるが、8章はコリントスへ宛てられた手紙
9章はコリントス周辺のアカイア州に宛てられた手紙である
あるいは9章は8章わ捕捉するために少し時間をおいてかかれたものである」
注解曰く
「前の章では献金への動機づけ。9章では自発的に献金することを強調している」

ただ献金するだけではなく、自発的に献金しなさいとカルト牧師の模範となっている
箇所ですね いわばみんなパウロス大先生の真似をしているのです

略解も注解も、89章を「エルサレム教会への献金」としています
2022/08/31(水) 07:39:24.27ID:qPJfMOSY
テスト
126atheist
垢版 |
2022/09/01(木) 01:09:48.36ID:qCOyUuLR
>>124
エルサレム教会への献金ということですね
ただ1節の「~については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はない。」という文言を見ると
前章の献金とは別物か、同じものだとしたら別の教会宛ての手紙が挿入されたように見えます
同じ献金で、同じ相手宛ての手紙だとすれば、前章でエルサレム教会への献金について語っている
わけですから、ここで「聖徒たちに対する援助(=エルサレム教会への献金)については、
いまさら、あなたがたに書き送る必要はない」という文言は成立しそうにないからです

ですから略解の「8章はコリントスへ宛てられた手紙、9章はコリントス周辺のアカイア州に宛てられた手紙」
あるいは「少し時間をおいて書かれたもの」というのは説得力があるような気がします

いずれにしても8章も9章も自発的にとは言いながら、相手の信仰を盾に献金を強要するような書き方に
なっていると強く感じます

さて10章ですが、ここでは間接的にパウロに対する周囲の評価がパウロの口を通じて語られているので
ちょっと興味深い箇所ですね

簡単に言ってしまうと、リングの外では虎のように振る舞うが、いったんリングに上がると
借りてきた猫のようになる、といったところでしょうか

こういった評価に対して、パウロは「いやいや甘く見るなよ、リングに上っても俺は虎だから」と
言い返しているように見えます

とはいえ、ここもまた具体的なことが書かれていないので、何が問題になっているのか分かりません
たとえば5節の「障害物」や「処罰」が具体的に何を想定しているのかがさっぱり分かりません

最後の18節の「主に推薦される人」というのは暗にパウロ自身のことを言っているように読めました
2022/09/01(木) 01:13:33.29ID:c2D9wb/p
テスト
128福音伝道
垢版 |
2022/09/01(木) 06:44:54.26ID:JjzI41Vp
>>126
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ11章です。

1節について、鋭いですね。原文は「あなた方に対して書くのは、私にとって十分である」なのですが
口語訳は九章は八章と別の手紙であるという立場に立つRSVを訳しているだけです。
RSVは「十分である」という部分を「必要ではない」と解釈しているのです

問題となるペリソスという形容詞の対格形で、原意は「通常の限度や必要量を超過している」という形容詞です
十分であると言った口でながながとまた繰り返すのがパウロス大先生流です

10章です
5節「障害物」の原文
129福音伝道
垢版 |
2022/09/01(木) 06:52:41.99ID:JjzI41Vp
10章です
5節「障害物」の原文は「高いもの」ですが、「高慢」のことですね

6節すべての不従順を罰すると言ってますね
お前たちは俺をコリントスにいるときはおとなしい。強気なのは手紙だけだと
言っているが、今度そっちに行った時は、俺に逆らう奴はすべて処罰するからな
と強がっている箇所ですね

パウロス大先生は、自分は主に推薦される合格者だと自認していましたが
コリントス教会はそう思ってなかったということですね
だって、たとえば美魔女がキリストから幻で使徒に任命されたと言っても
誰も説得力を感じないのと同じですね
そこでパウロス大先生は献金を集めてエルサレム教会からの評価をあげたかたのかもですね
2022/09/01(木) 17:16:38.62ID:+en19pRO
テスト
131atheist
垢版 |
2022/09/02(金) 03:26:32.48ID:XdPKQaNj
>>128-129
1節の口語訳は特定の解釈に基づく意訳になっているわけですね
たしかに「あなた方に対して書くのは、私にとって十分である」であれば
前章からの連続であってもおかしくはないような気がします

5節の「障害物」は「高慢」で、「処罰」は不従順に対する処罰ということですね

コリント教会ではパウロが生前のイエスを知らないことに対する疑念があって
それに対するパウロの反論というのが手紙の底流にあるため
「主に推薦される人」といったある種奇異な表現が出てきたのかもしれません

さて11章ですが、この章は5節にあるように、「大使徒たち」に対する対抗意識が強く出ている章だと
思いました

12-13節の「わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者ども」「にせ使徒」は
この大使徒たちではないでしょうが、パウロに対抗するような使徒たちなのでしょう

後半は今まで如何に自分が苦難にあってきたのかを「誇っています」
ここもまた23節にあるように「彼ら以上に」キリストの僕として苦難を経験してきたことを
切々と訴えています

こういったところからも異邦人への伝道が、かならずしもパウロ派によるものだけではなかったことが
わかりますね
132福音伝道
垢版 |
2022/09/02(金) 06:38:22.49ID:CJnZ8YlV
>>131
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ12章です。

パウロス先生は、コリントス教会を自分で開拓したと自負されてました。
そこに他の宣教師がやってくると激しく嫉妬されました。
で、3節純情と貞操を教会員に強要しているわけです。

その上で5節大使徒と祖肉を言っているわけです。大使徒は原文では
スーパー使徒です。日本語訳は通例では「大使徒」と訳することになっていて
口語 新共同 新改訳第三版 新改訳2017 岩波委員会訳は大使徒
フランシスコ会訳 聖書協会共同訳 田川建三訳は「お偉い使徒」「あの偉い使徒」「お偉い使徒」
と訳して皮肉感も訳出しています。
私は今後は「スーパー使徒」と訳する訳が出て来ると思います

13節のにせ使徒はスーパー使徒のことですね。
パウロス大先生と違う福音を伝える宣教師を「偽使徒」とみなしている箇所です
色々な潮流が宣教していたわけですが、その中でパウロス先生はむしろ
異流だったのです。
異流ではあったが後代パウロス派が本流というか、この流れのキリスト教しか
ないのでわれわれは誤解してしまうわけですね

ただ23節以下、パウロス先生はかずかずの苦労の中で宣教していたようです
すごい熱量ですね。普通ならくじけるところですが、このがんばりはすごい
しかしパウロス先生は苦労したから俺は本物だと言っておられますが
論理的にはそれはつながりません 別の事柄です
2022/09/02(金) 12:23:13.40ID:XdsFqUjG
テスト
134atheist
垢版 |
2022/09/03(土) 01:09:56.57ID:ClTWVDvk
>>132
「大使徒」でもそれなりに皮肉は感じられますが「お偉い使徒」等のほうが
ダイレクトに皮肉が感じ取れますね

「にせ使徒」もその「大使徒」のことなんですね
もうこのころからキリスト教内では正統と異端の熾烈なせめぎ合いがあったのだろうということが
察せられます

23節以下は、信仰や伝道にまつわる受苦が、キリストとの一体化を示すものとして
ある意味で信仰の真実を推し量る尺度のようなものになっていたということなのかもしれません

さて12章ですが、ここでも前章の「大使徒」との比較を引きずりつつ、パウロ特有の逆説的な
言い回し(9節、10節など)で、自分の正当性を切々と訴えかけているように感じました

14節に「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。」とありますから
すでに二度コリントには赴いていて、三度目の来訪に備えてこの手紙を書いているということが
わかります

16節に暗示されているように、おそらくコリント教会やそこを訪れた他の使徒などから
パウロはコリント教会から寄付を集めそれを私用に供したかのような噂が流れていたことが
伺いしれます

この手紙が終始、弁明口調になっているのはこういった背景があるからなのだろうと感じます
135福音伝道
垢版 |
2022/09/03(土) 06:50:33.48ID:6E3u5HJB
>>134
atheistくん、おはようございます。
本日と明日の聖句は使徒9;36-42 ヤコブ2:14-26です

12:2に第三の天と出てきます。第一の天が空。第二の天が宇宙。
第三の天が我々の行くパラダイス。神は第四の天に住むと古代人は考えてたそうです
と聞いたことがあるのですが、田川建三に拠ると
同時代のヘノク書は七層の天が描かれており、ヘノク自身は第六まで登ったそうです
また十二族長の遺言の「レヴィの遺言」には三層の天が出てき、第三天までレヴイが見たとあるそうです
三層と七層の二系統があるとのこと

16節 エルサレム教会への献金はパウロス先生が言い出して勝手に集めたものですので
エルサレム教会から来た信徒、あるいは宣教師らが
エルサレム教会は、あなたがたから献金を集めたりしてませんよとコリントス教会で言ったのかもです
それを聞いて、なぜ献金を集めているんだと疑念が生じ
中にはパウロス先生がエルサレム教会をだしにして私腹を肥やそうとしてるのでは?みたいな憶測を産み
それがパウロス先生に聴こえ、激怒したということかもですね
2022/09/03(土) 17:30:46.48ID:kMVrwOIl
テスト
137atheist
垢版 |
2022/09/04(日) 02:30:06.13ID:PXiFnwEw
>>135
あ、そういえば第三の天についても聞こうと思ってたのに忘れてましたw
少なくとも古代人にとっては「天」というのは精神的な領域というより実在する物理的な領域だったんですね
以前復活体について議論した際に調べた時も、古代人にとっての天は
現代人が考えるような霊的精神的な存在であるというよりも確固とした物理的実在性をもったものという
結論でした

エルサレム教会への献金は依頼されたものではなくて、パウロが自主的に要求していたんですね
そうだとすると疑われることがあったのはよく分かります

さて休日分ですが、使徒がタビタを復活させたペテロの話、ヤコブはしばしば信仰義認に関して
取り上げられる、行いを強調した箇所ですね

ふたつの関連はよく分かりませんが、ヤコブの箇所は一見信仰義認に反することばに見えますが
(実際それゆえにルターは正典からヤコブを取り除こうとしたくらいですから)
「行いを伴う信仰」を強調したもので、わたしにはごくまっとうなことばのように感じられます

22節にある「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」というのがそれを
よく示していると思います

ここは何も信仰義認に対立する箇所ではなく、行いに現れるほどの信仰でなければ意味がない、
あるいは真に信仰を深めれば、それは行いに必然的に現れるものだ、ということだと思います
138福音伝道
垢版 |
2022/09/04(日) 06:54:16.37ID:9eusL/nB
>>137
atheistくん、おはようございます。明日の聖句は2コリ13章です

ペテロは十字架の時、3度イエースースを否んだへたれですが
ペンテコステの後は聖霊によって力強く歩みだしたことになっています
(教会の作り話)
つまりペテロは信仰を行動によって証ししていたわけです。
ヤコブの個所も、信仰があるならば行為せよということですね

教会が信徒たちに行動を喚起しているのかもですね
惰性で教会に通っているだけの方も多いでしょうし

2:26霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
などを読んでルターは
藁の書と言って嫌ったのかもですね

信仰によって救われるという位相と
信仰ゆえに愛の実践をするという位相は別の様な気がします。
自分が救われるために、災害ボランティアや募金をしているわけではないでしょうから
139atheist
垢版 |
2022/09/04(日) 21:29:34.75ID:huZ2NaTl
>>138
> つまりペテロは信仰を行動によって証ししていたわけです。

なるほど、行為ができなかったヘタレのペテロが果敢に行動によって信仰を証しするまでになった、
と解釈する教会の観点から、使徒のこの箇所とヤコブをつなげたってことですね

わたしは親鸞はよく知らないのですが、ルターは悪人正機説とよく似てるんじゃないかという
感じがします

善行を行えない悪人こそ一心に神(仏)にすがるしかないのだから
その信仰こそ救いの契機となる、罪人(悪人)は自分が罪人(悪人)であることを自覚するからこそ
直接的に救いの対象となる、といった感じでしょうか

かたや「恩寵のみ」、かたや絶対他力、と語られる表現は違っても
信仰の構造は驚くほど似通っているように思えます
140福音伝道
垢版 |
2022/09/05(月) 05:31:16.27ID:jV5yGlaw
>>139
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ13章です
救いの主体が本人から、神(阿弥陀)に転換されている所は同じですね。

ちなみに親鸞は「他力」。明治以降の真宗が「絶対他力」と言い出して広がりました。
他力=本願力に、絶対も総体もございません。ただの他力です
141atheist
垢版 |
2022/09/06(火) 01:46:59.63ID:cCEogkKX
>>140
真宗が明治期に、おそらくは浄土宗との違いを明確にしようとして「絶対」という形容をつけたって
ことなんでしょうかね

さて13章ですが、いつの間にか2コリも最終章になってましたw

もちろんこの章は手紙最後の挨拶ということにはなりますが、その前に
パウロはかなり強い調子で「前に罪を犯した者たち」その他に対して悔い改めを求めているようです

3節でパウロは「あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を求めているから」と
理由を語っていますが、この「キリストの」というのは古文調で、「キリストが」ということでいいのでしょうか?
そうだとすると、要はパウロが真にキリストにおいて語っているかどうか疑念を持つ人達に向けて、
言い方は悪いですが、キリストの絶対性を盾にして「容赦しない」ことがパウロがキリストにおいて
語っている証拠だ、と言っているようで、どうもキリストの権威を笠に着て強引に自分を認めろと
迫っている印象があります

それに関連して7節でパウロにしてはおそらくは珍しく「良い行い」を促しています
パウロは、信仰や愛や希望を強く語ることはあっても、直接的に「良い行い」に言及することは
あまりなかった印象があります
ここもどうしても前段からの流れで、この「良い行い」というのはパウロに疑念を持つなと言っているように
感じられてしまいます

この辺は単なる私の邪推かもしれません
少なくとも教会の信仰者は、そういった教会政治的な意味ではなく
純粋にそのまま「良い行い」として受け取っているのでしょうし、信仰としてはそれで良いのだろうと思います
142福音伝道
垢版 |
2022/09/06(火) 06:22:11.75ID:xsw70Irh
>>141
atheistくん、おはようございます。先日の聖句は雅歌1-2章です。

3節の「の」は仰せの通り、主格の「の」ですね
最新訳の聖書協会共同訳
「なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。」

そもそもコリントス教会に他の宣教師らがやってきて、直接イエースースの話を聞いたことのある
者たちから教えを受けて、パウロス先生は「俺の中のキリストが語っている」と言うけれども
それは本当か、何を根拠にそう言えるのか証拠をみせてほしいと思っているのです。

それに対してパウロス先生は幻覚で会ったキリスとを否定されて立腹し
個人的でかなり偏向した倫理観をキリストの命令だと押し付けたことの証拠を出せず
結局は自分の言う事を聞かないとキリストの権威をもって裁いてやるぞと脅しているわけです

ほぼあほだし、最低人格なのです
143福音伝道
垢版 |
2022/09/06(火) 06:31:16.22ID:xsw70Irh
1コリで伺い知れたコリントス教会とパウロス先生のトラブルは
偏狭倫理観を巡る問題です

1..信者になったら結婚するな・・・譲歩しているが基本姿勢は維持
2.偶像崇拝者とつきあうな・・・譲歩しているが基本姿勢は堅持
3.神殿に捧げられた肉を食べるな・・・理屈では問題ないとしつつ、悪霊と交わる行為と断固否定
4.女性は髪を覆いなさい・・・堅持
これをキクリストスが言っているとパウロス先生主張したが
イエースースを知っている他の宣教師が否定

そこで2コリでは
1.パウロス先生のクリストスは本物なの?問題が起こった
2.エルサレム教会への多額献金強要問題
この二つの是非が問われたのです

そしてパウロス先生は、俺に逆らったら裁いてやると言うのみで
合理的な説明をしていないのです
144atheist
垢版 |
2022/09/07(水) 02:13:16.25ID:NYtai6DR
>>142-143
実際にイエスから直接話を聞いた使徒の教えとパウロの教えの間に齟齬があるということを
背景に、コリント教会ではパウロに対する疑念が
1. パウロが出会ったキリストの真偽
2. エルサレム教会への献金強要
という2つの問題に集約されて問われた、ということですね

パウロはそれを有効に説明できなかったために強圧的な口調になっている、と

パウロのキリストに対する神学的解釈は今日のキリスト教の礎を築くものですが
同時に具体的な倫理観については偏狭な教えを残してしまった側面があるわけですね

さて今日からは雅歌ですが、これはちょっとえっちい本ですよねw
最初に読んだときは、なんで聖書にこんなえっちい本が収録されたんだろうと疑問に思いました

ぶっちゃけて言うと、男女がお互いの容姿をエロく賛美しあっているだけの恋歌集のように感じました
ただ途中で主役の男女以外の人の発言も入ってくるのでちょっと混乱します

1章で印象に残ったのは6節で、乙女の側が日焼けを恥じているところです
イスラエルでも女性は白い肌が美しいという価値観があったんだなあ、と

2章は冒頭、「シャロンのばら」が出てきますが、シャロンさんは自分のコテハンをここから取ったんでしょうかね

2章で印象に残ったのは若く美しい人の容姿を喩えるのにかもしかや鹿が用いられていることです
これもまた文化を問わず若く美しい容姿の形容として使われることが多いんだなあという印象です

どうでもいいことですが、6節の「彼の左の手がわたしの頭の下にあり」の「頭の下」って
どこだか分かりませんw
顎の下のことですかね?
2022/09/07(水) 03:36:07.46ID:bU6eH+gm
テスト
146福音伝道
垢版 |
2022/09/07(水) 05:39:45.12ID:Q1LDOS4t
>>144
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は雅歌3-4章です。

フランシスコ会訳注によると、BC4-3c、パレスティナにおいて書かれ、内容は
若者と乙女が互いに慕い合い、相手の美しさを称賛し、終わりに結ばれる
という展開になっていて六つの歌からなっているが互いの歌に横のつながりはなく
独立しているとのことです。
しかしAD1C末頃に「比喩的解釈」が生まれるとユダヤ教でもキリスト教でも
雅歌はエロティックな肉体的愛を称賛する歌であるという考えは払拭され、
花婿はイスラエルを愛する髪であり、花嫁は唯一の神を愛するイスラエルの民である
とする考え、キリストと教会、神と聖母マリア、キリストととキリスト者の霊魂と解釈される
ようになり、キリスト教ではオリゲネス以降、この解釈が定着し古代教父、中世の神秘家
によって多くの注釈が書かれているそうです。

わたし個人的には、ある女性クリスチャンが雅歌のエロティックで甘美な愛を
キリストと自分との関係のように読み、信仰の甘美さを味わっている方を見て
なるほど信仰的に読むひとつの具体を見た事があります
147福音伝道
垢版 |
2022/09/07(水) 05:59:59.55ID:Q1LDOS4t
対してハーパー注解は手厳しい。
聖書の中で唯一の恋愛詩であるとし、伝統的に
霊的アレゴリーとして正当化してきた。
神とイスラエルの民、キリストと教会、個人の魂との愛と
解釈することは想像力に富み感動的ではあるが
テキストの本来の意味を開明するものではないと一刀両断にしています。

理由として、人間の愛が語られ、神についてはまったく語られてない
ではないかとハーパー注解は主張します。まあその通りなんですがw

6節の「彼の左の手がわたしの頭の下にあり」
つまり、彼女が男性に腕枕をさせているということですね。
恋人同士が、恋人に腕枕してもらうと、
後頭部の下に相手の腕がちょうど枕のように下に来ます
そして他方の腕で男性は女性を抱くというとてもエロティックな状況です
2022/09/07(水) 16:57:07.25ID:Xt1lzwTF
テスト
149atheist
垢版 |
2022/09/08(木) 03:40:22.00ID:J4F9+Enj
>>146-147
けっこう書かれた年代は新しいんですね
もっと古いと思ってました

花婿と花嫁を、神とイスラエルの民、あるいはキリストと教会のように解釈するのは
わたしもコメンタリーなどで読みましたが、普通の解釈としてはかなり無理がありますよねw
おっぱいとか出てくるのに、どうすんだ、とw

ただ雅歌の元の意図を離れ、いわば創造的解釈として
信仰の観点から寓意的に解釈するのはありだと思います

先生が挙げた女性クリスチャンの例はよく分かるような気がします
ピッピさんもキリスト信仰がキリストとのエロティックな関係と重なっている時期がありましたね
このように女性信者にとっては教会的解釈は比較的受け入れやすいのかもしれません
男性はおっぱいのところで躓くと思いますw

テキストの本来の意味という点ではハーパー注解の言うとおりだと思います

「頭の下」については目からうろこでした
完全に立った姿勢を思い浮かべて考えていたので、いったいどこなんだろうと思ってましたが
なるほど横になった姿勢であればたしかに後頭部ですね

さて3-4章ですが、3章はなんのことやらわけが分かりません
とりあえず意中の彼になんとか出会って母の部屋に入り、これから事に及ぶのかと思えば
5節では彼は寝ちゃったんですか?

しかもそのあとはソロモン王が出てきて、いったい何のつながりがw

4章は花嫁を様々な比喩で賛美しまくってる章ですね
途中(9節)から呼びかけが「わが妹、わが花嫁よ」となってますが
花嫁を妹に喩えているのでしょうか?
150福音伝道
垢版 |
2022/09/08(木) 05:22:45.71ID:Dr3UkIaN
>>149
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は雅歌5-6章です

フランシスコ会訳注は、BC4-3cとしていますが
ハーパー注解によると、成立年代は決定出来ないとしたうえで
学者の諸説はBC950-BC200に及ぶと紹介しています。
保守派はできるだけ古い成立を推定し、リベラるは若い成立説ですね

1-4節は花嫁の歌ですね。
寝室に彼氏がいなかったので外に出て探し回り
ようやく発見して寝室まで連れ帰ったという歌です

5接は、花婿の歌です
彼女が自然に目覚めるまで寝かしてあげるという歌ですね

二つの歌にそもそもつながりはありません

教会的解釈では、
花婿を探す花嫁は、神あるいはキリストを探し求める信仰者のこととなります。
パウロがダマスカスでキリストに遇ったように
夜の闇の中で神を探し求め、主に邂逅すると読むようです

6節からは、第三の歌がはじまります。また別の歌なのです
6-11節はソロモン王と王妃の結婚を唄った歌だそうです
ややこしいですよね こんなの注解がなければわかりません
151福音伝道
垢版 |
2022/09/08(木) 05:22:53.77ID:Dr3UkIaN
フランシスコ会訳注によると
4:9 妹という語は広い意味を持ち、同部族の人々、友情を表す言葉
として用いられもするそうです。
福音派によると
妹(アホーティ)は、血のつながった妹のことだ
古代中近東では同族結婚は当たり前であった。
イブはアダムから作られたし、サラはアブラハムの血縁者であった
イサクの妻リベカ、ヤコブの二人の妻レアとラケルもみな血縁者だと言ってます。
152atheist
垢版 |
2022/09/09(金) 01:53:54.39ID:xQu9o2Jj
>>150-151
成立年代は確定していないのですね

5節は花婿の歌で、6節からはまた別の歌だったんですか
前置きもなしに歌っている人が変わると訳分かんなくなりますw

とりあえずヘブライ語で「妹」ということばはかなり広い意味で使われているってことですね
福音派の解釈では古代の同族婚を背景に血縁者と解釈してる、と

さて5-6章ですが、ここもまた途中で前触れもなく歌う人が変わっているようです
5章は1節の呼びかけ(わが妹、わが花嫁よ)で男の歌と分かりますが
2節では戸口にいる者が「わが妹」と呼びかけているので、歌の主は女になっているようです
以降はそのまま女の歌になっているように読めますが、9節以降は8節に呼応する形で
歌われているので、これまた別人の歌のようです

6章は5章の終わりに続いてその「別人」が歌っているようですが
2節からは1節に呼応して女の歌になっているようです
ところが8節からは王妃が出てきますから、これまたさらに別人の歌が混じっているように読めます

それにしても比喩は大仰なものが多く、なかにはいったいどんなイメージなのか想像がつかない
ものもあります
6章の6-7節など、さっぱり分かりませんw
頬の比喩がざくろの片割れって、グロテスクなイメージしか浮かびませんw
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