>>55
本来はエルサレム教会への献金を各地の教会から集めていたことに対する
各教会の不満を、パウロは自身の生活費を集めていることに対する不満と
聞き間違えたわけですね

その上で、宣教に対する対価は本来もらって当然だが、自分は無報酬でやってる、
なのに不満を言うとはどういうことか、不満を言わずにエルサレム教会に献金しなさい、
とこんな感じで説得しようとしてるってことですね

途中で論旨がすり替えられちゃってますね

23節は「福音にあずかるため」ではなく、自身が福音の共同者として福音を伝えているのだ
という内容なんですね
これだと逆になっちゃいますね

さて10章ですが、ここもまた偶像礼拝(崇拝)に関することを述べた章ですね

11節まではモーセの例を引いて、偶像例はをしたり、不品行を行ったり、主を試したりしたものは
滅ぼされた、と言ってますが、このへんは民数記の具体例に言及しているのですかね
ただそれを教訓とするのはいいとしても、これらのことが起こった理由を「世の終わりに臨んでいる
わたしたちに対する訓戒のため」とするのはどうかと思います
単なるレトリックかもしれませんが、モーセの時代にはモーセの時代の生きた人々が
神と対峙し対話したわけであって、パウロの時代の人のための教訓として滅びたわけではないはず
だからです

あと気になったのはやはり20節です
これだと異教の偶像崇拝は悪霊に対する崇拝だと言っているに等しく
こういう態度にキリスト教を排他的な性格を与えてきたのだと思います

一方で26節のように地に満ちているものは神のものなのだから、良心を咎めることなく食えと
言っているのに、こと偶像へ捧げられたものに対する態度は一変して偏狭なものになっているような
気がします