>>73-75
一応34-35節をパウロの筆ではなく後の挿入と考える学者もいるのですね
文献学的な推定の妥当性は私には分かりませんが、単純にこの箇所は
文脈上かなり突飛な箇所だったので、ちょっと不思議に思いました

逆にこの箇所がパウロの真筆だと考える学者によると
挿入どころか、この箇所こそこの章でパウロが言いたかったこと(結論)となるわけですね

背景的にはパウロを批判する女性預言者たち(あるいは異言をする多くの女性?)がいて
その女性たちを黙らせるために、異言ではなく預言を推奨し、さらに礼拝秩序を強調し
結論へのお膳立てをした、と考えるわけですね
その流れで本来言いたかった女性の沈黙遵守という結論にもっていった、と

さて15章ですが、前半はイエスの復活に関するパウロの認識を、後半はそのイエスを初穂とする
クリスチャンの復活の体(栄光の体)に関するパウロの認識を書き記しています
その意味でパウロの手紙の中でも極めて重要な箇所だと思います

この章で気になった部分はまず6節の「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」という箇所です
福音書にも使徒行伝にもこれを示す箇所はなかったように思いますが、ここは単なる誇張なのか
それともパウロの独自の認識なのか、あるいは福音書や使徒行伝とも整合する認識なのか、
このへんはどうなんでしょうか?

後半の復活体に関しては以前なるみやぴっぴさんたちといろいろ議論したことがありますが
蒸し返してもしょうがないので、端的に言えばパウロは
朽ちるべき肉の体(soma psychikos、直訳的には魂の体でしょうが、
要は今実際に生きている自然状態の体)から朽ちることのない霊の体(soma pneumatikos)へと
終末とともに一瞬にして変えられるのだという認識を示しています

質問はその本筋とは直接関係ないのですが、56節の「罪の力は律法である」という箇所がよく分かりません
ここはローマ人への手紙で書かれていたように、律法によって初めて罪を罪として認識できるということと
関係ありそうですが、あまりにも単純化されていて意味不明です
実際のところは何が言いたいのでしょうか?