>>83
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はニコリ2章です。

15節以下をどの本文を採用するかで解釈が別れていて確定してません。
大きなポイントは、二度目。実際に行ったのか、計画だけだったのか。

二度目を行ってないと解釈する主流派は、矛盾する10-13章を他の手紙が流入した
という説を立て、コリントスの手紙四手紙説を提唱します。
第一は喪失 第二が1コリ 第三の一部が2コリ10-13章。第四がニコリ。
私は二度目を行って、ボコボコにされて、第三度目の訪問を計画していると読みます
つまり
「まずあなたがたの所に行き、 1:16それからそちらを通ってマケドニヤにおもむいた」
そして
「そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てた」が
後半の計画はまだ実現していない。

23節の寛大は、本来ならば罰を与えに訪問するべきところを遠慮したという意味です。
原文動詞は、通常は「モノ」に対して使われて「節約する」という意味の語で、「人」に対して用いるのが
パウロス先生流なのですが、「今回は遠慮して罰を与えるのをやめておいてやる」という意味。
そしてその猶予期間に、おまえたちは悔い改めとけというのが含蓄されています。

何が問題か。行かずに反省の猶予期間を与えたのに、まだ改めないので
やっぱり行って懲らしめるぞという手紙です 12章13章に出てきます