>>94
顔おおいというのは出エジプト記にちなんでいるのですね
律法に準拠していたユダヤ人は直接神の栄光を見ることはできないが
信仰に準拠するキリスト教徒はおおいなく神の栄光を見ることはできる、ってことですね
ただしなぜか直視ではなく鏡に映る像を間接的に見る、ということですが
ここはちょっと意味不明ですね

さて4章ですが、イエスの死を身に負っているがゆえに、イエスのいのちがこの身に現れる
というレトリカルな表現で、イエスの受難と復活にクリスチャンも与っているのだ、ということを
中心に語って信者を励ましている箇所だと思いました

まず気になったのは、3-4節です
ここでは「この世の神」が不信者たちの思いを眩ませているために
キリストの栄光の福音の輝きが見えなくなっている、と語っています
ということは「この世の神」というのは異教の神のことを指しているのでしょうか?

それから18節はキリスト教に限らず、Idealism(観念論、理想論)一般に見られる発想を
端的に表した文章だと思います
ここだけ見れば、そのままプラトンの言葉と言われてもまったく違和感がないほどです
直接的な関係はないにしても、キリスト教が西洋の思想史上、広い意味でのプラトニズムの系譜に
属していることがはっきりと分かる文章です
わたし自身はこのような「本質-仮象」「理性-感性」の二元的な枠組みの中で前者に究極の真理を求める
プラトニズムの考え方を取ることはありませんが、この一文はギリシャ思想とキリスト教を結びつける上で
極めて分かりやすい一文だと思いました