>>96
パウロたちは異邦人の地で宣教を行ったわけですから、主にユダヤの地で教えを説いて回ったイエスと
違い、より鮮烈にユダヤの神と異邦の神の違いを意識していたのかもしれませんね
異教の神の力をある程度リアルに感じていたからこそ
それが異教の神に対する排斥的な態度となって現れているのかもしれません

イエスがヘブライ語聖書の伝統に伏在していた隣人愛の精神をもう一度復活させるべく
悔い改めを説いたのに対し、パウロらは異教からの改宗としての悔い改めに重点があったのかも
しれません

さて5章ですが、冒頭部は少し奇異に感じました
4節には「それ(地上の幕屋)を脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うから」と書いてあります
普通の発想だと、古い幕屋(地上での肉体やこの世の物質的状態か)を脱ぎ去って、
新たな建物(栄光の体や神の国の状態か)を纏う、となりそうなものですが、
パウロはここではっきりと古い幕屋の「上に」新たな建物を着る、と言っています

一方で8節では肉体から離れて主と共に住むことが願わしい、とも言っています
一見すると矛盾のように見えますが、これはいったいどのようなことを言っているのでしょうか?

それからもうひとつ注意を引いたのは、14-15節です
ここではキリストの死はすべての人の死であり、その死は生きている者が自分のためではなく
キリストのために生きるためである、と言っています
パウロのこの発想は「最後のアダム(第二のアダム)」として顕著に現れていますが
キリストとクリスチャンを一体化する発想で、個人主義とは真逆の発想です
パウロ的なキリスト教にはこのようなコーポラティズムが色濃く映し出されていると感じます