宗教板避難所3
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>>362 ということは意図的にそういった表現を使ったというよりも 信仰集団内で一般化していた表現をルカは使ったってことですね 1章8,9節のことばは申命記からなんですね とするとバビロン捕囚を念頭に置いたものではなく、アッシリアの侵略を念頭に置いたものなんでしょうね 「奴隷」に関しては字義通りには奴隷と訳せるけれど、サンバラテの地位やユダヤ人との対立関係を 考慮すると、蔑称的に使っているだけで、実質的には役人とか部下といった地位と考えていい ということですね それならしっくりきます 関係ないですが1月の電気代、3万近くいってますw 食料品が上がってたいへんどころの話じゃないですw >>364 atheistくん、おはようございます 本日の聖句はルカ2章です。 ぴっぴさんも月3万円らしいです。おそろしい。。。 うちは1万円ちょっとです 電気ポットをやめて、魔法瓶に変えたりしています >>365-366 うちの場合は関東ですから、基本的に東電から電力が供給されるわけですが 実際の契約(電力の小売)がどこであるかによって、電気料金は違ってくるみたいですね わたしの場合は基本的に夜寝るときもエアコンつけっぱなしにしているので それが高い電気代の一番の原因だと思います ぴっぴさんの場合はどういう使い方をしているかわからないのでなんとも言えませんが 直接契約しているところの問題かも知れませんね さてルカ2章です イエス誕生の場面とその後の経緯、さらには少年の頃のエピソードについて書かれた章ですね 今回気になったところは、32節のシメオンのことばです ここでははっきりと「異邦人を照らす啓示の光」という言い方で 異邦人の救いを視野に入れた記述がなされていますね わからなかったところは同じシメオンのセリフの35節です マリヤに向かって「あなた自身もつるぎで胸を刺し抜かれるでしょう。」と言っているのは これはイエスの受難を経験しなければならなくなるマリヤの悲しみのことを言っているのでしょうか? そして「それは多くの人の心nある思いが、現れるようになるため」とはどういうことなのでしょうか? >>367 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ3章です。 家人に確認しますと先月の電気代は8000円台でした。冬場はエアコンはお休みしています。 32の異邦人の原語エトノスは民族の複数形ですので「諸民族」が直訳となります。 ユダヤ教的に諸民族というと異邦人のことのようですが、言葉自体もう少し広いです マリヤに向かって「あなた自身もつるぎで胸を刺し抜かれるでしょう。」と言っているのは 8:19-21で、主イエースースがあなたの母が来ていると言われたのに、 「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。と答えたことですね こういう対応を母マリアがされたのは息子がおかしな活動をしている。気がふれたそうだ 連れ戻そうという「思い」でやってきたためですね。 神の御言葉を聞いて実践していた主イエースースからすると邪魔者だったわけですが 息子からこういわれては母としては、自分のプシュケー(魂)を剣で刺し貫かれたような気になるということです。 そして多くの人も主イエースースの実践活動に対面してどう行動するかで、心の中の思いが 露わにされる。馬鹿にして敵対するのか、救いを求めて信ずるか露わにされると予言しているわけですね しかしキリスト教では母マリアに対して特別感情があり尊敬しているので 息子が磔にされて刑死することを指していると解釈されています。 すると次の句とのつながりが不明瞭となるため、マリアについての本文を『』に入れて挿入句扱いとしています。 これは翻訳の底本となるネストレが原文にない「? これは翻訳の底本となるネストレが原文にない記号を挿入して「挿入句」としているので 諸訳はそれに従っているわけですがキリスト教は正々堂々と改竄を行っています 口語訳 ―― 2:35そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。―― 新共同訳 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―― 聖書協会共同訳 剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。 新改訳第三版 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。 新改訳2017 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります 新改訳と聖書協会共同訳は、ネストレの挿入句記号を無視していますね >>368-370 8000円は安いですね やっぱりエアコンが金食い虫のようですね 聖書で出てくる「異邦人」という和訳はほとんどエトノス(諸民族)なんですか? 文脈上「異邦人」と読み替えても大きくは支障がない場合が多いとは思いますが ニュアンスレベルで変わってきますね マリヤに対することばに関しては、それなら文脈がちゃんとつながりますね 「あなた自身もつるぎで胸を刺し抜かれるでしょう。」ということばは、それ単体では イエスの受難に対する悲しみと読むこともできますが、そうするとその次のことばと つながらなくなって、どういうことなんだろうと思ってました (ゆえに和訳や英訳では挿入句として処理されてるんでしょうね) 一応コメンタリー等も調べてみると、ほとんどがやはりイエスの受難に対する悲しみと解釈するか あるいは曖昧にしていました マリア崇敬が教理となっているカトリックではどうなんだろうと調べてみると 驚いたことに、Catholic Study Bibleはルカ11:27-28、ルカ8:20-21を挙げて、先生と同様に解釈してました WBCでは「この難しい節に対して提案された様々な意味のリストについてはR.E.Brownを見よ、的な 感じで、様々な解釈があることを示唆していましたが、やたら長かったので読むのを断念しましたw さて3章ですが、洗礼者ヨハネの説教・洗礼とイエスの受洗の場面ですね ここはマルコとマタイ・ルカ共通資料からとったものらしく、マタイと非常によく似てますが ルカでは10-15節が独自のようです ここでルカは貧者への施しや誠実な仕事などを説いています またマタイと違って、イエスの受洗の理由がすっぽり抜けていますね イエスの受洗は説明しにくいところだったのかも知れません 外形的にはこんなところだと思いますが、マルコ、マタイと比べて、ルカの記述の特徴は どのようなものと考えればいいのでしょうか? >>371 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ4章です。 数年前の電気代は我が家も2万円台だったみたいですね 乾燥機をやめ、冷蔵庫、TVが省エネ家電となり、こまめに電気を消す ようになると2万円近く節電できるようです。 民族はエトノスのほかにラオスがありますが、このラオスは民、聖職者や王に 対して庶民というニュアンスが多いですね 現代語的には「他の」という形容詞アレスの名詞化のアロダボスが異邦人で 使われていますが、聖書には出てこないですね 皇帝テベリオ在位の第十五年・・・という「でだし」はルカが「我、歴史家なり」という意識で書いてますね。 その上でヨハネのバプテスマをはじめた年に、主イエースースもバプテスマされて、 その年から公活動が開始されたという意識があります。 一方で3:23で「およそ30歳」とありますが、この時、AD28年ごろ、まだ22歳なので矛盾していますね つまりルカは歴史家ぶっているが、実際上はあまり史実の年代と合致しません。 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき も間違いですね 大司祭は一人です。同時に二人いることはないです。 受洗については、主イエースース絶対主義のルカは、ヨハねから受洗したということを なるべく触れたくなかったようです。そこでさらりと書いているようです。 なぜなら授洗者は。受洗者の師匠になるからです。 >>372 そんなに劇的に節約できるのですね すぐに省エネ家電に替えることはできませんが、こまめに電気を消すのはできそうです ラオスと言われて気づきましたが、エトノスは英語のethno, ラオスはraceですね ただraceに庶民というニュアンスはないので、ここはギリシャ語独自のニュアンスってことですね ルカの特徴としては、歴史家のようなスタイルで書いてはいるが、 細部がいろいろ史実とは違っていて、史実に関しては吟味が必要って感じですね マタイは例によって預言の成就という伝家の宝刀で理由付けしていますが ルカの場合は、それすらもためらわれたってことでしょうかね さて4章は、悪魔の試みからガリラヤへの帰郷、そしてそのときのエピソードについて書かれた章ですね 今回気になった箇所は、23節から30節までの「故郷で歓迎されない預言者」のところですが 22節を見るとみながイエスを褒め、簡単しています イエスはそれに対して、なぜそれを突っぱねるようなことを言ったのでしょう? わたしがちらっと考えたのは、26-27節のエリヤとエリシャの例で、シドンやシリアの例を挙げているところが ひとつのヒントになっているのかなと思いました もちろんイエスはその後もユダヤの地で癒やしをしたりや奇跡を起こしたりするのですが ルカの頭にはやはりユダヤ人ではなく異邦人にイエスの教えが広まるという宣教のコンセプトが あるのかなと感じました あとは昨日も出てきた家族との不和というか、家族の不審というか、ともかくイエスの過去をよく知っている 郷里のひとたちの間に実際にイエスを気が狂ったと思った人たちが多かったことを説明するための 逸話なのかなとも思いました >>373 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ5章です。 ルカはルカ・使徒二巻をセットで書いたのですが、全体を通しての主張は ユダヤ人が主イエースースを捨てたので、主イエースースを信仰する キリスト教はユダヤ人らを捨てて異邦人世界へ向かっていたのだ、です。 で、14-30節という最初の説教で、故郷から主イエースースが拒絶される様を 描いていますが、個々の要素はそれ以前の伝承を利用していますが 大枠のストーリーはルカの創作です。 22節は伝統的な誤訳ですね。 口語訳 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。 新共同訳 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 聖書協会共同訳 皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 新改訳第三版 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。 新改訳2017 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1593723623/646-647 スロージューサー訳 そしてみんなが彼について証言していた。 そして彼らは彼の口から出て来る恵みの言葉らに接して不思議に思っていた。 そして彼らは云っていた「この者はイオセーフの子ではないか」 が、正確な訳です。 なぜ軒並み「褒め なぜ軒並み諸訳が「褒め」「驚き」と誤訳するかといいますと 権威ある辞書であるバウワーがマルテイレオーという「証言する」という動詞を 「褒める」も訳語であると間違って記載しているからです。 「驚く」の方は誤訳ではないのですが、あいつ変なことをしている「いぶかしげに思う」という 動詞です。「不思議に思っている」「いぶかる」という意味の「驚く」を口語訳は 驚嘆する、から 「不思議に思っている」「いぶかる」という意味の「驚く」を口語訳は 驚嘆する、から「感嘆する」という訳語を思いついたみたいですね で、次節とつながりが悪くなったわけです。 原文はすんなりとつながります >>374-377 なるほどルカは、ユダヤ人のイエスに対する拒絶→異邦人への伝道というのが 執筆の大きなコンセプトになってるわけですね 22節はKJVとその系列を除いてはほぼみんな"speak well of (褒める)"と"be amazed (驚嘆する)" あるいは類似の訳をしていました KJVやNKJVあるいはYLTといった訳のみが"bear witness (証言する)"と"wonder(不思議に思う)"という 訳をしていました KJVの後継はRSV、NRSVともに前者に変わってましたね 聴衆のセリフが「これはヨセフの子ではないか」となっていることからも 聴衆は権威を持ったイエスの口ぶりに訝しさを感じている流れになってますから 「褒める」というのはやや不自然な流れになりますね 逆に訝っているとすれば、すなおに次のイエスのことばが繋がって文脈が通ってきますね さて5章ですが、癒やしの奇跡譚をはさんで、弟子をとる箇所が描かれた章ですね 最初のペテロとヤコブ・ヨハネ兄弟の箇所はマルコやマタイのようにシンプルなものではなく 奇跡を交えたエピソードになってます ルカはなにかとこういった話を骨格のエピソードに付け加えるようです イエスの言葉としては31節以下が有名なところですが 「古い着物」や「古い皮袋」が取税人のような罪人を忌避するユダヤ教の宗教的慣習と 考えていいのでしょうか? >>378 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ6章です。 4:22の動詞εμαρτυρουνは三人称単数未完了で原形は μαρτυρεωですので、マルテイレオーは誤りで、マルツレオーでした。失礼しました。 これはμαρτυσマルツスという「証人」という名詞を動詞化したものです。 証言するには、誰かにとって良いことを証言したり、悪いことを証言したりするわけですが 良いことを証言することもあり、創薬せる場合もあります。バウワーはその例をヒックアップして マルツレオー自体に「褒める」という意味があると考えたわけですが、バウワーの影響力の大きさは絶大です。 マルコの場合は「古い着物」や「古い皮袋」は、ユダヤの古い慣習であり 新しく生じた主イエースースがそういうものを破っていくということを主張していましたが ルカはそれを理解できなかったので、単に新しいものと古いものをいっしょにしたらいけないという 教訓としてしまった箇所です。で、ぶどう酒の方はさらにひどく 「ぶどう酒はふるものがよい」という格言を付け加え、自分の理解力があんぽんたんであることを暴露してしまいます。 主イエースースの論旨は逆です。新しいものがよいんです。 確かにワインは良い収獲年の古いヴィンテージが愛されているのですが・・・ >>379 調べてみたら A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Cristian Literature, 3rd ed というのがわたしのLogosのライブラリーに入ってました 思いっきり宝の持ち腐れですw で、NABの改訂版訳でそのマルツレオーがどのように訳されているかを調べてみると 81例中、「褒める」という意味で訳されているのはルカの4:22と使徒の16:2、22:12の3例だけでした 他に「尊敬」や「立派な」といった肯定的な意味で使われているもの(これは品詞が違うので文や句 単位での訳になっていてその一部なのでしょう)が2,3例ほど、であとはすべて証言するという系列の 訳でした 「古い着物」や「古い皮袋」に関しては、わたしも単純にそう思って読んでいたのですが 最後の39節で、あれ?これじゃ逆になってない?と思って、ルカの文脈では違うのだろうかと思いました さてルカ6章ですが、ここは有名な話がてんこ盛りになっているところですね 安息日に関する教えから始まって、十二弟子の選び、20節からはルカ版の山上の垂訓+αという ところでしょうか ルカ版の山上の垂訓は簡潔なマタイ版と比べて、いろいろと敷衍されているようです というか、イエスの説教をここにまとめてぶち込んでいる印象です 今回目についたのは説教の内容ではなく、17節に言及されている地名にツロとシドンがあるところです この時点でルカは異邦の地からも教えを請う人や癒やしを求める人が来ていたという描写をしていますが これは実際のところ、どうなんでしょうか?善きサマリア人にしても、ルカはマタイに比べ異邦人を 強く意識しているように感じます あとは例によって、ルカの「貧しい人は幸いだ」とマタイの「心の貧しい人は幸いだ」は どちらが元のイエスの教えに近いのか、これは以前も聞いたと思いますが ルカの方がすっきりとして分かりやすいものの、マタイはなぜわざわざ分かりにくい「心の貧しい人」と いう表現をしたのか、まあいろいろ議論はあるところだと思いますが、先生はどのようなお考えでしたっけ? >>380 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はネヘミヤ4:1-6:16です。 レキシコンの紹介をありがとうございます。 私の持つWilliam D. Mounce著(NIV翻訳委員会の委員 つまり福音派) THE ANALYTICAL LEXICON TO THE GLEEK NEW TESTAMENT p309では to testify,depose to give evidence to bear testimony,testify ルカ4:22はここですね to be the subject of testimony,to obtain attestation tocharacter to make a solemn appeal です。42.99$です 褒めるは無いですね これがメインラインの玉川『新約聖書ギリシア語辞典』p3109では 1.証言する、証しする 10箇所 2.ほめる、称賛する to give a good report,admireで、ルカ4;22他7箇所 となっています。 17節の平地。直訳だと「足の場所」です。 さてマルコ 3:7それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。 またユダヤから、 3:8エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、 ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた ルカ そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、 ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、 6:18教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。 ルカはガリラヤを消去して、まずエルサレム中心主義を出します。 イドマヤとヨルダン対岸地域も削除しています。 さてルカに記述はありませんが、マルコ7:24以下では主イエースースがツロに行かれています。 つまり宣教区域内ですね 事実かどうかはわかりませんが、マルコなどを読むと治癒を求めて大勢が各地から やってきたという記述となっています。 マタイの「心の貧しい者」はマタイ神学による改竄です。 で、マタイは神の国を天の国と改竄しています。 >>381-382 レキシコンをつらつらと眺めていて気づいたんですが、これって英語のmartyr(殉教者)と同語源ですね martyrの語源を調べてみると、ちゃんとwitnessと載ってました 教えに殉じるということは教えが正しいことを命を持って証しする、ということですね わたしも先生が言うように、「褒める」などと訳さなくても元来の「証言する」で十分だと思います 文脈によっては「正しさを証言する」→「それを肯定的に断ずる」→「褒める」というような意味合いになる こともあるんでしょうが、そういった意味合いがある場合でも「証言する」で通じるように思うからです 17節についてはマルコにもツロやシドンが言及されているんですね ということは少なくともルカが独自に異邦人に言及したのではないですね ただルカの場合は、ガリラヤを消去しているということは、「故郷では歓迎されない」という考えが ここでもルカの頭にあったのかも知れませんね 「心の貧しい者」については、ルカが元でマタイはそれに「心の」を付け加えた、ということですね マタイはイエスの説教を、より精神主義的に捉えようとした、ということでしょうか さて休日分はネヘミヤですね ネヘミヤたちが神殿の城壁工事をするのを邪魔しようとする異邦人たちの箇所です 目を引くのは5章で労働者たちが多い債務に喘いでいるのを聞いたネヘミヤが 利息を帳消しにするように求めるところです 11節で「~などの百分の一を返しなさい。」と書いてありますが、これって利息が1%だったという ことなのでしょうか?だとしたら意外に少ないように感じます >>383 atheistくん、おはようございます。明日月曜日の聖句はルカ章です。 11節の原文に百とあり、1/100のことです。口語訳をみると利子の1/100を返済となっていますが 「彼らから取っていた金銭、穀物、ぶどう酒、油などの百分の一を返しなさい」は 「彼らから取っていた金銭、穀物、ぶどう酒、油などの利子を返しなさい」が本当の意味だと思います 新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳は利子と訳しています。あえて1/100と訳してないです。 おそらく利息が1%という低利ではなかったと思います。 レビ人が祭司に納める金額が民から1/10を受け取り、受け取った中から1/10を、つまり1/100を 祭司に渡していたので、利子の事を100と表現するのかもですが、裏をとれませんでした 申し訳ございません >>384 またまたいくつかコメンタリーを調べてみると、やはり先生の言うように この百(分の一)という表現は実質的に利子を表している、と解説しているものがありました またなかには1%というの月1%、年利にして12%ということであろうと解説しているものもありました New American Commentaryは上記のような説を受けた上で、仮に年利で12%だとしても 古代中東では破格に安すぎるので、ここは単純に利子を意味すると解釈したほうがいいだろうと 書いてました >>385 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ7章です。 なるほど月1%で、年12%ですか。複利ですと6年で倍になりますね 問題は捕囚されて貧乏になって娘を外人に売っていたという状況から 解放されたのに、ユダヤの中に貧富の差が生じると、同朋から利子を 取るということが生じ貧しい者らが娘を奴隷として売るということが 生じたことですね。 なので担保を返却し、利子を取るなと言っているわけです >>386 城壁の建設作業や外敵からの防衛作業などで、みんな一丸となって頑張らなければいけないときに 貧富の差に乗じて同朋の貧者をむしり取るようなことはするな、ということですね さてルカ7章です ここもエピソードが盛りだくさんの箇所ですが、まずは百卒長の信仰の話、次に死者復活の話し、 そしてそれらを伝え聞いた洗礼者ヨハネとそのヨハネに対するイエスの評価の話、そして罪の女の話ですね 百卒長の話はユダヤ人に優る異邦人の信仰の例ですが、3節でユダヤ人の長老たちを遣わして 僕を助けに来るよう頼んでいるのに、6-7節ではご足労には及ばない、家に迎える資格はない、 自分が迎えに行く値打ちが(自分には)ない、と言ってます これはどういうことでしょうか? まあともかくも百卒長はイエスの権威を認めていますから、イエスはこの信仰を褒めちぎってますね 百卒長のエピソードに比べると、若者の復活の話は実に淡白に済ましてますw ヨハネに関しては、人間のうち最大の者とこれまた褒めちぎりますが、神の国では最小の者らしいです ということはここで神の国とルカが書いているのは天使やらがうじゃうじゃいる天国ということになるんで しょうか? 罪の女はヨハネのときにもやりましたよね 先生によるとラザロの姉妹、マリアとマルタの話であるということだったと思います 一方ルカは正体を明かしてませんね 教訓としては、多く許されたものが多く愛す、あるいは多く愛したものが多くを許されるという話になってます >>387 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ8章です。 百卒長の話はマタイとルカは共通資料に基づいて互いが脚色していますが ユダヤ人のマタイは百卒長が直接、主イエースースに語りかけていますが 異邦人ルカの百卒長は、ワンクッションおきます。 なぜかというと異邦人ルカにはユダヤ人というものは、異邦人から直接語り かけられるのを嫌がるものだというイメージを持っていたからです。 穢れた異邦人のわたしが、ユダヤ人であらせられる主イエースース様にお目にかかる 資格はないという謙遜ですね。 そして奴隷を癒すのは、あなたの言葉(命令)さえ頂ければ充分である、と。 「癒されよ」という言葉さえ頂けたら、奴隷は治癒します。 それだけの権威が主イエースース様はお持ちです、と百卒長が友人を遣わして 言ったので、主イエースースが百卒長の信仰の深さをほめたわけです。 手を奴隷においていやさなくても、言葉だけで治ると信じているからですね では、長老たちにも、そう申して派遣したらいいのにとという疑問はありますが なにせ創作されたルカ独自の設定ですからね。 ナインの息子の復活の話は平行記事無しのルカ独自の話ですね 死人をよみがえらせることができるという話を入れておきたかったみたいですね またルカはユダやの地名をすべてポリスと書きます。 ナインもポリスと言われていますが、村です。ルカはユダヤの実態をわかってません >>388 ルカはしばしば反ユダヤ主義と言われることがありますが、わたしはルカの福音書からは 直接的であからさまな反ユダヤ主義は感じません それでもことあるごとに異邦人の信仰を称揚し、ユダヤ人の頑なさや悪意を語る語り口に 間接的な反ユダヤ主義を感じることがあります ここでもルカ独自の脚色に「ユダヤ人は異邦人から直接語りかけられるのを嫌がる」という ルカのユダヤ人像が反映されているということですね ルカがユダヤの実態をわかっていないというのも、ルカのユダヤ人に対する「偏見」を助長しているのかも しれませんね さて8章ですが、ここもまた有名な話が目白押しです まず前半は種まきの喩え、中盤は嵐の鎮め、次にゲラサの豚というか悪霊追い出し、 最後は少女の復活と長血の女の話ですね 2節でマグダラのマリアが初めて出てきますが、ルカでは「7つの悪霊」が憑いていたことになってます 19-21は前にも話題に出たマリヤや兄弟に対するイエスの言葉ですね ゲラサでの悪霊のエピソードは元ネタ的なものがあるのでしょうけど、ここもイエスの神の子としての 権威を示すエピソードになってますね マグダラのマリアに7つの悪霊が入っていたり、ここではレギオンと言われるほど大量の悪霊が入っていたり してますが、悪霊そのものはサタンではないですよね? ではこの悪霊はいったいどこからやってきたものなのでしょうか? どこから、というのは、場所的な意味ではなく、初期のキリスト教で出てくる悪霊は 宗教的には何に由来しているのでしょうか? 一応キリスト教では堕天使が由来されていると思いますが、ヘブライ語聖書では 新約のように実体化した悪霊はほとんど出てきてないと記憶してます この堕天使という説明は初期のキリスト教でもあったんでしょうか? ないとすれば、最初に戻りますが、いったい新約聖書で頻繁に出てくる悪霊は いったいどこからきたのでしょうか? >>389 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ9章です。 ゲラサでの悪霊、原文は悪霊ではなくて、ダイモニオンです。神霊です。 ソクラテスさんが信仰した神霊ですね。 ただ29節で「不浄なる霊」と言っているので、ルカの時点で ダイモニオンは神霊というより、キリスト教がソウヤクシテいるに「悪霊」的ニュアンスですね 人間と神々の中間に位置する、あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で、下位の神格や死んだ英雄の霊など だったものが、異教の霊的概念であることもあいまって キリスト教では「人間を誘惑したり、苦しませたり、取り憑く悪霊」を意味するようになったようです。 なのでこの概念はヘブライ語聖書にはなく、ギリシア語聖書独自の概念です。 背景には、ヘブライ語聖書では神が善悪共に直接なる一元的な霊的な超越者だったのが 新約では神は善のみを担当し、悪はサタナス/ディアボロスが担当するようになります。 霊についても、善なる「聖霊」と、独自に大活躍している「ダイモニオンら」がいたわけですね そしてダイモニオンは、「アカタルトス 不浄な」とよばれています。 さてヘブライ語聖書を丹念にみると悪霊のプロタイプはありますが、神によってコントロールされています 土師記9:23では、神が悪霊「ルーアッハ・ラーアー」を送ったとあります。 神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、 シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。 これが、新約では神の支配下を離れて独立活動者となるわけです、善悪二元論のグノーシス的な 世界観にあるのがキリスト教の文化なのかもですね wikiによると 「ヘブライ聖書」には本来、堕天使という概念は登場しない。 天使の堕落の伝説の早期の例は、後期ユダヤ教諸派において成立した、 後に偽典と呼ばれることになる文書のひとつ「エノク書」にあらわれる。 このエノクの伝承は、ヘレニズム期のユダヤ教セクトであるクムラン教団を特徴づける 「善と悪の戦い(英語版)」の観念とともに原始キリスト教に影響を与え、 これによって堕天使の概念はキリスト教の基礎の一部となったと考えられている とあります >>390-391 いつの頃からダイモニオンが「悪霊」扱いになったのかわかりませんが 福音書で描かれている姿は、やっていることから見ても、イエスと対立する様から見ても いわゆる悪霊的な振る舞いになってますね たしかサムエルを読んだときにも神がサウルに「悪い霊」を送る場面があったような気がします 先生に言う通り、ヘブライ語聖書では良くも悪くもこういった霊的存在は神に従属していて まさに神による一元論的な世界観で記述されていたと思います 新約聖書で善悪の「役割分担」が行われるようになったのは、やはり第二神殿期から ユダヤ教に影響を与え始めたゾロアスター教の影が大きかったのではないかと感じます キリスト教における堕天使というか、堕天というロジックは一元的な神から 善悪二元論的な世界を生じさせる意味では、よくできたロジックだとは思いますが 具体的な由来としては、エノク書とエッセネ派からの影響ということですね さて9章ですが、ここもまた盛りだくさんなので、今回気になったポイントに絞ってみますあ まずは3節ですが、イエスはなぜ最低限の着衣以外は何も持たないように指示したのでしょうか? 次に14節では「男が五千人」と書かれてますが、イエスに付き従った者のなかには女性もいました なぜここは男のみとなっているのでしょうか さらには27節ではイエスの再臨は長くても数十年以内であることが暗示されていますが ルカの福音書はパウロの手紙よりずっとあとに編集されています パウロはこの前も読んだように後期になってから、終末遅延の言い訳をし始めていますよね? だとしたらパウロに随行していたルカも後期パウロの終末遅延のロジックを聞いていたはずだと思うのですが ここでは近接した終末についてのイエスの言葉を語っています このへんはどう考えたらいいのでしょうか? あとは54節のヤコブとヨハネのことばはさすがにどうなのでしょうかw >>392 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ10章です。 が、不幸がございましたので、しばしお休みさせて頂きます。申し訳ございません。 https://wlpm.or.jp/manna/my-calendar/ 一応貼っておきます 3節、なぜかはわかりませんが、マルコでは杖以外はとなっているところを ルカは杖もダメとなっています。仏教の出家に近い感覚でしょうか 14節、古代人は人数に男性のみを記録したようです。女性は眼中になかったみたいです 27節の平行か所マルコ9:1では 9:1また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。 ルカ8:27 9:27よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」 ルカはマルコの「力をもって来るのを」を削除することで、マルコでは時間的な終末的現実であったのを 無時間的宗教真理へと転換しています。 救われたもののみが神の国つまり宗教的真理を視れますと。 この説はコンツェルマン『時の中心』です >>393 あら、それは大変ですね 故人のご冥福をお祈りします 一応日課として先生がいない間も読み続けていきますが、感想や疑問はごく簡潔にします もちろん先生はレスをなさらなくても大丈夫です >>394 なるほど仏教の出家に近い感覚ですね さすがに5千人全員が男ということもないでしょうから頭数を数えるときに 男で数えるのが慣用だったんでしょうね なるほど、時間的な終末問題を無時間的なものに変えることで終末遅延問題を回避してるってことですね さて10章ですが、前半はミッションに送り出す弟子たちに対する指示ですね 後半は善きサマリア人の喩えです 最後はマルタ・マリヤ姉妹の話ですね 中盤ではカペナウムとツロ、シドンを例に出して、かなり辛辣に故郷(周辺)を批判しているようです 前半の指示の部分はかなり事細かで具体的な指示になっているので、これは ルカの時代の実際の伝道の規律をある程度反映したものなのかなと思いました さてルカの11章です 冒頭の主の祈りに続いて、「求めよ、さらば与えられん」の説諭、それから悪霊に関する話、 さらには邪悪な時代に関する話、最後はパリサイ人や律法学者の形式主義に対する舌鋒鋭い批判 といった流れになってます 今回気になった箇所は、まず27-28節です ここでイエスはマリヤよりも神の言葉を聞いて守る人をはっきりと上に置きます それから後半のパリサイ人や律法学者に対する批判ですが 流れ的にはパリサイ人がイエスを食事に招き、イエスが食前に手を洗わなかったのを見て 不思議に思った、というのを受けてイエスの批判が始まります この流れ自体にはパリサイ人の悪意や罪はありません それに対するイエスの批判は内容はともかくその辛辣さはいかにも突飛な印象を受けます またここはルカの反ユダヤ主義が強く出ている箇所であるようにも感じます 休日分ですが、土曜と日曜に分かれているので、一応土曜分について書きます ヨハネの10章の1-18と27-29です 7節では「わたしは羊の門である。」と言ってますが、11節では「わたしはよい羊飼いである。」と言ってます 前者は救いはイエスを通らなければならないこと、後者は導き手としてのイエスを語っているのでしょう ともかく、イエスを通り、イエスに従うことで永遠の命が得られる、ということを強調しているようです 今日はルカの12章ですね ここはずっとイエスの説教や喩え話が続いているところです 偽善に気をつけよ、すべてを見通す神を恐れよ、といった説教のあと 愚かな金持ちの喩えが続き、さらに思い煩うなという説教をはさんで 目を覚ましている僕の喩え、最後はまた平和ではなく分裂をもたらすために来た という説教ですね まあひとつひとつ吟味する価値があるものがたくさんありすぎて簡単にはまとめられませんw 前にも書いたかも知れませんが、27節はイエスの言葉の中でも最も好きな言葉のひとつです 今日はルカの13章です 前章に続いてイエスの説教と譬え話が主になっています 冒頭イエスは今の災難は必ずしも他者より罪が重いからではない、悔い改めなければ みな結果は同じ、と述べています その次のぶどう園といちじくの木の喩えは「ある人」が神(父)、園丁がイエスの比喩であると 思いました ぶどう園は直前で言及されたエルサレム、あるいはイスラエル全体でしょうか その次は18年間病気を患う女の話で、例によって安息日の癒やしですね さらにからし種の喩えが続き、ルカ版狭き門、などの説教が続きます 今回気になったのは32節です 「あのきつね」はものヘロデのことを指しているのでしょうか そうだとしたらすごい言い方をしたもんだと思います >>396 atheistくん、こんにちは、ご迷惑をおかけしております。 27-28節は、平行記事がないので主イエースースの発言というより 教会内で27節のようなことを言う女性たちがいて、 教会の説教者たちが、それに対して28節を偉そうに言っていた感じですね 後半は訳は「手を洗う」ですが、原文のバブティソ゜ーは、身体全体の沐浴か身体を洗うことなので もつとおおげさな言葉です。食事前に沐浴をする習慣はユダヤになかったので 訳者は気を利かせて「手を洗う」と訳していますが、おおげさな表現でユダヤを皮肉っている わけですので、ちゃんと訳してほしいと思います。 最初に皮肉ったのはマルコですが、それを読んだルカは沐浴するのがユダヤの風習と思い込んではいます。 で、論旨はあなたがたは、身体の外側全体を洗うが、身体の内側全体は貪欲と邪悪とで満ちている という批判となっています。 手を洗う、洗わないということではなしに、親鸞『正像末和讃』 に 「外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」という詩がありますが、 似たような意味だと思います。外見は立派だが、中身が貪欲で邪悪と。 >>397 真理、永遠の命に至るための「門」ですね また同時に雇われの羊番ではなくて、羊のために自分の命をも投げ出す 「良い羊飼い」ですね。 ヨハネは、「羊飼い」「門」「良い羊飼い」と思い付きでいろいろと表現を変える 癖があるようです >>399 27節は有名ですね しびれる聖句です。 >>400 実をつけないイチジクの木の譬えは、「ある人」が神(父)、園丁がイエスですね 神に対して十分に悔い改めていないクリストス信者を、主イエースースが神へ取りなして 下さっているという図ですね きつねは、ヘロデのことです。 これはたぶん主イエースースが言った言葉が伝承されている可能性が高い文章です 31-32節が伝承で33節はルカのイデオロギーとなります。 >>401 お帰りなさい たいへんだったことと思いますが、もう落ち着かれたのでしょうか? くれぐれも無理はなさらず、十分事態が落ち着いてから、お戻りください わたしは気長に待っています 11章27-28節はルカ当時の教会の状況を反映しているということですね 「手を洗う」の箇所はバプテスマのバプティゾーってことで全身浴的な意味ですね これじゃ「手を洗う」とはまるっきり意味や程度が異なってきちゃいますね 外見は立派でも中身が邪悪、という批判は福音書の中でイエスが何度も表現を変えて言ってますね >>402 「門」と「羊飼い」はなにかもっと意図があるのかと思ったら、そうでもなさそうですねw きつねはそのままヘロデのことでいいんですか それにしてもここまで辛辣なことばを使うとは… もしかしたら日本語の「きつね」とはイメージが違うのかも知れませんが 33節は次の34節に合わせてルカが独自に挿入したって感じなんですかね さてさて今日は14章です 冒頭はまたまた安息日の癒やしについてですね 次は婚宴の喩えで、意味はイエス自身が11節で説明しています 12-14節はちょっとおもしろい喩えです 見返りがない人に対する善行のほうが復活後の報いが大きい、ということみたいですね 見返りがある善行は自己利益につながるものなので、無償の善行を心がけなさい、ということですかね 次の喩えも貧者、病人こそ神の国に招き入れられるべき、といった話で、直前の話と連動していそうです ただそうすると24節が、読み方にもよるでしょうが分かりにくくなります ここでの「招かれた人」は貧者たちではなく、そのまえの16節で招いた人ということでしょうかね 最後は親兄弟や命まで捨てる覚悟がないと弟子にふさわしくはない、ということのようです >>403 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ15章です。 心遣いをありがとうございます。取り急ぎの手続きは一段落致しましたが まだ初手続きのすべてが終わったわけではないのと、五七日忌、七七日忌、 百日忌(納骨)、初盆など今年は京都行が増えそうです。 おそらくは一泊二日となります。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。 狐について検索してみましたところ、福音派では、「臆病」の比喩として捉えてました。 一般的には「賢い」で、そこから「ずる賢い」というイメージがあるが、 逮捕されて殺されることを畏れていないと、言ったと解釈した上で、その弾圧者を 「きつね=臆病者」と揶揄したとのことです いづれにせよ、平行記事がないので、ルカの気分だと思われます。 14節 招かれた人々は、正規招待客ですね。彼らは用事を理由に言い訳して出席を断ったので 主の食事を味わうことは無いのですね。直前の強制連行された身体障碍者や貧しい人たちや たまたま居合わせて声をかけられた人たちは、招かれたというより、連行された人たちですね >>404 京都まで行ってらしたんですね これからもまだ諸手続きや法要・法事などで空けられることがあるとのこと、了解致しました 一応先生がレスできない場合でも、そのまま普通に書いていきますね きつねは日本だと狡猾というイメージがありますが、それでもどちらかというと好意的な印象があります 向こうの狡猾という点では共通したイメージを持っているようですが、「臆病者」というのは 古代ユダヤ人、あるいはその後のキリスト教のイメージなのかも知れませんね なんにしても動物にに喩えるくらいですから、けっこう辛辣なことばとして書かれたのでしょうね 24節はやはり正規の招待客(16節)のことで、あとで出てくる貧者や障がい者は含まないのですね 後者はたしかに「無理やりひっぱってきなさい」と書いてあるので強制連行ですねw ここでは自発的意志を伴わない強制連行なので悔い改めはどこ行った?と思いましたが まあ社会的弱者こそが救われるというメッセージなのでしょうね さて15章ですが、罪人の悔い改めがテーマとなっている章ですね 冒頭はいなくなった羊やなくした銀貨の喩えで説明し、そのあとに例の放蕩息子の喩えがきます 基本的にはどれも罪を犯した人の悔い改めはいっそう喜ばしいこととして描かれています 特に放蕩息子の喩えは最後に兄の不満が書かれていますが、これは律法を守ることが正しいことと されていたユダヤ人の社会でおそらくはしばしば見られたであろう罪人への蔑視を背景に 罪人が悔い改めることを素直に喜ぶことができなかった律法学者やパリサイ人に向けての 鋭い批判があるように思いました ただこれはそういった人たちだけでなく、おそらくほとんどの人が反射的に感じてしまう不満も 表しているように思います つまり我々自身の中にある狭量な心を映し出す喩えとしても読まれるべき話になっているように 思いました >>405 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ16章です。 京都行でご迷惑を書ける場合はどうぞよろしくお願いします。 15章はルカ神学が炸裂しています。 罪びとが罪を自覚し悔い改めれば、赦されて救われるという神学ですね 1.失われた羊の譬え・・・本来は失われていた羊が見つかった喜びを中心に語られて いた主イエースースの語録を悔い改めは偉いという話にしてしまった 2.失われたドラクメの話・・・1ドラクメを見つけたぐらいで宴会を開いたりはしないがルカは 悔い改めの話としてしまってちぐはぐな印象である 3.放蕩息子の譬え・・・平行記事無し、ルカの創作した譬え。教会で最も好まれる話の一つです。 教会は 上の息子はユダヤ民族、下の息子が異邦人であると教会は解釈して ユダヤは昔から神といたので、異邦人である罪びとを弾劾し、排除してきたことの比喩とされる。 が、ルカはむしろユダヤ民族はずっと神を裏切り続けてきたと批判しているし、また atheistくんの指摘通り「ほとんどの人が反射的に感じてしまう不満」なのであるから これはルカ神学による不自然な設定であると言えると思う。 とはいえ、わたし個人としては、好きなたとえ話であり、なるほどと納得する話です。 相当わたしもルカに洗脳されているようです >>406 いえいえ、あくまでもリアルでの事情を優先されてください とはいえ、先生がいなかった間、レスをもらい、疑問に答えてもらい、 知らなかったこと、気づかなかったことを教えてもらえることが どれほどありがたいことかを改めて痛感しました 15章は罪人の悔い改めと救いというルカの中心的な神学が存分に語られているわけですね 羊の喩えや銀貨の喩えは平行記事では罪人の悔い改めという要素は入っていなかったんですね そういえば同じような喩えがあったなあ、くらいにしか思ってませんでしたw それでも銀貨の喩えはずいぶん場違いという突飛な喩えのように思ってたので 先生の解説を聞いて納得しました 放蕩息子の喩えの教会解釈は兄がユダヤ人、弟が異邦人だったんですね たしかにルカはユダヤ人はイエスの教えを理解しない、預言者を殺してきた、といった批判を 繰り返してますから、従順な兄をユダヤ人と捉えると少し変なことになりますね ここは素直に自分の狭量な心に向けられた喩えとして読んだほうが良さそうですね さて16章は、前半が不正な管理人の喩え、後半は金持ちと貧乏人の喩えですね 前半の不正な管理人の喩えはめちゃくちゃ分かりにくいです 要は首を宣告された管理人が主人に対して債務のある人に恩を売って後のコネを確保するために 証文を改ざんさせたのを、主人(イエス)は抜け目ないやり方と褒めた、ってことだと思うんですが 不正なやり方で友を作ることがなぜ9節のように「永遠の住まい」につながるのでしょうか? 10節では不正なやり方が小事に置き換えられてしまっています 小事だろうが大事だろうが、不正は不正という気がするんですが… しかも13節では神と富の両方に仕えることはできないと言っています もうえー、って感じですw >>407 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はヨハネ11:1-46です。 不正な家令の譬えは、元々は史実。それが伝承されて、ルカのみが伝承。平行記事無し。 で、伝承の過程で「不正」と誤解してしまった。つまりコアな話が理解されないままなので われわれに理解できない説話となっています。 原話は、地主がオリーブ畑の労働者にオリーブではなくて、保存のきくオリーブ油で年貢を 納めさせていたのだが、不作の年があったりして、利息が利息を生み 3600リットル(百バト)の借金となっていたのを1800リットル(50バト)にしたという話。 この家令は、首になる直前だけではなく、常日頃から小作たちに対する重い年貢を軽減して あげていたので、誰かから「浪費」していると密告されてしまったという話。 ただし「浪費」は誤訳で、原文は「ばらまく」という単語です。 で、主人が褒めたとルカは書いているが、これも伝承の中で間違って伝わった。 元々はこの小話を紹介した主イエースースが小作側に立った家令を褒めたという話。 ルカはそのプロットが理解できないので、8節で「不正」と言い、9-13節はルカの解釈が記されて いますが、混乱した主張となっています。 麦百石は、原文では、穀物100コロス。ヘブライ語のコルという度量単位でバトの約10倍なので 36000リットルの借金という膨大な借金。それを80コルにしても大差ないと思うけど。20コルぐらいに してほしかったものだ。穀物は、たいてい小麦のことなので「麦 穀物は、たいてい小麦のことなので「麦』と言う訳は正確。 8節のこの世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。 は、光の子は、来世の事柄については利口なので、 この世のルールに従わず、地主が暴利をむさぼっているならば、 地のルールではなくて、天のルールに従って借金を棒引きにするという意味 9節の不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。 は、ルカの屁理屈。そんなわけがないので屁理屈を重ねて 10節で、他で流布していた格言を挿入して道徳性を担保しようとしたが とすると家令は極悪人だということにしかならない。なぜなら主人の利益を損なっている から。 そこで11節で挽回しようとして、 「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。」と弁護した。 すると今度は不正なものを上手に利用したということは擁護できたが 倫理性が崩壊してしまった。 そこで12節で修正を咥えたのであるが、しかしこの例え話の家令は主人側に 立ってないのだから誰もこの家令に年貢の管理を任せようと思わないので破綻している 13節ではもはや取り繕いを諦めて関係のない格言で、話をしめてしまったという混乱した流れです。 もはや莫迦としかいいようがありません。 理解できなくて当たり前です >>408-410 あーなるほど、先生の説明で少しすっきりしました 原話は重い年貢を課す地主に対して小作人側に立って年貢を軽減してあげていた管理人の話であり、 イエスはその原話に対して管理人を褒めた、ということですね 8節は賢く地のルールに従え、ということではなく、天のルールに従えという主旨で 9節はそれを取り違えたルカによる無理やりな解釈、10節はさらにその9節の解釈を どうにか道徳的な話にしようとして格言を引用、しかし主人の利益を損なっているというウィークポイントを 11節でどうにかしようと思って11節でその「不正」を「不正であっても」という形で展開したが 今度は倫理性が犠牲になり、12節で不正を取り除いて「ほかの人のものについて忠実」とやって 倫理性を回復しようとしたが、そもそも主人に忠実ではなかったので破綻、しかたがないから 13節で論理展開を無視していい感じで締めた、みたいな感じですかねw イエスはおそらくこの管理人のやったことを不正とは思っていなかったと思います 多少観点はずれますが、安息日の穂づみや癒やしと同様の、困っている人、苦しんでいる人のため にすることが形式的な律法より優る、というイエスの教えのパターンと同じですからね さて休日分ですが、ヨハネに書かれあラザロの復活の箇所ですね おそらく全福音書のエピソードのなかでも、最もイエスが弟子以外のひとと親密であったことを 記しているエピソードだと思いますが、この話の実際はどうだったんでしょうね? おそらく元になる話が実際にあって、それをイエスの奇跡話、神の子の証の話にしたのではないかと 思います >>411 atheistくん、おはようございます。明日月曜日の聖句はルカ17章です。 日本でも小作農が貧乏のため、娘を売るという話が戦前までありましたが 古代ユダヤでも、借財のために娘を売るようなシステムです。 一方、大地主は家令にすべてを管理させる不在地主なわけです。 できる範囲で、不十分ではあるが、少し小作に同情して、高利を割り引いた 家令もいたのでしょう。そして主イエースースは、それを天のルールでは 素晴らしい行為だと褒めた。しかし伝承の中で、あるいはルカには この話の味噌が理解できなかったので「不正」と誤解して伝承されたようです。 とはいえ平行記事がないのでルカのおかげでこのエピソードが我々に伝わったのですね べタニアはエルサレムから3kmの距離で、上京の際には必ずここに立ち寄っているので ラザロ家は主イエースースとかなり親しかったの事実。 ヨハネは、その事実に依拠して、ラザロの復活物語を創作しています。 しかも危篤を知ったが、死ぬのを待つ。二日待機して死んでから出かけて 四日後に復活させるという奇蹟を見せるという演劇としています。 これは「病癒し」のみならず「死人復活」もさせる奇蹟的能力があると示すための創作。 普通に考えると、親友が危篤なら生きているうちに駆けつけて 「病癒し」をしたらいいのに、死ぬまで待つなんてひどいやつです。 ただし、マルコはべタニアに滞在したことは書いているが位置も知らないし ラザロ兄弟の家についも知らない ルカはマリア・マルタ姉妹の伝説は知っていたが、べタニア在住であったことは知らない ヨハネはやたら正確なレア情報を知っています。 そしてその正確な情報をもとに自分の神学を創作しています つまり主イエースースの復活の前に、「復活」ということが現実にあるんですよという 説話を入れておきたかったのですね。 >>412 借金が嵩めば娘を売るような現実があるからこそ、管理人は高利を割り引いたわけですね まさにイエスが褒めそうな行為だと思います ヨハネはラザロたちについてよく知っていた、というのは前にここに触れたときに 先生に教えてもらいました だから具体的に話を展開できたのだと思いますが どうしても自分の神学を説明するために尾ひれをつけ改変して書いているから ちぐはぐというか復活の軌跡を見せるためにわざわざ二日も待機するというような 話になっているわけですね これは以前も疑問に感じて先生に聞いたところです 事実がどうであったかは、もはや分かりませんが わたしもイエスがわざわざそんなことするだろうか、という気がします >>413 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はルカ17章です。 9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。 ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 ヨハネは主イエースースに癒されるために、その人が生まれつきの盲人になったと 書いている。ラザロの場合も神の栄光のために、一旦死んで葬られたとあり ヨハネ独特の、神学的独善を特徴としています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる