もともと森喜朗青年は早稲田に入るには学力が足りなかった。

 《父も学校に呼ばれ「あなたの息子さんは早稲田は無理ですよ」と言われて帰ってきた。父は反発した。
「こうなったら仕方がない。意地でも喜朗を早稲田に入れてやる」と言い、早稲田ラグビー部監督・大西鐵之祐先生への紹介状を書いてくれた。》(『私の履歴書 森喜朗回顧録』日本経済新聞出版社)

 父・茂喜は町長であり早稲田のラグビー部出身だった。一般学生とは違う「縁」を利用した。こうしてまんまと早稲田に入ったが、わずか4カ月でラグビー部を退部。

 こんな経験があるのに『遺書 東京五輪への覚悟』(幻冬舎)では「途中で投げ出したらそれこそラグビーの敢闘精神に反する」と書いている。なりすまし……いや、なんと素晴らしい精神力でしょう。

 大学生時代の森喜朗は安保反対運動に対抗して安保賛成運動をしていた。
そこで出会った自民党議員に「君はどこに就職したいのか」と聞かれ、新聞社だと答えると「それなら産経新聞の水野成夫君を紹介してあげよう」と言われる。
水野氏は紹介状に目を通し、「わかった。担当者に話しておこう」と言った。

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