西岡剛はもうスポーツカーに乗っていない。ネオンの光からもしばらく遠ざかっている。その代わり、8時間の睡眠、目覚めの散歩とストレッチ、半身浴、そして白球とバットで一日を満たしている。

「5台くらい乗ってましたが、再婚と同時に手放しました。20代は派手な車に乗って、飲み屋で遊びましたけど、結局、見栄の張り合いなんですよ。僕、頭良くないので、あの頃はわからなかったんです」

 21歳でゴールデングラブ、ベストナインに輝いたスピードスターはそのまま日の丸をつけ、アメリカへと突っ走ったが、やがて減速し、3年前にアキレス腱を断裂し、1年前、阪神を自由契約となった。彼はついに止まった。そこで大切なものが何かということに気づいた。

 独立リーグ・栃木ゴールデンブレーブス。今、西岡が汗を流しているのは、とてもフェラーリでは入れない北関東の農道の奥にある、ロッカー室もない地方球場である。自らの練習が終われば、不揃いなユニホームの若者たちに「テンション低いんちゃうかあ!」と関西弁とノックを浴びせる。

 野球人生の黄昏。ここに至って無性に思い返されるのが、あの生駒山の坂道をがむしゃらに駆け抜けた3年間だという。

「特攻服を着ていたような奴らの集まり」
 2000年、西岡が入学した頃の大阪桐蔭は群雄割拠の中のひとつに過ぎなかった。西岡も王者PL学園のセレクションに落ちて入学してきた選手だった。

「僕らの代はみんな中学の卒業式で特攻服を着ていたような奴らの集まりでした。入ってすぐに監督から『今までで最低の学年だ』と言われたんです。だからかもしれないですが、バットを振れなくなっても振る。捕れない打球に本気で飛びつく。そういう精神的に追い込むような練習が多かったんです。特にあの坂道ダッシュは……」

 とんがりまくった原石たちに、坂を走れと命じたのは当時30歳の青年監督・西谷浩一である。中でも、とびきりのゴン太だった西岡とは真っ向からぶつかり合った。