鎌倉殿の19人
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仁義なき戦いみたいにどこかしこの誰が死んだって演出ないとわからんわ >>189
うん
和田とか挑発して追い込んで殺すぞ >>417
後になればなるほど見慣れた人死んでくから楽しみにしてるんやで 子供産まれて自由効かなくなった小四郎ってまさに中間管理職やな ドラマ政子「殺せとまでは言ってない!」
史実政子「許されない、獄門」
頼朝「政子それは滅茶苦茶よ…」
史実政子「駄目、獄門」 三浦義村は最後まで生き残るから、なかなかだな
子供がぜんぶ終わらせるけど >>438
三谷がこういうの書くのうまいの劇団の揉め事とかよく見てきたからみたいなの聞いた もっとガッキーとイチャイチャするアホっぽいドラマにしろ やっと政子も闇堕ちしそうやな
ちゃんと黒い尼将軍をやってほしいわ 前々回 上総広常
前回 木曾義仲
今回 源義高 一条忠頼 藤内光澄
人死が加速している >>308
親父追放するわ和田ぶっ殺すわ
キチゲ開放やな なおこの子のその後
評定衆が定められた当時、話し合いがうまくまとまらないことが多くありました。それは、様々なトラブルを解決するうえで、ルールや共通認識が存在しなかったことが理由として挙げられます。
これを解決するために北条泰時が制定したのが「御成敗式目」です。御成敗式目とは、公平な裁判を行う際の基準となる、武士政権の新たな法令のこと。
当時、幕府の勢力拡大とともに、地頭として派遣された御家人や公家などの荘園(しょうえん:貴族の領土や所有する土地の区画)領主と、現地住民の間で法的なトラブルが増加していました。また、それだけではなく御成敗式目が制定される直前には「寛喜の飢饉」(かんきのききん)と呼ばれる、鎌倉時代最大規模の飢饉が発生しており、市中に餓死者が溢れ、食い扶持を減らすための人身売買が横行するなど、多くの社会問題が発生していたのです。
御成敗式目の制定には、こうした社会的混乱を治める目的もあったと言われています。御成敗式目は、源頼朝が活躍する以前の先例に加えて、武家社会における慣習・道徳をもとにして制定されました。北条泰時は、御成敗式目を制定するにあたって、京都で活動する法律家に助言を求め、毎朝熱心に勉強したと言います。
1232年(貞永元年)8月、北条泰時は評定衆と協力して全51箇条で構成される御成敗式目を完成。幕府の新しい基本法典は、そのあと訪れる室町幕府や戦国時代の家法(かほう:戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法のこと)にも大きな影響を与えます。 最初から野望があった宗時と違って
政子と義時は田舎者がたまたまの巡り合わせでとんでもなく出世しただけだからな
まだ覚悟が足りてなかった >>400
ぶえーぶっ殺した時からエグい角度でハンドル切り過ぎやねんな 今までで最高の当たり回ちゃうか
あっという間の45分やった 「頼朝許せねえ!」
なお頼朝が死んでからが本番な模様 三谷幸喜ってシリアス方面の才能は枯れてないよな
ギャグは…んにゃぴ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています