ジャイアント馬場209cm135kg 最速140km/h←なんで野球で通用しなかったの?
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この人が馬場の成績2軍まで含めてまとめてくれてるけどまあクソやぞ
デカいだけでセンスなかったんやろ
http://stepbystep-36.jugem.jp/?eid=78#gsc.tab=0 監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、二軍での基礎練習を行っていたが、
2年目となる1956年には二軍で12勝1敗、翌1957年に13勝2敗の成績を収め、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞した
1956年末、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され、
同年12月22日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた[3]。
当時の技術では成功率が非常に低く、医師から「失明する可能性が高いので、目が見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。
1957年8月に一軍昇格、8月25日の阪神戦で初の一軍マウンドに立つ(9回1イニングを三者凡退)[3]。
10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏む。中日のエースだった杉下茂との投げ合いとなり、
5回まで無失点で抑えるものの敗戦する[2]。同試合は杉下の200勝達成試合になった。
スーパースターとなる長嶋茂雄が入団した1958年には目立った活躍は見せなかったが、
長嶋と双璧をなすスーパースターとなる王貞治が入団した翌1959年には3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した[2]。しかし一軍に呼ばれることはなかった。
当時は水原茂監督と品川主計球団社長の対立が深刻化していて、馬場は品川派と見られていたことが背景にあったという[3]。
さらに馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフに巨人を自由契約となった
巨人には5シーズン在籍し、1軍登板は1957年の3試合のみ、うち1試合が先発、通算成績0勝1敗防御率1.29(NPB公式記録) >>7
すごい話やな馬場がでかい按摩さんの世界線もあったんか いまだにこいつよりでかい選手が現れてないのが凄すぎる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています