【甲子園】「給料はいりませんから」下関国際・坂原監督の手紙から始まった物語、熱血指導で変革
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物語は1通の手紙から始まった。「給料はいりませんから、野球の指導をさせてください」。それは下関国際の校長室にある日、突然届いた。差出人は「坂原秀尚」。「こんな人がいるのか?」。当時校長で現理事長の武田種雄氏(73)は言った。前代未聞の展開で、下関国際野球部の歴史は動いた。

 坂原氏は広島国際学院高-広島国際学院大を経て、社会人ワイテックで5年間プレー。その後は下関市にある東亜大で教員免許の取得を目指した。その東亜大の近くにある高校が下関国際だった。当時、グラウンドには雑草が繁茂して、道具も散乱していた。部員も数えるほどで、まともな練習はしていなかった。不祥事で監督も不在。見かねた坂原氏が立て直しを志願した。

 手紙を出した時、坂原氏はまだ教員免許がなかった。学校側も教員として採用はできない。それでも武田校長は熱意を買った。校務技師や付属幼稚園のバスの運転手を頼み、“アルバイト”をしながら野球部の指導を依頼した。そして05年8月に正式に監督へ就任。拾ってくれた武田校長に、坂原監督は何度も頭を下げた。

 鬼軍曹となり、徹底的に部員を鍛えた。「弱者が強者に勝つ」。無名選手だった現役時代からの座右の銘を胸に、学校や武田校長への恩返しを誓っていた。ある日、私立の強豪校から監督就任の依頼があった。待遇は当時の給料の2倍だった。何度も口説かれたが、武田校長の前でハッキリと断った。「武田先生や子供たちを甲子園に連れていく。だから行きません」。

 だから苦難を乗り越えてきた。無名の弱小校と冷やかされる日々。お金もなかった。地域の餅つき大会に部員と参加してはお金を稼ぎ、遠征費やスピードガンの購入にあてた。辞めていく部員には、朝迎えにいって引き留めた。「3年間やることの大切さを感じてほしい」。猛吹雪の中、一緒にランニングに付き合う冬を何度も過ごしてきた。武田理事長は「うそ偽りは1つもない。本当に映画のような物語なんです」と言う。

 かつては部員1人、荒れたグラウンド、不祥事での大会出場辞退の時代もあった。坂原監督はその全てを作り変え、17年をかけて全国2位まで育てた。敗戦後は、爽やかな表情でナインひとりひとりに声をかけた。「苦労人」という言葉だけで片づけられない。それが坂原秀尚という男だ。