暴徒「朝鮮人がこのビンの毒を井戸に入れた!」警察署長「んなことあるかいワイが飲んだる」(グビー
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9月2日夕方の鶴見分署にて、大川分署長と署員一同が屋外に陣取っていると、自警団が4人の男を連れてきた。自警団の話では、その4人は井戸に毒を入れたのだという。
それは9月2日の正午頃のことであった。4人の男は鶴見駅近郊の豊岡にあった井戸から水を飲み、彼らの1人はビンを2本持っていた。
それを自警団が目撃し、その4人は朝鮮人で井戸にビンの毒を入れたと騒ぎ立て、4人を殺せと囲んで小突きながら署まで連行したのである。
直ちに取り調べが行われ、大川は4人が東京に避難するところであり、彼らは悪者ではない、ビンの中身は毒薬ではないと自警団に説明した。
勢いづいていた自警団は納得せず、ならばと大川は、自分が飲んで見せようと言い、2本のビンの中身を飲んだ。
取り調べで分かったことであるが、4人は中国人で、ビンは1本がビール、もう1本が中国の醤油である。 2本のビンの液体を飲む大川を見た自警団は引き上げたが、流言蜚語は増すばかりであり、民衆は警戒を強めた。続々と朝鮮人と疑われる者たちが警察へ連行されてきた。
そこで大川は住民を集め、安心させるために演説した。
交通・通信が断絶し鶴見は孤立状態であるが流言は大げさなものであろう、余震もあるなか警戒は必要だが早まってはいけない、警察権を無視した妄動はいけない、治安は警察が責任を持っているのを忘れないでほしい、
などと熱心に演説するので拍手も起きたがそれほど効果はなかったとみられ、朝鮮人は署内に収容できないほど連行されてきた。大川は警察に駆け込んだ朝鮮人たちや、自警団に連行された朝鮮人たちを總持寺に移動させることにした。9月3日になると事態はますます悪化した。
自警団は武器を持って總持寺に集まり、朝鮮人の引き渡しを要求した。地元有力者の間からは朝鮮人を鶴見から追放してもらいたいという要求もあった。
大川は朝鮮人が殺害されるおそれありと判断し、署員に指示を出し、朝鮮人らを總持寺から鶴見分署に移動させることにした。
追放を拒むことは危険であると思い、大川は署に移動させてから遠くへ送り出すと言っておき、人々を一旦落ち着かせた。 署に移動したものの、自警団らの群衆が朝鮮人を殺せと叫んで署を囲み、大川は朝鮮人が悪いということはないと説得するが、群衆は朝鮮人に味方する警察を叩き潰せと騒ぎ立てた。
地元有力者たちは追放を迫った。鶴見分署は1000人以上の群衆に囲まれた。その時、署員総勢30名の鶴見分署には署員が3名くらいしかいなかったようである。
大川は群衆の前に立ちはだかり、次のように大声で言った。
「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ」
これには群衆も驚き、しばらくすると代表者数名が話し合い、大川に問うた。警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか。大川は、その場合は切腹して詫びると答えた。そこまで言うならと、とうとう群衆は去って行った。こうして朝鮮人220名、中国人70名およそ300名が大川分署長はじめ30名の鶴見分署員により守られた。 食糧の問題について、大川は鶴見町会で批判を受けつつも人道論を主張し、一般避難民として扱う承認が得られ解決した。大川は割腹の約束の件を神奈川県庁に報告した。
朝鮮人・中国人は合わせて301名に増え、9月9日、鶴見分署から横浜港の「華山丸」に全員移動し、事なきを得た。
その後、神戸港へ送られたということである。また内務省『大正震災志』下巻(1926年)には、横浜で「華山丸」収容の朝鮮人225名は災害救援活動にあたっていた海軍が引き受けて保護し、復興作業に従事したという記録がある。
後に大川は回想し、当時あのような行動に出たのは自分でも意外で、あれほどの勇気を今になって持ち合わせているだろうかと言い、人間は一生のうちに特功が必要であるという考えもあるそうだが更に「偶々未曽有の震災に遭遇して、素より当然の職責を尽したのみで、特功とは自らも考えないが、容易に得られない経験を得たことを愉快に思う」と、このように言った。その数年後、大川は定年前に警察を去ることになった。 元々朝鮮人って植民地支配受けてるとかほざいてるけど、戦前も日本でやりたい放題してたからな
俺の祖父の友達なんか登校中に朝公にぶん殴られたと話してたわ この時の行動を問題視してる奴らに定年前に辞めるように言われたんよな パヨク乙
日本人は永続的被害者であり朝鮮人に対して道徳的優位がある >>20
ネットいじめに参加してる時のなんG民やんけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています