「デンマーク🇩🇰」とかいう国について知っていること
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自動車購入税が車体価格150% ケミカルブラザーズがデンマークって曲作ったらデンマーク人のダンサーがその曲を使ってプレイしてた 数字の扱いに一家言持ってる
tps://i.imgur.com/EKnVLkL.jpg 現在のデンマークには紀元前12000年頃から人が住み続けていると考えられている。
デンマーク地方で新石器時代が始まったのは紀元前3000年ごろと考えられており、同じころ、農業が始まったとみられる。 紀元前1500年ごろ青銅器文化がデンマーク地方に到来したとみられる。
ドイツから北欧にかけて分化し成立したゲルマン人(西方系)の住む地となっていった。 紀元前500年頃、ケルト人により北欧に鉄器がもたらされた。これ以降を、ケルト鉄器期(前ローマ鉄器期)と称する。この時期に集落の形成が進んだ。
紀元前後に入ると、ローマ人との接触がみられた(これよりローマ鉄器期)。
北欧とローマ帝国の間では交易も行われ、北欧からは毛皮、琥珀などが輸出され、ローマから祝杯やワインなどが輸入されたと考えられる。 ゲルマン民族移動の時代に、北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派であるデーン人が、スウェーデン南部スコーネ地方を通って現在のデンマークの地へ到来した。
それまでの先住民である西方系ゲルマン人のアングル人、サクソン人、ジュート人を圧倒し、最終的に同化していった。デーン人は現在のデンマーク人の祖先となった。
彼らを知る文献、伝承として、サーガや北欧神話などがあり、北ゲルマン人の文化や思想などの動向を見る事ができる。 北欧史において8世紀から11世紀にかけては「ヴァイキング時代」と呼ばれる。デーン人もヴァイキングとして知られる。
優れた造船と航海技術により、デーン人はフランスやブリテン島を攻撃し、征服していった。
文献に登場する最初のデーン人の王は8世紀前半のオンゲンドウスであり、かれはヴァイキングの首長であったとみられる。
デーン人の最初の王たちは、デーン人の居住域の南端にダーネビアケという土塁を構築して、ヘーゼビューとハイタブの交易地防衛と国土への他勢力侵入の防止に意を注いだ。
デーン人は西ヨーロッパ一帯を襲撃し、現在のイングランド、アイルランド、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリアなどに侵攻した。 ヨーロッパ大陸では、9世紀初頭になるとカール大帝率いるフランク王国が勢力を拡大し、デーン人の支配する地域の南端にまでさしかかった。フランク王国の文献にはデーン人の存在が記載されている(例えば、"Notker of St Gall")。
"Notker of St Gall"によれば、804年ゴズフレズ王が海軍をともない現在のホルシュタインに現れ、フランク王国と外交交渉をおこなった。808年、ゴズフレズ王はオボトリート族を攻撃し、レリク(英語版)を支配して、そこにいる住民をヘーゼビューに移住させている。
809年、ゴズフレズ王の姉か妹をカール大帝の側室として和議を結ぼうとしたが、和平交渉は決裂した。翌810年、ゴズフレズ王は200隻の船でフリースラントを攻撃し、海軍力を持たなかったフランク王国は防戦に事を欠いた。
ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った。
デンマークでは現在のデンマーク王家の実質上の始祖であるゴーム老王がユトランド半島のイェリングの地に興起した。
ゴーム老王の子のハーラル1世(ハーラル青歯王、ハラルド、958年頃即位)は現在のデンマークとスウェーデン南部の統一をほぼ達成した。彼はキリスト教を受け入れ改宗した。 デンマークの国名は、「デーン人の国」という意味であり、「デーン人」とはユラン半島(ユトランド半島)のノルマン人のことである。
イングランドやアイルランドでは、現在のデンマーク方面からやって来るノルマン人を「デーン人」と呼称した。
ただし、この時代における「デーン人」の概念を、現在のデンマーク人と同一のものと考えてはならない。
この段階では、「デンマーク君主の統率下にある人々」という程度にすぎない(一例を挙げれば、この時代にスカンディナヴィア半島からユトランド半島にやってきてデンマーク王に従えば「デーン人」である。
決して、「スウェーデン人」傭兵や「ノルウェー人」傭兵ではない)。
この時代においては、民族としての「デンマーク人」、「スウェーデン人」、「ノルウェー人」は確立しておらず、「デーン人」は必ずしも民族共同体を意味しておらず、いわば緩やかな政治的共同体だったのである。 英語を本格採用してデンマーク語を捨てるか真剣に悩んでる 『フランク王国年代記』などには、デーン人の領域は今のデンマーク王国より広大であったと記されており、遺跡の発掘調査からもこれを裏付ける遺構・遺物が検出される。
出土品の共通性などから、当時のデーン人は少なくとも4つの部族から構成されていたものと推測されている。いずれも便宜上、現在での地名で記す。
1. スコーネ(含マルメ、ルンド)、東シェラン(含コペンハーゲン)
2. 西シェラン、フュン(含オーデンセ)、スレースヴィ
3. 中部ユラン(含オーフス)
4. 北部ユラン(含オールボー)、東部ノルウェー(含オスロ)
デーン人の文化圏と思われる地域は現在のデンマーク、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、南部・西部スウェーデン、東部ノルウェーというかなり広大な地域に広がっており、かなりの勢威を振るっていたことがうかがわれる。
また、陸続きよりも「海続き」の方が交通量・物流量が多く、その頻度が密であったことを確認することができ、デーン人があらためて海洋民族であることが確かめられた。 ワイ早慶上智の大学生なんやが、
デンマーク
ノルウェー
スウェーデン
フィンランド
ドイツ
オーストリア
スイス
オランダ
カナダ
オーストラリア
ニュージーランド
ここら辺が真の先進国やと思ってる。
日本はまだ2流やね 9世紀、フランク王ルートヴィヒ1世の命によって北欧布教が行われた。この際、当時の交易地であったヘーゼビュー(ユラン半島東部)に教会が設けられたとされるが、結局は撤退を余儀なくされた。
だが、948年までにはスレースヴィ、リーベ、オーフスに司教座が設置されていたことが確認されている。
960年頃にはハーラル1世(ハーラル青歯王)がユラン半島からスコーネにかけて王国を築きあげていた。また、彼は洗礼を受けキリスト教徒となり北欧の神々への信仰を放棄した。
キリスト教徒になることにより神聖ローマ帝国の支援を受けることとなり、北欧固有の神々を信仰するハーラル1世の敵を滅ぼすのに有用だった。
この時代にハーラル青歯王が王国統治をより効率的にするために安定した行政機構を作ったという証拠はないが、教会が王権を強化しかつ維持するための中央集権的かつ宗教的イデオロギーとして働いているのである。 昔はバリバリの脳筋武闘派民族やったのにいつの間にか世界随一の福祉国家になったん謎すぎる 11世紀、クヌーズ2世(クヌーズ大王)は、イングランドに侵攻し、デンマークからイングランド、ノルウェーにまたがる北海帝国を築き上げたが、彼の死後、北海帝国は崩壊し、王位継承をめぐって国内の混乱が続いた。
クヌーズ2世の後を襲ったハーデクヌーズは1042年、後継者を残さずイングランドのランベスで果てた。
その後、ノルウェー王マグヌス1世(マグヌス善王)が1042年にデンマーク王として即位したが、クヌーズ2世の甥にあたるスヴェン2世が1047年にマグヌス善王を追い出し、デンマーク王となった。
スヴェン2世はスカンディナヴィア全土を管轄していたハンブルク=ブレーメン司教区(英語版)の司教Adalbert of Hamburgと良好な関係を築いたうえで、ハンブルク=ブレーメン司教区の許可の下、デンマーク国内を8つの司教区に分割し、各地に司教を配置した。
しかし、スヴェン2世没後、一族内で後継者争いが勃発、王家の力がそがれ、貴族が勢力を台頭していく中で、1157年、当時王位をめぐり争っていた三人のうちスヴェン3世、クヌーズ5世が殺害され、生き残ったヴァルデマーが単独で王位につくことに成功した。のちのヴァルデマー1世である。 >>26
🇸🇪は知らんが🇩🇪も7+9✕10みたいなもんやろ😠 デンマークで有名なものと言ったらあれやろ?
IKEAとかH&MとかNOKIAとかやろ?😁 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています