廣岡達朗「私は巨人を愛しているが、だからこそ歯がゆい」
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巨人らしい選手がほとんどいない
今年、ヤクルトを走らせたのは巨人がだらしないからだ。
岡本和真に代わって四番に入った中田翔は最近、ホームランこそ打つが、姿勢がどんどん小さくなっている。上体だけで打っている。それでも結果が出るということは私から見ると相手が研究していない証拠だ。
【選手データ】中田翔 プロフィール・通算成績
中田は若いときには良いセンスを持っていた。だが、最初に入る球団によって人生は変わる。日本ハムへ入った時点で彼のプロ野球人生は決まった。以前、私は中田のことを「巨人の顔をしていない」と書いた。中田に限らず、いまは巨人らしい選手がほとんどいない。
では、「巨人らしさ」とは何か? 逆説的な表現になるが「教えない」ことである。巨人では教えられるまでもなく自分自身、命がけで努力しなければダメなのだ。
巨人出身者が他球団の監督になって失敗するのはそこだ。もちろん、まったく教えていないことはない。だが、自分が努力して生き残ってきたからヘタな選手の気持ちが分からない。「できなければできるまでやれ」というしつこさがないのだ。
典型的な例は森祇晶である。西武では私のあとにリーグ優勝を8回、日本一を6回達成したが、横浜(現DeNA)の監督になると結果を残せなかった。私は森に「やる気がないなら二軍へ行け、とそんな指導をやっていたら一軍に選手がいなくなるぞ」と言ったことがある。案の定、成績が悪くてクビ。当たり前だ。 「弱いチームの監督をやれ」
そういう意味では巨人OBの中で私だけが「巨人らしさ」から逸脱した異色の存在だったかもしれない。
王貞治が1988年限りで巨人の監督を辞任したとき、私は後任のオファーを受けた。しかし断った。巨人ならいつでも勝てると思ったからだ。それより弱いチームへ行ったほうが問題も山積、選手から教わって自分の勉強になる。そこで教えて王者になってこそ監督としての値打ちが出るという信念を持っていた。
私が原辰徳監督に「弱いチームの監督をやれ。そこで勝ってこそ名監督だ」と口を酸っぱくして言い続けてきたのはそういうことだ。
もう一つ、監督の要請を受けたとき王というスターを傷つけたらいけないと思った。私は先輩の岩本堯さんに「王をフォローするコーチを育てるべきです」と言った。それがどう球団に伝わったのか分からないが、新監督になったのは藤田元司だった。
のちに渡邉恒雄さんから手紙をもらった。そこには「あのときあなたが監督をやっていたら巨人も変わっていたでしょうね」と書かれていた。 競争相手を作って競わせる
月日は流れた。
坂本勇人を見てごらんなさい。彼は恵まれた肩の持ち主で優秀な選手だった。だが、若手時代から一つもうまくなっていない。「それは違う。こうしろ」と言えるコーチがいないのだ。自分が努力して得たものを本能的に他人には簡単に教えたくない。他球団との違いはそこにあるのだ。
当時の巨人が他球団の能力が他球団に比べて高かったというより、競争が激しかったからだ。ナインは仲が良いようで、一つも良くなかった。青田昇さんがホームランを打てば、川上哲治さんは「アオのヤツ、打ちやがって」と悔しがっていた。
それを思えば、いまの巨人には競争相手を作って競わせるという精神がない。中田が四番を打って、どれだけ犠牲者の山を築くのか。若手の有望株と競わせるべきだ。
なんだかんだと言っても私は巨人にお世話になった。巨人の野球は間違っていない。それがいつからか変わった。それでも巨人を愛している。だから歯がゆいのだ。
『週刊ベースボール』2022年10月3日号(9月21日発売)より
●廣岡達朗(ひろおか・たつろう)
1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退団。92年野球殿堂入り。 ヤクルトに勝ち越してるのに巨人のせいにするのはどうなん?
それこそベイスと中日くらいの対戦成績にせんと無理やろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています