もっと上手く纏めよう

西部の杵築。東の淤宇氏という構造。
つまり熊野を本宗とする後の出雲國造勢力は(出雲国造は延暦17年(798年)にその職位を解かれるまで、出雲国東部の意宇郡司だった)はたぶんヤマトあたりと同盟して
杵築をついに叩き潰しそのまま乗っとってしまったと。
そして出雲国造として出雲全体の統治権を獲得

そういうわけで出雲国造は杵築大社より熊野大社を重視していたのですね