打撃を疎かに考えたことはない。課題だった出塁率も改善していった。ただ、ルーキーイヤーの鮮やかな印象を、どうしても上書きできない。打率は2割5分を超えず、周囲から盛んに「打てない」と言われるように。プロ5年目の2021年には、初めて2軍降格を味わった。
納得できない気持ちもわずかに湧いたが、すぐに自らを省みた。「これじゃダメだ」。2軍の打撃コーチに積極的に意見を求めながら、自分の感覚と照らし合わせていった。シーズン終盤の9月には月間打率.309を記録。「自分の中で手応えがあって、次の年が楽しみな部分もありました」。その時はまだ、最悪のシーズンが待ってるとは思いもしなかった。
立浪和義監督が就任した2022年。首脳陣とコミュニケーションをとりながら、昨季に手応えを得た打撃フォームを思い切って捨てた。目先の1安打ではなく、数年後でも揺るがない地位確立のための決断だった。「練習ではいい形で打てるときもあったんですが……」。振っても振っても、どうもしっくりこない。すぐに開幕はやってきて、打率は1割台を推移していった。
徐々にスタメンから外れる試合が増えると、全うしてきた信念が揺らぐ気がした。「やっぱり、一番は試合に出たい」。いつフィットするか分からない打撃に、何試合を犠牲にすればいいのか。そんなことばかり考えていると、守備に綻びが出た。5月4日のDeNA戦(横浜)。試合中にもかかわらず、指揮官から名古屋へ帰るよう告げられた。
新幹線の車中で自らの未熟さを受け止め、自宅に着くころにはひとつの答えを出していた。「いい意味で、好きなようにやろうと思いました。僕の野球人生です」。教えられたままやっていると、結果が出なかった時に首脳陣のせいにしてしまいそうな自分が嫌だった。ダメでも自己責任。アドバイスには耳を傾けつつも、取捨選択しながら自分の感覚を信じた。
その姿が、指揮官の目によく映らなかったのは当然。「根気よくやっていこう」という約束を破ったと思われたに違いない。6月に1軍に再昇格したが、快音が数試合止まると再び2軍へ。8月に1軍に呼ばれた時には、いきなりほとんど守ったことのない二塁で起用された。自己ワーストの43試合出場。レギュラーの座も、信頼も失った。
秋風吹くナゴヤ球場。監督室で、立浪監督と向き合った。「トレードな。横浜が欲しがってるから」。伝えられた事実に、思いのほか驚きはない。淡々と諭すような指揮官の口調は、むしろすっと胸の奥に届いた。
「ずっと頑固やったな。なんでそんなに頑固なんや? 去年の秋から言ってきたけど、お前変わらんかったな」
異論はない。変われなかったのは自分。むしろ、一野球人として環境を変える決断をしてくれた立浪監督の“親心”に感謝した。その場で多くの言葉を発することはせず、「ありがとうございます」と一礼して監督室を出た。
立浪「ずっと頑固やったな。去年の秋から言ってきたけど、お前(京田)変わらんかったな」
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1それでも動く名無し
2022/11/19(土) 07:02:41.02ID:q7xYiw+t010011001
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