日本史を学んでて理解しにくい概念wwww
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
官位っていつの間にか形骸化してないか
国司とかもおらんくなっとるし 平安時代までは中華の歴史とリンクしてるのに鎌倉から合わなくなってしまう >>3
幕府という名称自体が後世のものやから実質的に創設されたのは1185やという説が有力やな、そこらへんの始期はややこしい 平安鎌倉あたりまで貨幣浸透してなかったのどうやって兵士とか労働力集めてたんやろ
飯食わせるからあつまれ~みたいなかんじなんかな 班田収授の計算とか苦手やったなあ、条理制もあんま理解できてない >>11
旧来は守護地頭の設置をもって鎌倉幕府の創設とされてたけど
それすら今は否定されつつあるな
もっと前から段階的に設置はされてたらしいし >>9
元々武士団って荘園を守る奴らとか貴族の下におったから朝廷が指揮権をもってたんと違うんかな、どうやって動員してたのかは謎やが >>7
そんな細かく覚えるもんなん歴史って
高卒やけどほんま嫌いやったわ >>4
荘園の話受験生時代なんぼ説明されてもわからんかったし今でもようわかってない
てか荘園に限らず経済の話は全体的に苦手やった >>13
それでも戦国期とかになれば自分らで勝手に名乗りだすしわけわからんわ
官位秩序はある意味残ってた証左なのかもしれんが 官位は戦国時代の武将が自称しまくりやな
信長の上総介とかみたいに 戦国武将は覚えなくていいくせに藤原○○はやたら出てくる >>11
実質的な体制が確立されたのが1185
朝廷に任命されたのが1192
って感じやったかな
こういうのは形式が重要やと思うからワイは1192で良いと思うけどまあ諸説あり >>18
ワイは歴史好きやから覚えるのなんとかなったけど苦手な人はほんまにきつそうやな、 >>16
勝ち馬にのって自然と集まってくるというのはわかるが対価はなんなんやろな
土地をもらえるかもしれないというのを当て込んでるんやろか >>25
体制の確立ってのは何がそれを示してるんや >>23
藤原武智麻呂とかいうムチムチしてそうな名前好き 鎌倉幕府の統治は段階的に成立していったものやし、○年に出来たって一時点を特定することは不可能やしナンセンスやって話らしい 教師「応仁の乱は10年続いて京都がめちゃくちゃになったんやで」
ワイ「ほーん、なんで起きて最終的にどうなったんや?」
教師「?」
ワイ「?」 >>29
侍所とかをはじめとするいろんな統治機構が整ったのがその頃やなかったっけ >>34
西軍が降伏して足利義尚が将軍になったとしか言えんな、降伏したとは言え西軍側が処罰されたわけでもないし 日本史をわかりづらくしている要因、養子とか名跡を継がせたりとかで親戚なのに名字違ったりとかそのへんよな >>36
文化史も政治史と密接に関わってる部分もあるしそこを無理に切り離すのは難しそうや >>19
経済って株とか自分でやってみないといまいち理解しにくいよな 言うて鎌倉幕府は朝廷との二重統治やったんやろ
こりゃもうノーカンやろ
ノーカンやわ >>36
ああいうのは世相と切っても切り離せへんから歴史で教えることに意味があるやろ >>38
古代から中世は特に家格秩序が重んじられたからな、現代人の感覚としたら"猶子"だのわかりにくいな 特に中世の日本史までは中国史と並行して読んだ方が頭に入りやすいやろな >>29
調べたらこんなん出てきたわ
ややこしや
①1180年説
頼朝が侍所(御家人の管轄機関)を設置
→この時すでに南関東ほぼ全域を支配下においていた
②1183年説
朝廷から頼朝に対し、東国の支配権を承認する宣旨を出す。
→朝廷が頼朝に東国限定という条件付きではあるが支配権を認めた
③1184年説
頼朝が公文所、問注所を設ける
→政務、裁判の仕組みが整った
④1185年説
頼朝は諸国に守護・地頭を置く権利を得る。
⑤1190年説
→頼朝、征夷大将軍よりさらに上の官職である右近衛大将に任命される
⑥1192年説
→頼朝、征夷大将軍に任命される 途中で天皇の系譜ってどうなってるん?
担ぎ上げたりしてごっちゃになってる感じがしたんやが >>42
二重公儀制やな、江戸時代の初期もそうやった 権力者の「息子に継がせたい」のモチベーションが全然わからへん😅
弟でもええやん
どうせ死んだあとやのに >>34
足利家の内ゲバと足利の家臣の内ゲバともう一つなんかの内ゲバが同時発生して応仁の乱→戦国時代→室町幕府の実効支配領域がほとんどなくなって信長にやられて消滅みたいな流れやなかったっけ >>45
世界史全般が横で見た方がわかりやすいと思う >>48
どの途中からにもよるが、皇位継承は先例をめちゃめちゃ意識しとったな
例えば称光天皇から後花園天皇への継承とか、 >>48
今の天皇家にしても傍流の生き残りみたいやね
また継体に限らず他の血が簒奪してることも歴史のどっかにあるかもしれん >>26
墾田永年なんたらとかもう意味がわからんわ
それがありました言われてもふーんとしかならんし >>25
征夷大将軍に任命されることと幕府を開くことはイコールじゃないからそもそも形式が関係ないって話やぞ >>40
水墨画とかまさに応仁の乱で画家が地方に疎開→文化の地方波及みたいな話だったよな >>47
頼朝が「鎌倉幕府作りました!」って言っとるわけではないからな
解釈の問題や >>51
応仁の乱→第一次六角征伐→第二次六角征伐→明応の政変→永正の錯乱→両細川の乱→堺公方期→江口合戦と目まぐるしく変貌しとるしややこしいわな >>26
>>55
面白いと言われる戦国時代もなんもおもんなかったわ
武将好きの友達とかは盛り上がってたけど >>58
そうなんか
ワイ受験生やった頃もそこら辺いまいちようわかっとらんかったし今はもっとわからんわ 応仁の乱もわけわからんが南北朝もわからん
尊氏「南朝に降伏するで~」とかなんなんやコイツ そもそも日本史やる意味ないよな
世界史の一分野でええやん >>57
画家というよりも公家とちゃうかな、土佐とか山口、越前、能登に避難しよった >>47
これ理解できる人すげえわ
単語の意味がわからんからちんぷんかんぷんや 生涯に一通だけ間違えて上総守を名乗っちゃうノッブすこ
その後に出す書状はすぐに直したけどもう手遅れや 跡目争いとかようやるわ
目立たんとこで責任もなくぬくぬくやれたら最高やん >>51
戦国時代に足利と管領の細川、畠山家が二つに割れて家督争いしてたなかで三好家がまとめて終わらせたけどその結果幕府の機能と足利の権威が落ちたのもわりと大事 >>55
大宝律令が制定されて以来日本の国土は天皇の土地や!って建前だったのに
私有地を認めるような法律を出しちゃったってことが大事件なんや
理想と現実のギャップやな >>47
むしろこんぐらい詳細にやってくれたほうが頭入ったわ
学校で学ぶ歴史はザックリすぎるんよ >>70
これわかりやすいわ
こういう風に教科書も書けや >>63
一時期尊氏と後醍醐が共闘したりしてんだよな
尊氏躁鬱病のメンヘラ説とか聞いたことあるわ >>72
まあそこまで詳しく教えとったら時間も足らんのやろ
荘園制だけでも1年間授業できるくらいやのき >>73
歴史は一言で説明できるものの方が少ないんや、 >>14
墾田永年私財法で土地を持ってええで!ってなったけど「あー金足りへん!せや!!!豪族にうちゃうべ!」でできたのが初期荘園 >>76
応仁の乱から信長登場まで80年くらい間隔空いてるのにそこらはほぼノータッチというのもすごいわな >>74
後醍醐の子供のバトル皇子達マジでなんなんや有能すぎるやろ >>68
その頃は跡目継承できんと田畑一つも貰えんから食いっぱぐれるか継承者にいいように使われる代わりに食わせてもらうか(継承者がどれほど自分に良くしてくれるかはわからない)やからできることなら自分で継ぎたいやないかな >>83
後村上天皇以外いつの間にかフェードアウトしてるイメージや ぶっちゃけ元寇から鎌倉幕府滅亡までも結構飛ばされとるよな、 なんで教科書でこう説明してくれないんだよってやつ教科書読み返すとちゃんとそう書いてあったりするよな >>87
それは学者もわかっとらんくらいには謎や
ワイらが生きてるうちに解明されたらええな >>87
ゴッドハンドのせいで解き明かすのは不可能 継体天皇とかいう確実にどっかからよくわからんやつ連れてきただけの天皇 >>79
足利が割れたり大内細川六角とかでひたすら権力争いしてたり西でも尼子対大内で争ってたり和歌山で畠山家が割れたりでぐっだぐだだし…… 何があったかは分からんけど、倭国大乱から古墳時代までに平和裏に日本が統一されとるんやろ
同じ形の古墳が全国にあるとかで
不思議すぎるやろ >>27
上総守と署名してる信長の書状は天文23年(1554年)11月16日付の一通しか確認されてない
その翌月に出された書状は上総介に直されてそれ以降はずっと上総介
上総守は右筆の誤記やと思うわ >>87
日本書紀に神武天皇の勢力は西からやってきたみたいな記述があるって話なかったっけ >>96
武烈天皇がめちゃめちゃ悪く書かれたって若くして死んどるのは謎やな、それで応神天皇の五代末裔の継体天皇が越前から来とるし 公家とか貴族がちょいちょい出てくるけどコイツら地味に残ってるんやなって思う 鎌倉のスタートは1192派だわ他のスタートが征夷大将軍に任命されたとかなら統一すべき ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています