0001それでも動く名無し
2023/01/06(金) 15:36:06.98ID:68TXI2iP0紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた[15]。
2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)
14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した[15]。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[15]。
第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位57年-80年)
脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[15]、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い[17]。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる[18]。
73年、倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島[19])に進入してきたので、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した[15]。
第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年)
倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる[20]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう[21]。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある[22]。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた[15]。
朝鮮の歴史書だけを記述
どんだけ倭人に侵攻されてんだよwww