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農民「田んぼで金色のもの見っけたばい!」→国宝でしたwww
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0001それでも動く名無し
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2023/02/23(木) 09:12:06.07ID:XtRbHcOk0
天明四年(1784)二月二十三日,筑前の国那珂郡志賀島の或農民から黒田藩に届け出があった。この農民の名は甚兵衛といい,耕していた田畑から金の印章を発見した,というものであった。

その時の届け書も現存しており,甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵,組頭吉三,勘蔵の名がある。この金印発見のいきさつについても諸説あり,甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人が発見したという説もある。

印には『漢委奴国王』と刻文があった。発見当時,黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させている。藩校修猷館の館長・教授達が,数人がかりで出した結論は,漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり,安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に没したが,志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。

地図を見れば一目瞭然だが,壇ノ浦から博多湾へ物が流れ着くには相当な無理がある。対馬海流は日本海へ流れているはずであるが,よしんば流れ着いたとしても,海岸から上陸して畑へ入り,自ら石の下へ潜り込んだとすれば,さすが光武帝の印章だわいという事になる。珍説とはこういうのを言うのだろう。

金印発見のニュースは,当時としては異例の早さで中央に伝わったらしい。掘られた刻文の読み方について多くの学者が書き記している。京都の国学者藤貞幹(とうていかん)は,発見から一月あまりで,委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印である,という説を発表した。
大阪の上田秋成もこれを支持している。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840~91)が明治二十年代に「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」という読み方をあみ出し,三宅米吉がこれを発表してからは,それがほぼ定説となり,現在では金印は,後漢書・光武帝本紀に書かれている,「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり,漢の光武帝が奴国の王に与えた印そのものである,という事になっている。発見当時から金印贋作説もあったが,金印論議の中次第に鳴りを潜め今日に至っている。
http://inoues.net/tokyo_museum/heiseikan17.html
https://i.imgur.com/OVQgEIM.png

その後の研究によれば、最初の金印発見は、甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人という説の方が有力なようだ。

志賀島の「吉祥寺」という寺の古記録によれば、天明四年の項に「二月二三日小路町秀治田を耕し大石の下より金印を掘出す」とある。
また、金印公園の北東に当たる「勝馬」という所の某氏蔵書に、金印が押されて「右之印蓋漢之光武之時自此方窃到彼所賜之物乎倭奴者非和国之謂而」云々との記述があり、末尾に「志賀島農民秀治・喜平・・自叶崎掘出」とあるそうだ。これらから、甚兵衛はその田の持ち主であり、秀治・喜平の2人は小作人かあるいは臨時にその田を耕していた者で、発見した2人が百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていったものと言うことのようである。当時の志賀島村庄屋武蔵は「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出ている。
0002それでも動く名無し
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2023/02/23(木) 09:14:01.06ID:UuMWiGdL0
ながい
0003それでも動く名無し
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2023/02/23(木) 09:14:36.24ID:AL1b0RCM0
なんで田んぼに落ちてたん
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