坂東武者「やぁやぁ我こそは!」蛮族「てつはうどーんwww」
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元寇の鎌倉武士団打線
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた ちなみに最近はあの絵に描かれてるてつはうは捏造説が有力やで 最初にコミュニケーション取ろうとするとかめちゃくちゃ文明人やね 元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)
1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐・対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる てつはうっていまだになんなのかわかってないらしいな >>8
大きいかんしゃく玉みたいなもんやろ破壊力じゃなくて音でビビらせるやつ そもそもなんでトンキン民が博多までいって殺し合いしてんねん >>4
昔授業でならったことがどんどん変わってきてて最近の子供の話きくと驚くわ >>6
>1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
これどういう情報源があったのか気になるな >>15
名乗りは正々堂々の挨拶ではなく味方への「こいつ俺の獲物だから横槍したら殺す」のアピール >>16
日宋貿易だってしてたしというか別に元から鎖国してるわけでもなんでもないからな >>20,>>22
もうだいぶうろ覚えだったけど、そういえば日宋貿易あったな SP「襲撃犯はアベーーーッ!って叫ぶはず…」
山上「無言でドーンドーン!w」
元寇から令和までの間にまるで進歩してなかったね… よくよく考えたらここで負けて占領されとったらワイらは少なくとも日本の民では無かった可能性あるんかな? >>17
源平時代の坂東武者「九州とか弱兵だらけで使い物にならんわwww」
なお九州に定着した坂東武者どもが修羅の国を作った模様 >>4
元寇の時に沈んだ舟の調査で実物とみられる物が何個か見つかってる 考えてみるとどう考えても蛮族はこっちサイドやわなあの時代やと >>23
一時的に属国にはなるが元崩壊時にどうせ独立するやろ >>30
敷地周辺うろついてるやつがいたら弓の練習にしろ言われてたのが冗談なのか本気なのか >>3
一般書でこの辺り解説してる本ってなにかある? 坂東武者「なんであいつらわざわざ捕虜を盾にしとるんや?諸共ぶった斬るだけやん」
↓
坂東武者「あっ、ひょっとして……」
まぁ、退けたはいいけど褒美がなくて結局のところは鎌倉幕府滅亡や
試合に勝ったが勝負に負けた >>11
丸型の陶器の中に火薬と鉄の破片を入れてあったぽい
爆発そのものではなく飛び散る破片で殺傷能力がある でも実際の鎌倉武士は別にこんな蛮族じゃないし誇張してるみたいな話なかったっけ? >>30
アンチ乙、御成敗式目にちゃんと文明人になれるように書いてあるぞ
・みだりに通行人や旅人を殺してはいけません
・勝手に百姓の嫁を犯して殺してはいけません
・他人の領地の田畑から勝手に作物をとってはいけません
・他人のものを自分のものにしてはいけません
・行商のものを殺して品物を奪うことはもういい加減にやめましょう
・旅女や歩き巫女を無理矢理犯してはいけません、ちゃんと対価を払って犯しましょう 当時の元としては異例な程腰低く日本に交易要求してただけなのに勝手に宣戦布告と勘違いして喧嘩売った幕府 >>41
まあせいぜい山口組ぐらいやろな実態は
あるいはメキシコ麻薬カルテルくらいかな? >>41
それは京付近の奴らやろ、ガチで関東はルール無用な修羅の国やぞ 元寇に関しては坂東武者はしょせん他人事よね
九州の御家人と悪党が頑張った 鎌倉五山の僧とかは割と中国人だらけやし
噂程度のことじゃなくて南宋の宮廷とかにも通じてたやつはいたはずやで >>43
他の国への書状は知らんから比べられんけど
がっつり「仲良くしてくれないと攻めるよ?」な書状送ってきとるし腰低いはないやろ 去年鎌倉殿見てたらこれだけ蛮族扱いされるのも残当感あった
クソすぎんよ >>46
いうても承久の乱あたりで鎌倉の有力御家人とかは割と九州の地頭権分捕ったりしてるからな 男衾三郎絵詞
家よく作りては、何かはせん。庭草引くな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。
(家を継いだからには心がけねばならない。戦時に馬の餌にするのだから庭草はボーボーにしとけ。調練場の端には生首を常に絶やすな、人殺しも忘れるな)
此の門外通らん乞食・修行者めらは、益ある物ぞ、蟇目鏑にて、駆け立て/\追物射にせよ。
(門前を横切る乞食や僧侶、修験者はとても有益なものだ、すばしっこく逃げるため弓の標的として活用せや)
若者共、政澄、武勇の家に生まれたれば、其の道を嗜むべし。
(武士と生まれたからには殺しまくれ) >>47
南宋坊主をブレーンに囲ってた訳やから何となく元に対しての絶対引かんぞって姿勢もさもありなんらって感じやわ >>30
たしかに
元だってもう完全に中華堕ちしたフビライの時代だもんな >>49
国書の最後に「不宣」っていう言葉があってこれは向こうの文化で対等の相手に使う言葉
けど当時の日本で外交の相談役してたのが南宋の僧侶だったからこれを意図的かどうかは分からんけど見落としたとされる 坂東武者「よっしゃ、防壁と空堀作ったから安全地帯から弓射つだけのヌルゲーや!」
↓二時間後
坂東武者「我慢できんわやっぱり出陣して蛮族切り殺したろ!」
二時間も我慢出来る文明人 メキシコの動画とかみてもおもうけど
やっぱ倫理観て時代とともに出来上がるんだよな
このころ愛情をともなわない友情みたいなもんてあったんやろか 鎌倉殿で泰時と一緒に育った千鶴丸ってあったやん?あいつの子孫と安達殿の子孫がこの時代両方滅ぼされるんよ >>3
あらかじめ略奪しておけば略奪されないからね
コスパ意識高い あの有名な絵、ちょっと広げたら元寇逃げまくってる絵で草 >>66
ジャングルにお馬さんもタジタジだからねしょうがないね 源平合戦で鹿が降りれるんだから馬も行けるやろ!って崖を下って奇襲したのは後世の創作、実際は馬は超貴重品で失ったら恩賞貰っても破産待った無しだから馬を担いで徒歩で崖を下って奇襲した
↑損得勘定出来て賢い >>62
武士の誉れってよく考えたら己の欲望のためなら親兄弟や主君、忠臣だろうが殺すことだったわ >>69
鶴丸な
ついでに霜月騒動も平禅門の乱も元寇より後だし安達氏も長崎氏も滅びてはいない >>75
己のプライドを守り満たす事が武士の努めよ 鎌倉武士って人さらって弓練習するタイプの文明人やからしゃあない 氏子しとる神社の神様が元寇で神風起こして追い払ったとか言い伝えられとるけど絶対嘘やわ… >>80
神風とはいうがあんな場所に何ヶ月も居座ってたらそら台風も起こるっていう アフリカの盗人を燃やしたりメキシコ人の市民撃ち殺したりする動画見ると
当時の日本もこういう恐怖と暴力で人々を支配してたんかなって思っちゃう >>74
大河ドラマの義経でそのシーンあったけど、馬が一頭、倒れていたような記憶がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています