織田信長「ただいま~。あれ?誰も居ねえじゃねえか!(怒)」
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竹生島事件
安土城の信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣したときのこと。遠路ということで、信長は羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと考えた女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。
ところが信長はなんと当日に戻ってきてしまう。信長は女房衆の怠慢に激怒、縛り上げて即刻差し出すよう寺に命令します。
女房衆は恐れおののいて寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願いますが信長はそれを見てますます怒り、長老もろとも女房衆を成敗しました。
(『信長公記』天正9年4月10日の項より) 信長ブチ切れたらすぐ皆殺しにするの良くないと思うの まぁこの時代だと女に舐められたなんて噂が広まっちゃうとマズかったのかもな 信長公記くん信長サイドなのに全然贔屓しとらんやんけ お詣りってそんなに行きたいか?
当時はそれがレジャーやったんかな 秀吉の時代にも
秀吉の留守中に何度も窃盗事件があって侍女が集団処刑されて
奥の責任者である北政所が秀吉から強く叱責されとる
朝廷でも密通事件は日常茶飯事
天下人の居城や宮中でさえ倫理観もセキュリティもガバガバやねん >>15
ノッブ結構信心深いからなぁ
熱田とか伊勢とか大好きだし 当時はお詣りに出かけるのが息抜きやったって考えると今の娯楽はすごい進歩しとるんやな へうげものでねねが激怒して怠慢女の尻叩いてた話あったな
「それで城落ちた例は幾らでもあぎゃーよ」
それを遠くから見てた家康「正しい…❤」 これじゃあ「織田信長」じゃなくて「オレのみだが」じゃねーかwwwwwwwww >>18
親父の代から熱田神宮の宮司が参戦して戦死したりしてたし親譲りですかね >>22
終盤の茶々に転がされて母性感じてるところが一番笑えるんだよなぁ ノッブは怠け者と俺がんばってるんすよアピールするやつ大嫌いやしな >>24
うーん3点!もっとうまい言い回しが使えるように頑張りましょう! >>31
佐久間折檻状の勝家の扱いよ
あいつは戦下手だけど頑張ってる 安土から竹生島まで陸路で40kmほど行って、港から船で5kmくらいあるしな
日帰りだとは思わなくても仕方ない ノッブは験担ぎや縁起のいいもの大好きやし朝廷や幕府みたいな権威も大事にする保守的なオッサンや
新しいものも大好きなだけで この時代に女に怠慢食らった武将なんて広まったらガチで統率力に影響が出るからやで、今のヤクザみたいにどこの武将の雑兵もメンツで着いて行ってる訳だからな >>23
もうその頃には寺による悪い噂が広まってたんやな
比叡山や園城寺が悪さし放題やったの焼き討ちしたけど光秀に殺されたあとに人格破綻者みたいなイメージ植え付けられたのな >>18
応仁の乱で100年ぐらい途絶えた伊勢の遷宮
ノッブが金出して復活させようとした
で外宮と内宮が俺のほうが先だと喧嘩して結論出なくて
揉めて延びてるうちに本能寺の変でお流れになったという事実 当時のお詣りは今でいう温泉旅行やろうな
遠くに行って珍しいもの見物しつつお詣りでリフレッシュっていうレジャー 実際の信長はそんなに有能でもないし人格破綻してないし変人でもないのな
変人は政宗のほうやった 助けを求めた長老が敵対していた足利義昭と繋がっていたのは有名な話やね 足利義教とかいうやつも焼き討ちしてるのにコイツのことは悪く言わんのな >>45
なるほど、そう考えると女房衆が迂闊だったのな 草
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)とは、比叡山を中心とした地域(延暦寺、日吉大社、門前町の坂本などを含む)に対して行われる焼き討ち。
足利義教が行った比叡山攻撃とその後の根本中堂自焼(1435年)については足利義教#延暦寺との抗争もしくは延暦寺#武家との確執を参照。
細川政元が行った比叡山焼き討ちは、比叡山焼き討ち (1499年)を参照。
織田信長が行った比叡山焼き討ちは、比叡山焼き討ち (1571年)を参照。
ちなみに比叡山自身も他山をたびたび焼き討ちしている。←🤣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1 実際は信長はお参りに出かけてはいない模様
内通者を炙り出す作戦やで 信長に焼き討ちされるほど悪事を行なってた寺が悪い噂を広めて魔王みたいな扱いになったら後世に人気が出たとかいうwww
実際のノッブはわりとふつうの人www 『信長公記』によると、弘治元年6月26日(1555年7月24日)に、庄内川付近の松川の渡しという場所で叔父にあたる守山城主・織田信次によって無礼討ちにあい死去した。これは信次が家臣らを連れて川狩りに興じていたところ、秀孝が供回りもつけずに単騎で乗馬通行をしたため、信次の家臣・洲賀才蔵によって、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとする不届き者と誤解され、射殺された。
信次は射殺された人物を見て、はじめて秀孝の身元に気づき、主家である信長の報復を恐れて逐電した(『信長公記』)。信長は単騎で信次の領内を通行していた秀孝自身にも咎はあるとし、その罪を許している。 昔から女はサボりたがりのクズ多いから当然の処置だな >>64
寺が関係してないとまともな人格者寄りの話が出てくるな >>53
比叡山の坊主が勝手に焼身自殺しただけやろ >>57
武装宗教勢力が893より始末に負えないのは伝統だからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています