『信長公記』によると、弘治元年6月26日(1555年7月24日)に、庄内川付近の松川の渡しという場所で叔父にあたる守山城主・織田信次によって無礼討ちにあい死去した。これは信次が家臣らを連れて川狩りに興じていたところ、秀孝が供回りもつけずに単騎で乗馬通行をしたため、信次の家臣・洲賀才蔵によって、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとする不届き者と誤解され、射殺された。

信次は射殺された人物を見て、はじめて秀孝の身元に気づき、主家である信長の報復を恐れて逐電した(『信長公記』)。信長は単騎で信次の領内を通行していた秀孝自身にも咎はあるとし、その罪を許している。