0001それでも動く名無し
2023/06/25(日) 20:04:06.81ID:AcKBKPQ60空襲で神戸の家を失い、10歳代前半で終戦。翌年、父と兄を相次いで病気で亡くした。中学を出てすぐ働き始めた工場で給料を前借りしては、体が弱い母の薬代を工面した。
母まで逝ってしまった後も「朝5時から夜中まで、汗と機械油にまみれたよ」。六つ違いの弟を高校に入れるのと同時に、自分も定時制高校で学び始めた。「初めて勉強らしいことをした4年間やったなあ」。勤め先で得た技術を生かして30歳代で独立し、金属プレスの工場を起こした。
そんな歩みは、高度成長期と重なる。小さな工場でも、「日本を豊かにするんや」という気概と希望があった。質素な暮らしに努め、妻や子どもを養ったのが誇りだという。
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60歳代半ばで現役を引退してからは、趣味の山登りを本格化させた。日本百名山をはじめ、全国の1500座近くを踏破した。ひ孫もいる。支えてくれたことに感謝しながら妻を介護し、満たされた気持ちで人生を振り返る日々だ。
ただ、時に寂しさも覚える。「戦争と終戦後の混乱に奪われた青春は、二度と戻らないから」だ。
そんな中、三田市社協の取り組みを知った。家計に余裕がなく、修学旅行の訪問先で土産物の購入を我慢する児童や生徒たちもいると知り、胸が痛んだ。「いつも腹ペコでひもじかった戦中戦後の我が身に、重なったんです」
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困っている人の気持ちは誰より分かる。これまでもコツコツためた財産を慈善団体などに託してきた。自分が生き抜いてこられた証しに――。そんな思いも強かった。「あの世には持っていかれへんしね」と照れ隠しで笑う。
三田市社協に託したお金については、「子どもたちが自由に使ってほしい。少しは、思い出づくりの手伝いができるかな」と言う。修学旅行で広島を訪れる小学生、そして長崎へと向かう中学生に、ただ一つ願うことがある。「戦争は絶対アカン。それだけ、学んでくれたら満足ですわ」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230617-OYT1T50077/