文学に生きる目的を見つけようとする人は、この現実世界の中で何かしら不満を持っている人である。
そして現実世界の不満を現実生活で解決せずに、もっと別世界に求めて、そこで解決の見込みがつくのではないかと思って、
生きる目的やあるいはモラルを文学の中に探そうとするのである。しかも、それにうまくこたえてくれる文学は二流品に決まっていて、
青年はこの二流品におかされているうちは罪もまだ軽いし害も少ない。作家の名は指さされないけれども、そういう文学はどんな時代にも用意されている。
しかし、ほんとうの文学とはこういうものではない。私が文弱の徒に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険である。
ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。
しかしそれを遊園地のお化け屋敷の見せもののように、人をおどかすおそろしいトリックで教えるのではなしに、世にも美しい文章や、
心をとろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。
そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。
そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、
一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である。
したがって、さっき言ったような二流の人生小説に目ざめる人たちはまだしものこと、一流のおそろしい文学に触れて、
そこで断崖絶壁へ連れてゆかれた人たちは、自分が同じような才能の力でそういう文学をつくれればまだしものこと、そんな力もなく努力もせずに、
自分一人の力でその崖っぷちへ来たような錯覚に陥るのである。