その錯覚からはさまざまなものが生れる。
自分は無力で、文弱の徒で、何の力もなく、この人生を変えることもできず、変革することもできないけれども、
自分の立っている位置はあらゆる人間を馬鹿にすることのできる位置である。あらゆる人間を笑うことのできる位置である。
それは文学のおかげで得たものだから、自分はたとえけんかをすればたちまちなぐられ、人からは軽蔑され、何ひとつ正義感は持たず、
電車の中でタバコ を吸っている人がいても注意することもできず、暗い道ばたで女の子をおどかしている男を見てもそれと戦うこともできず、
何ひとつ能力がないにもかかわらず、自分は人間の世界に対して、ある 「笑う権利」 を持っているのだという不思議な自信のとりこになってしまう。
そしてあらゆるものに シニカル な目を向け、あらゆる努力を笑い、何事か一所懸命にやっている人間のこっけいな欠点をすぐ探し出し、
真心や情熱を嘲笑し、人間を乗り越えるある美しいもの、人間精神の結晶であるようなある激しい純粋な行為に対する軽蔑の権利を我れ知らず身につけてしまうのである。
こういう態度はおのずから顔にもあらわれ、服装にもあらわれる。私はそういう考えを持っている青年を群衆の中からでも一目で見分けることができる。
そういう青年の目は一見澄み切っているけれども、奥底には光がなく、青年にとって一番大切なものである純粋な愚かしさ、
動物的な力を欠いている。彼らは隠花植物の一種になったのである。