鎌倉武士「ひゃあ、モンゴル人強すぎる…負けちゃうよー」台風「よろしくニキー」
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>>132
栄枯盛衰すぎて草
国破れて山河ありの世界やな 四駿四狗の1人でも派遣された壮絶な戦いやったやろうなきっと
モンゴルから近いし モンゴル側も二回目は平地なら絶対負けないような兵力動員してたけど
武士さん側は事前準備入念にしてたし得意の馬も連れてきてはいたけど上陸出来ないから意味ない
日本の長弓の方が射程長いから弓の撃ち合いも勝てない
ガチの不意打ちで九州半分ぐらい取って上陸拠点作って大軍送り込むぐらいしか勝ち目がない ベトナムかどこか東南アジアでも台風に敗走したと言われてるな
陸戦最強だが海戦は弱い(というか知識が少ない) いやー台風の神風のおかげで勝てたから神風感謝なーりー
けど戦ったお前らの報酬はなしな >>132
ここ再現度高くて九州場所でモンゴル力士めっちゃ好んで行くんよな 刀伊の入寇んときも恩賞でいろいろあったんよな
「勅命届く前に戦って追い返したから私戦なんで恩賞無し」って意見あって
藤原実資が勅命関係なくても恩賞貰った前例出しつつ
「そんなこと言ってたら誰も戦ってくれなくなる」って激怒して
恩賞でることになった Wikipedia見ると日本に来た相手方の兵士の大半が帰らぬ人となってるんやな なんで北条の幕府はすぐ終わり徳川はあんなに続いたんや
褒賞なかったら相手に攻め入って切り取り放題やで!っていえば良かったのに >>145
いうて150年くらい続いたんやろ鎌倉幕府 >>145
北条の幕府じゃないやんけ
正当な将軍職がないから北条の後ろ楯は権力だけ
他に勢いあるやつが出てきたら切られる運命や >>145
北条が実権握ってる時点ですでに終わってるから >>126
勝ち確定した陣営から落ち武者追討令がでるらしい >>138
上のレスにあるけど来たのは軽装弓騎兵で嘘の撤退して相手誘い出してから囲んで弓でふるぼっこする純粋なモンゴル軍じゃなくて大半が高麗兵ちゃうの
それとモンゴル兵が使ってた複合弓って速射性飛距離威力共に優れてたって見たけど
陸続きやったらやばかったと思うがなあ 九州は刀伊の入寇やそれ以前から大陸の海賊にちょこちょこ攻撃されてたからな
藤原純友に博多湾から上陸され太宰府政庁焼き討ちされたりもしたし
何気に北部九州は戦慣れしてるってのはあったからな
特に大蔵春実が藤原純友の乱の時に活躍して北部九州に子孫が土着して
尚且つ子孫の大蔵種材が藤原隆家を大将に刀伊の入寇を撃退したし
さらに子孫の大蔵氏流原田氏も元寇で一門の御家人に討死したのもいたわな
元寇ではあまり語られないが大蔵氏の系譜が筑前に土着してたのは地味に大きかったわね
先祖が博多湾沿岸での戦いを経験してたのは家伝として伝わってたろうからな そもそも第二次大戦の時のイケイケのドイツ軍でさえイギリス上陸できんかったんやから
それだけ渡洋って難しいんやろ
そう考えたらフィリピンやら沖縄に50万規模の軍派遣してたアメリカってキチガイやな >>153
日本の地理風土は進撃するの大変やからなぁ
特に西日本や九州は大小河川があり湿地帯や田んぼがあり山と山の間に平地がへばりついてるからな
だからこそ元寇でも沿岸部から数キロぐらいしか進軍できなかったしな >>145
そういや江戸幕府って家光の時代に
中国遠征(明の残党に援軍)とか
ルソン征伐(ポルトガルの拠点潰し)とかの計画あったんよな
ポルトガルの使節団を全員処刑して報復を警戒してオランダに頼んで最新の大砲作ったりとか >>157
実際上陸がうまくいったとして京都や鎌倉まで延々と進軍するつもりだったんやろか 島国の利と台風で追い返しただけなのに日帝はこの体験で神の国とか壮大に勘違いして暴れ回ったから木っ端微塵に粉砕されたんだよね 刀伊の入寇なんてあったんか知らんかったわ…
女真が来てたとかやべーやろ 海から上陸して苦戦して
増援なく敵地に取り残されるって
滅茶苦茶悲惨よな >>155
そりゃそのころの日本って疲弊しきったあとやしな
開戦当初じゃ簡単に上陸させんやろ 四百余州を挙る十万余騎の敵
国難ここに見る弘安四年夏の頃 日本の記録だと神風で外国の記録だとふつうに負けたみたいな感じだっけ?
まあ昔すぎてわからんわな、フロイスもいないしな
けど竹崎季長の残した絵は貴重な史料だね、戦国の馬はポニーとかゆうけどふつう馬に乗って戦っとる
事実かはわからんけどさ >>163
降伏勧告に従えば優しいで従えばの話やが >>145
壊滅的なまでに人材不足や。
元々武家でしかなくて政治なんてからきしなのに。下手に成り上がったせいで、政治任されて終わった 日本にうまく攻め込めても山あり谷ありでうまく進軍できない上すげー完璧に統治されてた訳でもない九州じゃ
無名の山賊や野党にも道が狭い所で数居ても意味ない戦闘に持ち込まれたりして襲われたりしたんだろ >>159
じゃねーの
まぁ九州に土着する気でいた連中もいたろうけどもな
まぁ九州の御家人メインで撃退したのは何気に大きなポイントだわね
本州の御家人投入することなく撃退したんやから
あと鎌倉武士といえば騎射なイメージあるがかなり徒士戦もやってたみたいやからな 北条は有力御家人のライバル蹴落としたら
こんどは北条家内で継承争い始めてたな コリアンはモンゴルの劣兵として日本に攻め込んだ謝罪と賠償はしたんか? >>163
村上春樹の小説にあるけど
モンゴル人がロシア貴族を床下に生きたまま
閉じ込めて、そのままパーティーをしたって
本当なのかな? 野っ原でしか戦えないモンゴリアンが日本のゲリラ戦に対応できるわけない >>174
貴人への処刑法が絨毯の下に寝かせてその上を馬で走りまくるから案外敬意あるかもしれんで 当時の日本の矢尻が大きすぎてヤバイわ
モンゴルが拳銃の銃弾としたら日本はライフル弾位に違いがある 当時なんて国中で軍閥やら諸侯やらできて朝廷が「もう管理無理やから一番勢力あるやつらに政治任せるわ」なんて匙投げた時代やろ
そら武士も武士道とか名誉とか一切念頭にないチンピラみたいな集団だったんちゃう >>166
八幡系神社が影響力増す為に言ったことやからな神風
博多湾沿岸に橋頭堡構築できずに船に撤退させるくらいに猛攻やってたのは事実やからな
三大八幡の一つ筥崎宮の楼門建立した小早川隆景が亀山上皇の御宸筆の「敵国降伏」が今でも大陸に向かって掲げられとるからな
ある意味で一番攻撃的な神社w >>145
大半の執権が短命といえ北条時宗ですら正五位下相模守
いちばん上でも従四位下とか家格が低すぎて舐められる >>153
書いてる通り陸続きならモンゴルが余裕で勝つで
モンゴルの強みは馬やから海渡る時点でとんでもない大ハンデや >>176
そうやって自分達が強いと勘違いしてボッコボコに叩きのめされたのが日帝なんだよね >>175
飛距離はむしろ和弓の方があった
どっちかというと矢の毒の方が大きかったんじゃないか
日本は所詮ずっと支配権争いから抜け出してなかったからな >>184
名目上執権はただの将軍の補佐の役割なんだから高い位階が与えられる訳が無い >>9
モンゴル兵の死体の返却はしてない
したのは中国系と朝鮮系の兵士の遺体だけ >>185
陸続きでも日本の風土やと進軍は大変やからそこまで力発揮できなかったろうよ
東国ならともかく九州西日本やとホンマ進軍大変
戦国時代も早いうちに西日本や九州は武士は騎射ではなく徒士戦がメインに切り替わったしな
馬の機動力活かせる土地ではあまりなかった >>163
この頃のモンゴルは理知的で散々抵抗した挙句臨安を制圧されて滅亡した南宋の皇族も丁重に保護されて朝廷で重役になった奴もいる >>11
初戦は結構こてんぱん
第二戦は結構戦えてた >>176
近代戦の父みたいなロンメルとパットンがそれをわが父とか呼んで崇拝してたわけやが
モンゴリアンチョップみたいなイメージでおるんか? >>196
今も少し歩いたら海岸やしそんな変わらんな 当時の船は、風を利用して移動するわけだよ。
だからモンゴルは秋を選んで日本に来てるけど、それ台風だからw >>189
幕府内でも鎌倉後期には執権より北条家得宗のが立場上になって
他の北条一門も不満持ってたんやっけな
特に名越流北条家は対抗意識むき出しで反抗してた >>17
切り抜き言うけどそもそもが日本側が都合良く描いた絵じゃん >>17
普通に自分はこういう戦況のなか立派に闘いましたって知らしめるためだろ
実際モンゴル優性だったんだし あとこの当時の博多湾沿岸は漁村や港湾商業街の先はすぐ田んぼや湿地帯やったからな
今のように重機が入っても大丈夫な整地された田んぼではないからな
実際筥崎宮の先に当時は深田と呼ばれてた地域があるからな
腰まで浸かるような田んぼも機械化進むまで日本各地にあったくらいやしな
(後に深田は元寇で討死した原田氏御家人を祀るので原田という地名になった) 結構普通に防衛出来てたらしいなコレ
防塁多くて攻めあぐねて停泊してたら台風にやられたみたいな感じ >>189
そりゃそうだが
それでも家格向上させておくべきやったな
都産まれの清盛や頼朝ならさせたと思うで この時代ですらモンゴリアンがやってくるのは物理的に近い博多ですよ
邪馬台国畿内説がいかに荒唐無稽か分かる
あの時代にチャイナまで行けねえから 船を着けられる海岸なんて相当限られてくるから上陸地点絞れたら無理ゲよな
逆に元軍がどういう計画で侵攻したのか分からんけど >>190
遺体返還じゃなくて中国朝鮮系の敗残兵は国に帰しただったの間違いだったかも試練 >>206
弘安の役に関してはかなり準備してて体制整ってたからな
鎌倉幕府も一門の北条実政を文永の役後にすぐ異国征伐大将軍として九州に送り込んで
7年間攻めてくるまで張り付かせていたからな
そりゃ弘安の時は統率とれた動きに変わるわな >>206
あんまり語られてないが
本州の山口県の方にも防衛隊を配備しててモンゴル側の奇襲策を待ち伏せてあっさり潰してるからな
現場もだが上も戦い慣れしまくってるんだよな鎌倉武士
マジで強い >>191
時間はかかることは確か
ただ同じように攻めにくいところはモンゴルは落としてきてる
モンゴルなら直接的に落とすのに時間がかかるところでも周りを降伏させて取り込んで孤立させてから蹂躙する >>210
何せ当時の事だからロクな情報も無しで行くしかないからな
まぁ適当な所に上陸してその後は流れでとか
で、行ったら上陸できそうな所には全部石塁巡らされてて
上陸しようとしたら石塁から弓ばんばか射かけられて
どっかエエとこあるやろとやってたら台風来てオワタ >>212
その間幕府はどれくらい大陸情勢とか情報収集しとったんやろな つーかモンゴル帝国の異常さと鎌倉幕府の怖さしか伝わってこないわ >>214
日本は奥に深いから難しいのよ
地続きであろうが地形が同じならば包囲分断は難しい
ベトナムで撃退されたのと同じことになる
極地戦的な戦闘は元(モンゴル帝国は苦手
日本が本格的に開発されるのは元寇後の鎌倉後期から室町にかけてやからね
元寇の恩賞がないに等しいから新たな土地は求めることは無理で地頭たる開発領主は自領の開発により力を入れるきっかけにもなったしね
だから兵糧現地調達するのすら当時は大変やからね 征服したばかりの高麗人に船作らせたからボロ舟ばっかで日本につくにも一苦労だったって聞いたことある >>192
フビライって有能やと人種関係なく登用してたな
文天祥配下になれなれ言われてたけど忠節全うして死んじゃったけど 日本人が名を名乗ってる間に弓矢で蜂の巣はワロタ
元がビックリするほど日本人弱すぎやろ >>223
それ一騎打ちの作法ってだけで普通に奇襲かけて集団で騎射してたみたいやからな モンゴル騎馬軍団を普通にボコったマムルーク朝のほうがすごいわ 御家人の概念がいまだにわからん
九州の田舎の弱小領主が直接鎌倉幕府に仕えてたんか? 坂井っていうサムライがほぼ一人でモンゴル兵撃退したらしいで
大将の首もこいつが獲った >>223
一騎打ちの作法も知らない土人は奇襲夜襲捕虜皆殺しなんでもやってええんやなモードでボコったで ぶっちゃけ一番ヤバイのは地続きでモンゴル帝国跳ね返したベトナムやろ
あいつらマジでなんやねん第二次世界大戦終了後の世界王者アメリカですら跳ね返したし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています