鎌倉武士「ひゃあ、モンゴル人強すぎる…負けちゃうよー」台風「よろしくニキー」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>157
実際上陸がうまくいったとして京都や鎌倉まで延々と進軍するつもりだったんやろか 島国の利と台風で追い返しただけなのに日帝はこの体験で神の国とか壮大に勘違いして暴れ回ったから木っ端微塵に粉砕されたんだよね 刀伊の入寇なんてあったんか知らんかったわ…
女真が来てたとかやべーやろ 海から上陸して苦戦して
増援なく敵地に取り残されるって
滅茶苦茶悲惨よな >>155
そりゃそのころの日本って疲弊しきったあとやしな
開戦当初じゃ簡単に上陸させんやろ 四百余州を挙る十万余騎の敵
国難ここに見る弘安四年夏の頃 日本の記録だと神風で外国の記録だとふつうに負けたみたいな感じだっけ?
まあ昔すぎてわからんわな、フロイスもいないしな
けど竹崎季長の残した絵は貴重な史料だね、戦国の馬はポニーとかゆうけどふつう馬に乗って戦っとる
事実かはわからんけどさ >>163
降伏勧告に従えば優しいで従えばの話やが >>145
壊滅的なまでに人材不足や。
元々武家でしかなくて政治なんてからきしなのに。下手に成り上がったせいで、政治任されて終わった 日本にうまく攻め込めても山あり谷ありでうまく進軍できない上すげー完璧に統治されてた訳でもない九州じゃ
無名の山賊や野党にも道が狭い所で数居ても意味ない戦闘に持ち込まれたりして襲われたりしたんだろ >>159
じゃねーの
まぁ九州に土着する気でいた連中もいたろうけどもな
まぁ九州の御家人メインで撃退したのは何気に大きなポイントだわね
本州の御家人投入することなく撃退したんやから
あと鎌倉武士といえば騎射なイメージあるがかなり徒士戦もやってたみたいやからな 北条は有力御家人のライバル蹴落としたら
こんどは北条家内で継承争い始めてたな コリアンはモンゴルの劣兵として日本に攻め込んだ謝罪と賠償はしたんか? >>163
村上春樹の小説にあるけど
モンゴル人がロシア貴族を床下に生きたまま
閉じ込めて、そのままパーティーをしたって
本当なのかな? 野っ原でしか戦えないモンゴリアンが日本のゲリラ戦に対応できるわけない >>174
貴人への処刑法が絨毯の下に寝かせてその上を馬で走りまくるから案外敬意あるかもしれんで 当時の日本の矢尻が大きすぎてヤバイわ
モンゴルが拳銃の銃弾としたら日本はライフル弾位に違いがある 当時なんて国中で軍閥やら諸侯やらできて朝廷が「もう管理無理やから一番勢力あるやつらに政治任せるわ」なんて匙投げた時代やろ
そら武士も武士道とか名誉とか一切念頭にないチンピラみたいな集団だったんちゃう >>166
八幡系神社が影響力増す為に言ったことやからな神風
博多湾沿岸に橋頭堡構築できずに船に撤退させるくらいに猛攻やってたのは事実やからな
三大八幡の一つ筥崎宮の楼門建立した小早川隆景が亀山上皇の御宸筆の「敵国降伏」が今でも大陸に向かって掲げられとるからな
ある意味で一番攻撃的な神社w >>145
大半の執権が短命といえ北条時宗ですら正五位下相模守
いちばん上でも従四位下とか家格が低すぎて舐められる >>153
書いてる通り陸続きならモンゴルが余裕で勝つで
モンゴルの強みは馬やから海渡る時点でとんでもない大ハンデや >>176
そうやって自分達が強いと勘違いしてボッコボコに叩きのめされたのが日帝なんだよね >>175
飛距離はむしろ和弓の方があった
どっちかというと矢の毒の方が大きかったんじゃないか
日本は所詮ずっと支配権争いから抜け出してなかったからな >>184
名目上執権はただの将軍の補佐の役割なんだから高い位階が与えられる訳が無い >>9
モンゴル兵の死体の返却はしてない
したのは中国系と朝鮮系の兵士の遺体だけ >>185
陸続きでも日本の風土やと進軍は大変やからそこまで力発揮できなかったろうよ
東国ならともかく九州西日本やとホンマ進軍大変
戦国時代も早いうちに西日本や九州は武士は騎射ではなく徒士戦がメインに切り替わったしな
馬の機動力活かせる土地ではあまりなかった >>163
この頃のモンゴルは理知的で散々抵抗した挙句臨安を制圧されて滅亡した南宋の皇族も丁重に保護されて朝廷で重役になった奴もいる >>11
初戦は結構こてんぱん
第二戦は結構戦えてた >>176
近代戦の父みたいなロンメルとパットンがそれをわが父とか呼んで崇拝してたわけやが
モンゴリアンチョップみたいなイメージでおるんか? >>196
今も少し歩いたら海岸やしそんな変わらんな 当時の船は、風を利用して移動するわけだよ。
だからモンゴルは秋を選んで日本に来てるけど、それ台風だからw >>189
幕府内でも鎌倉後期には執権より北条家得宗のが立場上になって
他の北条一門も不満持ってたんやっけな
特に名越流北条家は対抗意識むき出しで反抗してた >>17
切り抜き言うけどそもそもが日本側が都合良く描いた絵じゃん >>17
普通に自分はこういう戦況のなか立派に闘いましたって知らしめるためだろ
実際モンゴル優性だったんだし あとこの当時の博多湾沿岸は漁村や港湾商業街の先はすぐ田んぼや湿地帯やったからな
今のように重機が入っても大丈夫な整地された田んぼではないからな
実際筥崎宮の先に当時は深田と呼ばれてた地域があるからな
腰まで浸かるような田んぼも機械化進むまで日本各地にあったくらいやしな
(後に深田は元寇で討死した原田氏御家人を祀るので原田という地名になった) 結構普通に防衛出来てたらしいなコレ
防塁多くて攻めあぐねて停泊してたら台風にやられたみたいな感じ >>189
そりゃそうだが
それでも家格向上させておくべきやったな
都産まれの清盛や頼朝ならさせたと思うで この時代ですらモンゴリアンがやってくるのは物理的に近い博多ですよ
邪馬台国畿内説がいかに荒唐無稽か分かる
あの時代にチャイナまで行けねえから 船を着けられる海岸なんて相当限られてくるから上陸地点絞れたら無理ゲよな
逆に元軍がどういう計画で侵攻したのか分からんけど >>190
遺体返還じゃなくて中国朝鮮系の敗残兵は国に帰しただったの間違いだったかも試練 >>206
弘安の役に関してはかなり準備してて体制整ってたからな
鎌倉幕府も一門の北条実政を文永の役後にすぐ異国征伐大将軍として九州に送り込んで
7年間攻めてくるまで張り付かせていたからな
そりゃ弘安の時は統率とれた動きに変わるわな >>206
あんまり語られてないが
本州の山口県の方にも防衛隊を配備しててモンゴル側の奇襲策を待ち伏せてあっさり潰してるからな
現場もだが上も戦い慣れしまくってるんだよな鎌倉武士
マジで強い >>191
時間はかかることは確か
ただ同じように攻めにくいところはモンゴルは落としてきてる
モンゴルなら直接的に落とすのに時間がかかるところでも周りを降伏させて取り込んで孤立させてから蹂躙する >>210
何せ当時の事だからロクな情報も無しで行くしかないからな
まぁ適当な所に上陸してその後は流れでとか
で、行ったら上陸できそうな所には全部石塁巡らされてて
上陸しようとしたら石塁から弓ばんばか射かけられて
どっかエエとこあるやろとやってたら台風来てオワタ >>212
その間幕府はどれくらい大陸情勢とか情報収集しとったんやろな つーかモンゴル帝国の異常さと鎌倉幕府の怖さしか伝わってこないわ >>214
日本は奥に深いから難しいのよ
地続きであろうが地形が同じならば包囲分断は難しい
ベトナムで撃退されたのと同じことになる
極地戦的な戦闘は元(モンゴル帝国は苦手
日本が本格的に開発されるのは元寇後の鎌倉後期から室町にかけてやからね
元寇の恩賞がないに等しいから新たな土地は求めることは無理で地頭たる開発領主は自領の開発により力を入れるきっかけにもなったしね
だから兵糧現地調達するのすら当時は大変やからね 征服したばかりの高麗人に船作らせたからボロ舟ばっかで日本につくにも一苦労だったって聞いたことある >>192
フビライって有能やと人種関係なく登用してたな
文天祥配下になれなれ言われてたけど忠節全うして死んじゃったけど 日本人が名を名乗ってる間に弓矢で蜂の巣はワロタ
元がビックリするほど日本人弱すぎやろ >>223
それ一騎打ちの作法ってだけで普通に奇襲かけて集団で騎射してたみたいやからな モンゴル騎馬軍団を普通にボコったマムルーク朝のほうがすごいわ 御家人の概念がいまだにわからん
九州の田舎の弱小領主が直接鎌倉幕府に仕えてたんか? 坂井っていうサムライがほぼ一人でモンゴル兵撃退したらしいで
大将の首もこいつが獲った >>223
一騎打ちの作法も知らない土人は奇襲夜襲捕虜皆殺しなんでもやってええんやなモードでボコったで ぶっちゃけ一番ヤバイのは地続きでモンゴル帝国跳ね返したベトナムやろ
あいつらマジでなんやねん第二次世界大戦終了後の世界王者アメリカですら跳ね返したし 元寇のやつらの祖先って今の自民党や電通の祖先だっけ
日本を支配している壺や朝鮮人の祖先が元寇として日本人を殺してきたんだよな >>235
ベトナム、西は山しかないし東は海しかない謎の土地なのも防衛強そう >>230
鎌倉御家人が日本中に「領地」を貰ったんやないの
で鎌倉からやってきた武士が寺社や公家の荘園を押収しちゃうみたいな 2回目は元も結構本気やったからな
ただそれ以上に鎌倉武士もクレイジーだったという >>235
地の利を得たぞやで
第二次第三次遠征でジャングルでのゲリラ戦をやった陳興道の戦術勝ちや 樺太だかアムール川の方だか行って負けてなかったっけ
何のためにあんな所まで遠征したのか知らんが >>243
哀しき漢達の熱き神風をなかったことにはしてはいけない 棺桶に入れられて船で何日間も彷徨ってそれから戦えって
ロシアに騙されてウクライナで戦ってるインド人より悲惨やな モンゴル軍の鎌倉武士評
南宋遺臣の鄭思肖「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」
元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。」 わいの読んだ本によると昔実朝に仕えてた老人が神器使って嵐起こしたって書いてたで >>235
中国統一した後の秦ですら5回侵攻してようやく征服したからな >>230
御家人ってのは鎌倉殿(鎌倉幕府将軍と主従関係結んで地頭の権利を獲得した武士
故に鎌倉幕府御家人でない武士もいる
鎌倉幕府が成立するまで武士は私田経営者であり荘園の荘官であり、国衙の郡司、郷司、保司などの役人でもあった
それでも権利関係は弱く受領や荘園領主の気分次第で権利を剥奪されかねなかった
それが源平合戦で平家没官領の多くを頼朝の私領とすることができ
それを持って所領を安堵して主従関係を構築していたった
で、権利関係を認める地位として地頭を設置した
これが御家人
ただ御家人は相変わらず荘官でもあったし国衙領の役人でもあった
今度は地頭がそれを利用して荘園や国衙領を侵食していくことになった >>243
攻めにくい島国の利点を神風などと勘違いした土人国家の末路 モンゴル軍の鎌倉武士評
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 >>244
アイヌが樺太経由で大陸に浸食してきてたから追い払った ここまでてつはう2件だけか……もっとてつはえよ!! 「元はモンゴル王朝だから、元寇(蒙古襲来)は中国の侵略じゃない!キリリ」
中国人さぁ?w 元寇に対する誤解まとめ
1・元軍は海上戦が苦手だから苦戦したのではなく、一旦は上陸したものの、陸上戦で大敗したから、海上戦を強いられた。
2.元軍は他民族混成軍だったから、士気が低く弱かったわけでもありませんでした。
そもそも、モンゴル人は遊牧民であり、人口が少なく、モンゴル帝国創建以来、征服した国の軍勢を軍に組み入れて勢力を拡大したのであり、日本遠征軍は他民族混成軍だったから、弱かったわけでもありませんでした。ナヤン・カダアンの乱では、クビライ率いる蒙古・旧南宋・高麗兵の軍勢がナヤン率いるモンゴル騎馬軍団に勝利しています。日本遠征軍は強力な軍勢だったのです。
3.日本側もそもそも最初から集団戦法でした。通説では、日本側は個人戦法であったとされていますが、日本側が一騎打ちを行なっていたとする史料は神が降臨して元軍を破ったと主張する『八幡愚童訓』という神社関係者が書いた史料しかなく、武士の文献で個人戦法だったとする史料はありません。むしろ、上記のモンゴル帝国側の武士評に「騎兵は結束す」と書かれているように、日本側の史料『蒙古襲来絵詞』にも、騎兵を結束させて集団で元軍を蹴散らす武士団が描かれています。
4.文永の役では、日本軍に苦戦した元軍は撤退中に暴風雨に遭ったのであり、暴風雨は勝敗要因としては関係ありませんでした。
弘安の役は、日本目指して遠征してから、日本軍に撃退され海上を彷徨うこと3ヶ月が経過しており、台風に遭わない方が奇跡でした。
5.弘安の役は旧南宋兵の棄兵ではありません。それならば、わざわざ、木材も資材も大量に必要とする軍船を製って日本に遠征する必要はありません。クビライ最大の脅威カイドゥにまわした方がはるかに、効果的です。
しかし実際は、大量の軍船の建造で、負担に耐えかねた民衆が盗賊化し、乱が続発するなど、クビライの治世の安定のための遠征としては全く逆の結果しか残しませんでした。 >>256
実際は、元、南宋、高麗連合軍だから
大陸連合軍みたいなモンだったけどな
ぶっちゃけアホほど攻めにくいのな九州って ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています