鎌倉武士「ひゃあ、モンゴル人強すぎる…負けちゃうよー」台風「よろしくニキー」
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モンゴル軍の鎌倉武士評
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 >>244
アイヌが樺太経由で大陸に浸食してきてたから追い払った ここまでてつはう2件だけか……もっとてつはえよ!! 「元はモンゴル王朝だから、元寇(蒙古襲来)は中国の侵略じゃない!キリリ」
中国人さぁ?w 元寇に対する誤解まとめ
1・元軍は海上戦が苦手だから苦戦したのではなく、一旦は上陸したものの、陸上戦で大敗したから、海上戦を強いられた。
2.元軍は他民族混成軍だったから、士気が低く弱かったわけでもありませんでした。
そもそも、モンゴル人は遊牧民であり、人口が少なく、モンゴル帝国創建以来、征服した国の軍勢を軍に組み入れて勢力を拡大したのであり、日本遠征軍は他民族混成軍だったから、弱かったわけでもありませんでした。ナヤン・カダアンの乱では、クビライ率いる蒙古・旧南宋・高麗兵の軍勢がナヤン率いるモンゴル騎馬軍団に勝利しています。日本遠征軍は強力な軍勢だったのです。
3.日本側もそもそも最初から集団戦法でした。通説では、日本側は個人戦法であったとされていますが、日本側が一騎打ちを行なっていたとする史料は神が降臨して元軍を破ったと主張する『八幡愚童訓』という神社関係者が書いた史料しかなく、武士の文献で個人戦法だったとする史料はありません。むしろ、上記のモンゴル帝国側の武士評に「騎兵は結束す」と書かれているように、日本側の史料『蒙古襲来絵詞』にも、騎兵を結束させて集団で元軍を蹴散らす武士団が描かれています。
4.文永の役では、日本軍に苦戦した元軍は撤退中に暴風雨に遭ったのであり、暴風雨は勝敗要因としては関係ありませんでした。
弘安の役は、日本目指して遠征してから、日本軍に撃退され海上を彷徨うこと3ヶ月が経過しており、台風に遭わない方が奇跡でした。
5.弘安の役は旧南宋兵の棄兵ではありません。それならば、わざわざ、木材も資材も大量に必要とする軍船を製って日本に遠征する必要はありません。クビライ最大の脅威カイドゥにまわした方がはるかに、効果的です。
しかし実際は、大量の軍船の建造で、負担に耐えかねた民衆が盗賊化し、乱が続発するなど、クビライの治世の安定のための遠征としては全く逆の結果しか残しませんでした。 >>256
実際は、元、南宋、高麗連合軍だから
大陸連合軍みたいなモンだったけどな
ぶっちゃけアホほど攻めにくいのな九州って もともと中国は遊牧民に手を焼いてたからな
金払って大人しくしてもらってたりで そもそも攻め込まれてボロ負けなのに
いちいち船まで戻る意味わからんもんな。 文永の役の元軍は多くても5万いないぐらいで、こんな数で勝てるはずが無い
実際その日のうちにボッコボコにされて散々逃げ回って矢も打ち尽くして撤退している
さすがに二回目は学習して弘安の役では15万を越える空前の大艦隊を編成して攻めたが
次々と到着する鎌倉方の援軍に3ヶ月経っても戦況は好転せず、台風にもやられて撤退
というかこの季節の九州に3ヶ月も停泊していたらそりゃいつかは台風が来るのが当たり前で
むしろ来ない方がおかしいというか >>243
神風吹いて一時的にアメリカの空母機動部隊の作戦止まったで お前ら「元寇は中国人や韓国人が多数派だから本気じゃない!1軍じゃない!」
大元ウルス「中国人と韓国人とモンゴル人を含めた他民族混成軍30万でモンゴル騎馬軍団40万を倒しました」
元寇で日本に攻めてきた他民族混成軍は強力な軍勢だったんだよ 台風来る時期なの知らんかったなら、ただのアホやんけ 日本にしか元寇の記録がない時点でお察し
本体でもなんでもない奴らが攻めてきてくたばったんだろ >>258
ナヤン・カダアンの乱では元、南宋、高麗の他民族混成軍36万で40万のモンゴル騎馬軍団に勝ってるけどね >>252
むしろ太平洋戦争で何度も神風は吹いてるから
◆44年:台風9号コブラによって米第38任務部隊が大損害
駆逐艦3隻沈没、空母を含む18隻が大中破、9隻が損傷、艦上機108機喪失、800名が死亡又は不明
◆45年:台風11号バイパーによって米中部太平洋方面軍沖縄攻略部隊が壊滅的損害
戦艦4隻、空母2隻、軽空母2隻、護衛空母4隻、重巡3隻、軽巡4隻、駆逐艦他17隻が大中破
艦上機142機が破壊(人的損害不明)
◆46年:沖縄中城湾港に駐留する米補給艦隊を襲った台風14号
輸送船数十隻、1万トン以上の補給物資喪失、人的損害不明
(これはもし戦争末期の沖縄や日本本土攻略中に発生していたら、一旦作戦を中止するぐらいの損害)
普通の艦隊戦での被害より多くの損害を被っている >>227
あれモンゴル軍一万人やろ
たった一万人のモンゴル軍に勝って鎌倉より凄いか? >>266
高麗側にもあるぞ
日本側の勝利の記述だけど >>266
日本に攻めてきたモンゴル軍は殆ど日本で死んだからな >>227
マムルークは10万の軍勢だしまぁ勝つわな >>266
負けたはずの元の本国にはなんの影響も無かったしな
日本は何も得る物が無かったのに武士の恩賞だなんだと逼迫して滅亡に向かう事になったが 「聖徳太子」「元寇」「鎖国」「マゼラン」「リンカーン」教科書から消え始めるwvw使ってるとおっさんがバレるぞwvw
https://i.imgur.com/knB7tD5.jpg 最近Xで話題になってたやつ
「コロンブスがもしアメリカ大陸じゃなくて日本に来てたら日本人がインディアンみたいな目にあってた」
ほんまけ? 大軍展開できるような土地がそもそも少なく
やっと広い浦見つけたら高さ3Mの防塁と障害トラップだらけ
ようやく見つけた小さい浜に小勢で上陸しても
速攻で周囲から大量の鎌倉クレイジー族が沸き出て来て
多勢に無勢のボコボコに モンゴル帝国「日本をボコすぞ」
モンゴル帝国「まずは船をつくるぞ」
モンゴル帝国「高麗、船を作れ」
高麗「はい!わかりました」
高麗「侵略者のモンゴルの為になんで船作らなきゃあかんねん、適当でええわ」
高麗「できました!」
モンゴル帝国「よし、乗って日本をボコしてこい!」
高麗「!?!?!?!?!?!?!?」 >>277
コロンブス側の武力をどんだけ過大評価しとるねん 島津が女々しくて弱い雑魚ということで九州の端っこに流されるレベルや 騎馬軍団を展開できる平原→そんなものはない
気候→高温多湿
水→基本汚れてる
住民→気性は荒い
何の罰ゲームや… >>60
神風が特攻隊の名前に使われたように寧ろ神風をプロパガンダにしてたのは旧日本軍 >>275
軍船 4,400艘、15万の兵が消失して本当に何の影響もないと思うか?
元のメンツにも関わるしな 元寇のせいで高麗の山がことごとく禿山と化し木材不足で船が作れなくなり、倭寇の侵入を防ぐことができなくなったらしいな
自業自得やで >>276
「鎖国」と「いわゆる鎖国」の違いって何なん? モンゴル帝国と真正面でぶつかって勝った人々
マムルーク朝のバイバルス
ベトナムの陳さん
鎌倉幕府の北条時宗
インドネシアの謎の海の民
アフガニスタンの部族連合 マルコポーロ「日本は金がザックザクでっせ!」
こいつが戦犯やろ 流石に地の利でベトナムや日本には負けとるけど
中華王朝とイスラム帝国のあの世界2トップボコってるのはヤバい
ヨーロッパもドイツぐらいまで来とうし >>269
爆風を逃がすため開放式で建造するアメリカの軍艦は日本近海の荒海に弱い まともに海軍無いのに「いざとなれば神風が守ってくれる」って言ってイギリスに喧嘩売ってボコされた薩摩という裏切り雑魚が幕末に居てな >>276
日本最古の貨幣って、存在自体が最古なのか本格的に流通したのかが最古かって違いやろ
和同開珎も富本銭も両方正しいやん >>289
実態調査を行わずに伝記ソースで軍隊派遣する元軍サイドにも問題がある >>287
厳密には鎖国ではないって事では
一部とは言え一応交易してたしな >>285
実際その後の元の政治体制には特に影響出てないやろ >>287
「鎖国」だとガチで海外と一切の交流を絶って孤立してたみたいな印象与えるやろ >>287
出島はあったから完全な鎖国ではないってことだな
いわゆる海禁政策 >>292
薩英の勝敗はないとか言うけど
英国の軍門に下って幕府転覆に動いたとしか思えんわな >>292
薩英戦争らイギリスもそこそこダメージ食らってドローやろ? 因みに珊瑚海海戦で中破した空母ヨークタウンが航海しながら修理してミッドウェイに間に合ったり
ミッドウェイ海戦で爆弾を何発も受けたエンタープライズがダメージコントロールで持ちこたえて飛龍を沈めたり
レイテ海戦ではサマール沖で日本の戦艦に散々追い回されて何発も直撃食らった米軽空母がそのまま逃げ切ったりと
アメリカの軍艦、特に空母は異常な打たれ強さとダメージコントロール能力を持っているように思えるが
これは米海軍作戦海域の天候と日本海軍との建艦思想の違い
アメリカの軍艦は駆逐艦に至るまで復元性が低く、空母に至っては開放式の格納庫を採用しているので
艦形の割りに戦闘力が高く、日本の空母より多くの艦載機が積めるし被弾にも強く少々の爆撃でもすぐに復活する。
しかし荒天に弱く南太平洋のような海域で台風に遭遇するとバンバン沈んだ
日本海軍は友鶴事件の教訓で何よりも荒天性能と復元性を重視していたので、米軍の様に台風で沈んだ艦は無い >>292
薩摩だけで済んだら良かったが日帝は国家ぐるみでその認識だったから救いようが無いよな >>298
80年代の頃から1%切っとる北九州は四大の資格あんのかとは言われとった 江戸時代に「鎖国」言ってたのに
いわゆる~とか言い出すとか歴史改変だよ
1192を1185だって名実ともにを認めない歴史改変
徳川政権を1600年から言うのと同じ モンゴル軍「アイン・ジャールートの戦い?そんなのあったっけ?」
wiki引用
一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いには印象が薄いようである >>302
ドローというよりはそれなりにやるじゃんって認めてくれたって感じかな
被害は圧倒的に違った 元って部族社会のアイヌにも撃退されたんやろ
鎌倉武士が弱かったんか? まあ日本の圧勝ってのも怪しいもんだよな
負けて帰った方からしたら
相手が強かったことにしたいだろうし
本心は行きたくなかったのなら尚更よ もし長州がイギリスの要求を飲んで彦島を租借させてたら今頃日本はイギリスの植民地だったみたいな事を伊藤博文が述懐してるんよな
高杉晋作ってすげーわ >>289
いうほど関係無いと思う
いうて晩年まで隙あらば行こうとしてたし
結構クビライ的には好奇心で獲りたい欲求とかがあったのやもしれん
その後の中華王朝軒並み日本侵攻とか捨ててるからな。 >>310
15万のモンゴル軍を壊滅させたんだし圧勝やろ >>306
明確な資料で学説変わらん限り大体は自説を残したい学者の言葉遊びやからな >>291
あれ爆撃に強いと言うのは二次的効果で、本来の狙いは艦載機を増やす為なんだよな
だからメインエレベーターも船外に設置されていた
ダメコンが強いのも、可燃物や航空機が格納庫で炎上してもそのまま重機で押して船外に投棄することですぐに鎮火できたのが大きい 1192なのか1185なのか論争ってマジで無意味やと思う
鎌倉幕府は段階的に成立していったもんやし
そもそも何を持って幕府やねんって話やし
成立年を確定させる必要性も謎やし >>290
ワールシュタットの戦いでポーランド&ドイツ連合軍を一方的にボゴボコにしてヨーロッパに大きく深刻なトラウマを残したしな。
おかげドイツではロシアを侵略してアジアの野蛮な蛮族との緩衝国にしようって考えが根強く残り独ソ戦の遠因の一つになったりしてる。 >>303
台風のなかでやらかした第四艦隊事件もあったしな
台風の右下部分が一番きついのこれで知られたんだっけな >>313
実際は上陸できた小分けの数百~数千を
万人の鎌倉クレイジーでボコっていった感じ
大兵力展開できる土地も無いまま
鷹島でまごついてたたら台風で壊滅って感じ >>313
城を落とすのに三倍の兵力がいるって言うし
上陸戦となればもっといるんじゃね
兵力差がどのくらいか知らんけど >>311
その頃に植民地にされてた方が今現代でちゃんとした独立が出来てたかもな
勘違いしてボコボコにされた挙句今や軍隊も持てない実質アメリカ様の植民地や >>312
基本的に歴代支那王朝は日本を支那周辺国の中で最も国力ある国やとずっとみなしてきたからな
周辺国の中では朝貢貿易でなくとも貿易続けたいくらいにメリットあったからな
実際私貿易の方がメリット大きかったからな
朝貢貿易やとかなり支那王朝の出費になったから >>316
学会ではそういうの重要なのよね。邪馬台国の九州説と畿内説の論争よりは生産的だと思うで 刀伊の入寇「対馬、壱岐で数百人が殺害される」←こいつもっと騒がれていいよな
大河で描かれるかな 大覚寺統の亀山上皇が祈祷して
神風起こして夷狄を攘った
水戸学に始まる尊王攘夷思想には
ピッタリのイベントなんよな ソ連と米軍のツートップ追い返したアフガニスタンも強い
モンゴルには占領されたけど >>316
ワイは1192でええと思う
江戸幕府だって秀吉死後は一番官位上だった家康政権で関ヶ原後はそれを強化して
1603年以前にもう江戸幕府機能はあったからな >>322
まあ長州閥のポジショントークの可能性はあるやろけど
高杉晋作のそのへんの知見の広さはすげえなあと思う >>325
やるんじゃないのかな
晴明が隆家を「役に立つ」って言ってたし ここで流行ってた鎌倉武士最強コピペ
大嘘だったらしいな
騙されたわ
時宗の頃と頼朝の頃の坂東武者とかもかなり違うらしい >>323
国力があるというより海の向こうにある攻めにくい鬱陶しい国やろな >>325
描かれるやろか微妙
九州から文が届いた程度で終わらせそう >>329
植民地ってか香港みたいな感じになるんかな 籠城してた蒙古兵に毒持って全滅させたらしいな
誉なさすぎやろ >>325
初回不意打ちとモンゴル定番の
残虐行為をして敵の戦意を挫くというアレ
尚、2回目に対してクレイジー達を
大同団結する力となってしまったもよう
2回目の東路軍は壱岐で上陸後
速攻でボコボコにされて撤退しとるからな >>319
何ヶ月も陸上戦で鎌倉武士に勝てずに海上を彷徨ってたら台風にあたって事だよね
あと数百、数千って数字のソースは? 歴史学は特に偉い学者の引退や死去でパワーバランス変わって学説まで変わる業界やからな
ゴッドハンドもほとんどの学者がおかしい言ってるのに後ろ盾に吉野ケ里遺跡を邪馬台国みたいに売り出した偉い教授がついとったので文句言えん雰囲気やったし >>332
勿論それもあるが実際強国として認識してたんよ
周辺国の中で人口多いのは知られていたし
貿易の規模も大きかったしな
お互い手を出さなければ怪我しないからな
だから日本相手には朝貢を求める意欲もあまりなくなぁなぁでお互いやってたからな 鎌倉幕府の年代変わったのも中身は酷いよな
頼朝は 別に征夷大将軍じゃなくても他二つの役職でもええでw って言ってたからノーカンノーカン!! って >>338
コ川吉宗、松平定信、徳川宗春、田沼意次の評価とかは
その時の経済政策でコロコロかわるしな >>338
コ川吉宗、松平定信、徳川宗春、田沼意次の評価とかは
その時の経済政策でコロコロかわるしな 元寇が幕府滅亡の原因の一つとか言われる割にはその後滅亡まで半世紀あるよな
結局恩賞無しの不満よりも、御家人が代を重ねるごとに貧しくなっていく田分けシステムにしてしまった事が
約140年くらいで限界が来るシステムだっただけに過ぎないんじゃねと >>331
これが真実だよ
史科に基づくモンゴル軍の鎌倉武士評
南宋遺臣の鄭思肖「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」
元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。」
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 せっかく防塁築いたのにわざわざ防塁の前に出て名乗り上げた武士見て現場の士気ブチ上がったエピソードすこ 今とは当然地形も少し違うやろうけど
グーグル先生の航空写真で壱岐の島見てみ
どこに数万の兵と数百の船展開できる場所あるねんw
逆に追い返した結果から考えると鎌倉側は
前回の被害から一定数の常駐兵と救援体制整えてたと思われる >>345
海からのモンゴルってアイヌや台湾や国ですらない部族にも負けているんやろ
強いのか疑問だわ 宋は前漢みたいにお金でモンゴルにお帰りしてもらえなかったんやろうか?
いつものモンゴル兄さん作戦しなかったんか? PC版出たしツシマスレになるかと思ったらガチの歴史スレで誰もツシマネタ拾おうともしなくてワイは悲しいわ >>348
長江対岸の南宋も50年がかりで入念な対策してようやく勝利だからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています