近親相姦がいけない理由ってのは少なくとも遺伝的な要素なのはあり得ないからな。
基本的に、遺伝子が目的をもった動きをする事はない。あくまでも、偶然そうなった程度。
で、近親と呼ばれる「社会的範疇」が遺伝子云々の働きって証拠は一つもない。
むしろ、「生き別れで育ったならば、判別できない程度」の働きしか持ってない。つまり近親相姦禁忌は、「生物的要素」ではなく「社会的要素」であること、が非常に有力な線。
さらに言えば、「何故」近親相姦禁忌が存在するのかは科学的な答えを持たない。
「社会的な要素」と言うのは、現実的な当てはめは可能だが、演繹的な論理を構築できない。よって「絶対的にダメな理由」は存在しない。
近親相姦が何故いけないのか、が社会的要因であることを理解した上で「何故いけないのか?」を考察した時に出てくるのは徹頭徹尾「社会的な」事柄。
近親相姦の要素をまず考えると、中々に面白い。まず、近親相姦は「家族」という要素がなければ成立しない。
つまり「親子」「兄弟姉妹」等の社会的な区分がなければ成立しない。重要なのは母子以外の関係は血を見る上では、個体においては「確認が出来ない」ところにある。
例えば、父子。父親は息子娘を「自分の子である」と現実において直観的には見破れない。
兄弟姉妹は母親が同じである事は「立ちあえば」理解できるが、父親が同じであるかどうかは父子関係同様に、見破る事が出来ない。
現状、遺伝子を調べるという非常に高度な技術をもってのみそれを確認出来る。だがそれであっても「近親相姦禁忌」は成り立つ。
例え相手が「血のつながった親・子」「血のつながった兄弟姉妹」でなくてもその当の個体にとって「親・子」「兄弟姉妹」であるならば、
個体の実感の中には「近親相姦」が生まれる。近親相姦禁忌は社会的な関係である「家族」から生まれる。
では、何故? 社会とはその根本的な原理として「同質なもの」が「集合」することにある。
その基本的な形が家族であり、より発展的な形が国などの大きな集団である。大きな集合にとって個々人は一つの単位となるが、その中にある派閥もまた一つの単位になる。
具体的に言えば、政党、会社、非営利団体、学校、そして家族。これらが「より大きな集団」の中で成立するにはある基本的な共通点がなければならない。
いや、逆に実際は考えるべきで、どうすれば上記の派閥が「より大きな集団」に拡張されうるのか? を問うた時、そこには絶対的になければならない条件がある。
基本的に集合するだけではそれは集団とならない。如何に同質のものであっても離散しないことを決定できない。
故に。集団には基本的なルールつまりその集団の定義が求められる。その集団の定義は有機的なものであって、集団はある種の代謝を必要とする。
つまり、その集団のみに閉じこもらない事がなければ必然的にその集団は自壊する。分かりやすく言えば、どことも何の取引もしない会社が成立しないということである。
同時にそれは「近親相姦禁忌」を生みだすもう一つのルールを必然的に生みだす。つまり「異質の排除」である。
代謝と相反しそうなルールではあるが、代謝はあくまでも構造上の出入りであって構造そのものに対して異質となる存在は代謝の要素足りえない。
毒が生物にとって「毒」足り得る事と同様である。そして、「近親相姦」は「異質」と断ぜられるが故に社会から排除される。
では、近親相姦が何故「異質」となるか? 近親相姦は前述のルールの一つである代謝を欠いている。 
そもそも家族は自身と「他の血族の個体」が結びついて子を成すことから発生する。しかし、もし近親相姦を許容してしまうと他の血族を選ぶ必要性がなくなってしまう。
言ってみれば家族がその他の社会に対して「閉じて」しまい、反社会的とは言わないが「非社会的」な集団となってしまうのである。
自己完結する集団は自壊すると述べたが「内部で増殖し得る」場合、それはより大きな集団にとっては脅威となる。
何故ならば、自らと関わりを断った集団が自らの中で肥大化するからである。
代謝をしない集団は「その内情を知る事が出来ない」。言うなればレントゲン写真を撮影した際に影が出来る事と同義である。
近親相姦はその閉鎖性故にそれを取り巻く社会からは異質と断ぜられ、排除される様になる。