今年のノーベル平和賞を受賞する日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される前、「空白の10年」と呼ばれる時代に、原爆の悲惨さを訴え続けた医師がいた。

しかし、昭和天皇は内々の席で医師に対して「宣伝屋」と批判的な発言をしていたことが、側近の記録で明らかになった。その背景には、連合国軍総司令部(GHQ)による検閲で被爆者が自由に発信できなかった事情もあった。

医師の永井隆(1951年、43歳で死去)は、45年8月9日、爆心地から約700メートルにある長崎市の長崎医科大(現長崎大学医学部)で被爆した。妻を亡くし、自らも重傷を負いながら被爆者の治療に尽くした。

 ところが天皇は、あまり良い感情を抱いていなかった様子が、側近の記録からうかがえる。

 初代宮内庁長官を務めた田島道治が在任中の49~53年に記した「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」(全7巻)が2021~23年に順次刊行され、戦後間もない時期に天皇が側近と交わした会話の詳細が初めて明らかになった。

 「拝謁記」によると1950年4月19日の天皇の発言にはこうある。

 湯川博士と共に、長崎の永井隆をも表彰するのが銀盃(ぎんぱい)で出て来た。私はこんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるいと思ふが、裁可せぬ訳には行かぬと思ふが

日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とともに永井への国家表彰が決まり、政府から裁可を求められた天皇が田島に対し、内々にもらした言葉だ。