>>240
客観的事実としてローマ法からすると
「23:29ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、
なんら死刑または投獄に当る罪のないことがわかりました。 」
と言う事だと思います。
そもそもが無割礼者問題です。
ユダヤからすれば、無割礼者と霊的に交流するのはNGですが、ローマではどーでも
よいことです。
現代キリスト教も、未受洗者を頑なに陪餐させません。
『聖餐』という霊的交わりの場に未受洗者を招いた教職を首にしたりしています。
それと同クオリティのタブーをパウロが積極的に犯し、その横紙破りが
キリスト教の本道となったのですが、キリスト教は割礼の代りに洗礼という儀礼を
入信儀式として位置づけ未受洗者には断固陪餐させないという現代版の迫害を繰り返しているのです