本日の聖句はルカ2章です。
ぴっぴさんも月3万円らしいです。おそろしい。。。
うちは1万円ちょっとです
電気ポットをやめて、魔法瓶に変えたりしています
これは翻訳の底本となるネストレが原文にない記号を挿入して「挿入句」としているので
諸訳はそれに従っているわけですがキリスト教は正々堂々と改竄を行っています
口語訳
―― 2:35そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――
新共同訳
――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――
聖書協会共同訳
剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。
新改訳第三版
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。
新改訳2017
あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります
新改訳と聖書協会共同訳は、ネストレの挿入句記号を無視していますね
なぜ軒並み諸訳が「褒め」「驚き」と誤訳するかといいますと
権威ある辞書であるバウワーがマルテイレオーという「証言する」という動詞を
「褒める」も訳語であると間違って記載しているからです。
「驚く」の方は誤訳ではないのですが、あいつ変なことをしている「いぶかしげに思う」という
動詞です。「不思議に思っている」「いぶかる」という意味の「驚く」を口語訳は
驚嘆する、から
「不思議に思っている」「いぶかる」という意味の「驚く」を口語訳は
驚嘆する、から「感嘆する」という訳語を思いついたみたいですね
で、次節とつながりが悪くなったわけです。
原文はすんなりとつながります
17節の平地。直訳だと「足の場所」です。
さてマルコ
3:7それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。
またユダヤから、
3:8エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、
ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた
ルカ
そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、
ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
6:18教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。
ルカはガリラヤを消去して、まずエルサレム中心主義を出します。
イドマヤとヨルダン対岸地域も削除しています。
さてルカに記述はありませんが、マルコ7:24以下では主イエースースがツロに行かれています。
つまり宣教区域内ですね
事実かどうかはわかりませんが、マルコなどを読むと治癒を求めて大勢が各地から
やってきたという記述となっています。
マタイの「心の貧しい者」はマタイ神学による改竄です。
で、マタイは神の国を天の国と改竄しています。
wikiによると
「ヘブライ聖書」には本来、堕天使という概念は登場しない。
天使の堕落の伝説の早期の例は、後期ユダヤ教諸派において成立した、
後に偽典と呼ばれることになる文書のひとつ「エノク書」にあらわれる。
このエノクの伝承は、ヘレニズム期のユダヤ教セクトであるクムラン教団を特徴づける
「善と悪の戦い(英語版)」の観念とともに原始キリスト教に影響を与え、
これによって堕天使の概念はキリスト教の基礎の一部となったと考えられている
とあります
3節、なぜかはわかりませんが、マルコでは杖以外はとなっているところを
ルカは杖もダメとなっています。仏教の出家に近い感覚でしょうか
14節、古代人は人数に男性のみを記録したようです。女性は眼中になかったみたいです
27節の平行か所マルコ9:1では
9:1また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
ルカ8:27
9:27よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」
ルカはマルコの「力をもって来るのを」を削除することで、マルコでは時間的な終末的現実であったのを
無時間的宗教真理へと転換しています。
救われたもののみが神の国つまり宗教的真理を視れますと。
この説はコンツェルマン『時の中心』です
さてルカの11章です
冒頭の主の祈りに続いて、「求めよ、さらば与えられん」の説諭、それから悪霊に関する話、
さらには邪悪な時代に関する話、最後はパリサイ人や律法学者の形式主義に対する舌鋒鋭い批判
といった流れになってます
今回気になった箇所は、まず27-28節です
ここでイエスはマリヤよりも神の言葉を聞いて守る人をはっきりと上に置きます
それから後半のパリサイ人や律法学者に対する批判ですが
流れ的にはパリサイ人がイエスを食事に招き、イエスが食前に手を洗わなかったのを見て
不思議に思った、というのを受けてイエスの批判が始まります
この流れ自体にはパリサイ人の悪意や罪はありません
それに対するイエスの批判は内容はともかくその辛辣さはいかにも突飛な印象を受けます
またここはルカの反ユダヤ主義が強く出ている箇所であるようにも感じます
休日分ですが、土曜と日曜に分かれているので、一応土曜分について書きます
ヨハネの10章の1-18と27-29です
7節では「わたしは羊の門である。」と言ってますが、11節では「わたしはよい羊飼いである。」と言ってます
前者は救いはイエスを通らなければならないこと、後者は導き手としてのイエスを語っているのでしょう
ともかく、イエスを通り、イエスに従うことで永遠の命が得られる、ということを強調しているようです
今日はルカの12章ですね
ここはずっとイエスの説教や喩え話が続いているところです
偽善に気をつけよ、すべてを見通す神を恐れよ、といった説教のあと
愚かな金持ちの喩えが続き、さらに思い煩うなという説教をはさんで
目を覚ましている僕の喩え、最後はまた平和ではなく分裂をもたらすために来た
という説教ですね
まあひとつひとつ吟味する価値があるものがたくさんありすぎて簡単にはまとめられませんw
前にも書いたかも知れませんが、27節はイエスの言葉の中でも最も好きな言葉のひとつです
今日はルカの13章です
前章に続いてイエスの説教と譬え話が主になっています
冒頭イエスは今の災難は必ずしも他者より罪が重いからではない、悔い改めなければ
みな結果は同じ、と述べています
その次のぶどう園といちじくの木の喩えは「ある人」が神(父)、園丁がイエスの比喩であると
思いました
ぶどう園は直前で言及されたエルサレム、あるいはイスラエル全体でしょうか
その次は18年間病気を患う女の話で、例によって安息日の癒やしですね
さらにからし種の喩えが続き、ルカ版狭き門、などの説教が続きます
今回気になったのは32節です
「あのきつね」はものヘロデのことを指しているのでしょうか
そうだとしたらすごい言い方をしたもんだと思います
麦百石は、原文では、穀物100コロス。ヘブライ語のコルという度量単位でバトの約10倍なので
36000リットルの借金という膨大な借金。それを80コルにしても大差ないと思うけど。20コルぐらいに
してほしかったものだ。穀物は、たいてい小麦のことなので「麦
穀物は、たいてい小麦のことなので「麦』と言う訳は正確。
8節のこの世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
は、光の子は、来世の事柄については利口なので、
この世のルールに従わず、地主が暴利をむさぼっているならば、
地のルールではなくて、天のルールに従って借金を棒引きにするという意味
9節の不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。
は、ルカの屁理屈。そんなわけがないので屁理屈を重ねて
10節で、他で流布していた格言を挿入して道徳性を担保しようとしたが
とすると家令は極悪人だということにしかならない。なぜなら主人の利益を損なっている
から。
そこで11節で挽回しようとして、
「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。」と弁護した。
すると今度は不正なものを上手に利用したということは擁護できたが
倫理性が崩壊してしまった。
そこで12節で修正を咥えたのであるが、しかしこの例え話の家令は主人側に
立ってないのだから誰もこの家令に年貢の管理を任せようと思わないので破綻している
13節ではもはや取り繕いを諦めて関係のない格言で、話をしめてしまったという混乱した流れです。
もはや莫迦としかいいようがありません。
理解できなくて当たり前です