宗教板避難所3
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204 名前:福音伝道[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 06:39:36.84 ID:orpvNmUU >>203 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ13-14章です 11:1-9がメシアが登場し、人間と動物の自然秩序が劇的に転換され 征服者の比喩である肉食獣と被征服者の象徴である草食動物が共生する様が 描かれています。 そして10-16節で諸国に散らされている者たちが集められて イスラエルが形成される様が描かれているわけですね その際に10章で敵国であるアッシリアが裁かれたように 近隣諸国も神によって裁かれイスラエルに征服されるのですね 「アンモンの人々をおのれに従わせる。」 実際、アンモン人は ダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収されています これの預言ですね >>2 人間と動物の自然的な秩序が転換され、征服者と被征服者が共存するという未来像に続いて 諸国に散らされていたユダヤの民がカナンの地に再び集められ、さらに近隣諸国は イスラエルによって征服される、という預言ですね 9節までが征服者と被征服者の共存という形で語られているのに 後半はやはりイスラエルによる近隣諸国の征服になってしまうところが 民族主義的な第一イザヤの限界であるように思いましたが そもそもユダヤ教はヤハウェとその選民であるユダヤ人によって 裁きを通じ、世界に秩序と平和がもたらされる、という発想ですから これは致し方がないのかもしれませんね さて13-14章ですが、ここはズバリ、ペルシアによるバビロン陥落を預言という体裁で書いたところだと 思います 13章の記述はバビロンの徹底的な裁きと滅びを語っていますが ユダがバビロンによって滅ぼされ、生き残った民は異国へ連れて行かれたわけですから バビロンに対する憎悪が苛烈なのも理解できます やはり諸民族が興亡した古代のオリエントを反映して、聖書の記述とは言え 峻烈な記述にならざるを得ないのでしょう 14章はその続きとして、イスラエルの復興が語られますが ここも前章同様、厳しい記述になっています ただ25節ではアッシリアに、29節以降ではペリシテ人に矛先が移っています この2章を書いたときの筆者の気持ちは13章9節に縮約されているように思います ヘブライ語聖書で語られる神は、このような神の恐ろしい側面がしばしば出てくるので こういったところが、共感福音書のOlivet Discourse(マタイ24-25などの終末預言)や ヨハネ黙示録に影響を与えているのかもしれませんね >>3 atheistくん、おはようございます。スレ立てありがとうございます。 本日の聖句はイザヤ15-16章です BC5Cの編集者が13-14章をまとめたそうですが、アッシリアへの宣託と ペリシテへの宣託はすでに成就されたいたそうです。 で、後に成就されるであろうバビロンへの宣託(13:1-14:23)の見本と なっているそうです さてハーパー注解もフランシスコ会訳注も 「バビロン」をバビロンだとは読まず、「世界的不義」の象徴と理解する。 しかし13:17-22は歴史的バビロンの滅亡の預言と解釈する 14章冒頭では捕囚した者が、後に捕囚された者たちの奴隷になると説かれ バビロンは天そのものに敵対する傲慢であると断罪される とはいえ基調には、バビロンにしろ、アッシリアにせよ、ペリシテにしても ユだやイスラエルが神に逆らったので、罰を与えるための神の杖や鞭である と明かされているので、わたしとしては矛盾していると思う >>4 そういえば、なんでバビロン捕囚後なのにアッシリアの話が出てくるんだろうと思ってました バビロンは後の新約聖書でもローマの暗喩として使われますし、今ではアメリカのことを 指すなど、さらに拡張されて使用されたりしますね バビロン等をユダヤ人の神からの離反に対する神の杖だとみなし それが終わると神の民の敵として罰する、といった発想は傍から見ればご都合主義以外の なにものでもありませんが、このへんは神と選民の契約を軸とする宗教としては 自然な発想だったのでしょうね さて15-16章はモアブについての託宣ですね モアブはイスラエルの地の東側に隣接する国で、ロトの娘の子孫みたいな設定でしたっけ なのでまあ兄弟国みたいなものですが、どっちかっていうと敵対国として聖書には描かれていることが 多いような気がします ここでもモアブは滅びの託宣を受けていますが、16章の3-5節ではイスラエル(南ユダ王国?)が モアブの難民を匿うようにと言っているように読めます アッシリアが攻めてきた時代なのかバビロニアが攻めてきた時代なのか、分かりませんが モアブに対しては一定の温情をもった書き方になっているような気がします それにしてもモアブ以外は地名が全くどこを指しているのか分からないので 具体的なイメージが湧きにくく、また比喩も多用されているので ここはちょっと読みにくかったです atheistくん、おはようございます 本日の聖句はイザヤ17-18章です。 モアブはロトと娘都の子孫でイスラエルの異母兄弟ですね。 近隣諸国であり、敵ですね。現代のヨルダンです。 福音派は、16:3-5で、神がユダ王国にモアブの難民を受け入れよと 言っていると弓ますが メインラインは4b-5節はモアブ崩壊後、ダビデ王座が回復される メシア的に預言と読みます。 30以上である地名はすべてモアブの諸都市です。 アルは首都 キルは首都を守る城壁で12km先にあったそうです デボンは宗教都市です。ヘブライ語原典ではデボンの宮です デボンの娘と訳す口語訳はシリア語訳に従ってます 以下略 >>6 4節の前半とその後から5節のつながりがよくわからなかったのですが ここは福音派とメインラインでは解釈が違ってきちゃってるわけですね ヘブライ語聖書ではよく分からない地名人名が大量に出てくることがありますね そういうところはたいてい適当に読み流しますが、真剣に検討する場合は もうコメンタリーなしだとまるで読めなくなりますよね さて17-18章ですが、17章はダマスコにつていの託宣、18章はエチオピアあるいは その近辺のアフリカの国についての託宣ですかね 17章はダマスコ(シリア地方)についてですが、「エフライムのとりではすたり」とあるように 元北イスラエル王国にアッシリアが侵攻し住民の多くが異国人に入れ替えられたことを前提に 話をしてるんですかね? 8節でアシラ(アシェラ)像と出てくるので、古くからカナンの地で崇拝されていた異教の神が 衰え、それを崇拝していたシリアの民の滅んでいく、という預言なのでしょうか 18章はどこの国を指しているのか分かりません エチオピアという名前は出てきますが「エチオピアの川々のかなたなる」と書いてあるので 別の国のことのようにも読めます カナンの地から見れば川々(ナイル川?)の彼方となればエチオピア地方となりそうですが ナイルの上流から見れば彼方はエジプトになりそうです エジプトとエチオピア以外にアフリカでイスラエルに関係の深い国はなかったように思いますから このどちらかという気はしますが、エジプトであればそのままエジプトと書いてあるでしょうから やっぱりエチオピアのことなんでしょうかね? >>8 atheistくん、おはようございます。本日地明日の聖句は1列王11:26-12:33です 17章はダマスコとエフライム 18章はクシュからの誘いとあります。 注によるとダマスコはアラム(現代のシリア)の首都。 エフライムは北イスラエル王国を指し、アラム・エフライム戦争の初期に預言された と推定されています。BC734年頃で同盟関係にあったと書かれています。 クシュはヌビアやエチオピアと訳されることもあるナイル川上流域の王国で 現代のエジプトの事だそうです。アッシリアに対するアラム・エフライムの反乱を支援したそうです エフライムのとりでは、北王国の首都サマリアのことだそうです。 18章、口語訳はクシュをエチオピアと訳していますね さてハーパー注解は、 17:1-11をユダの敵となったダマスコとイスラエルに対する神の裁きと解釈し 7-8節は「私以外のものを仰がない」という契約違反に対する裁きとしています。 つまりユダヤ人自身がアシュラなどの偶像崇拝をしていたようです 17:12-14は一転してダマスコとイスラエルの敵であるアッシリアに対する裁きだそうです そして 18章をエチオピアと解釈しています >>9 クシュはエジプトの南、スーダンやエチオピアあたりの古名というイメージです クシュとエチオピアはいつもごっちゃになって分からなくなります 時代的にも北イスラエル滅亡よりちょっと前なんですね アラムとエフライム(北イスラエル)の戦争とかまったく覚えてませんw ユダ王国の近隣諸国との関係が背景になっているので 時代背景的なものが分からないと混乱しますね ユダヤ人は第二神殿期、あるいは捕囚以前は相当ウガリト文化やペリシテ人の宗教に 影響を受けていて、実際のユダヤの民の宗教実態は必ずしも熱心なヤハウェ教徒ではなかったと 思います 申命記革命や捕囚・第二神殿期の宗教的保守派による実権獲得という過程を経て 我々が今日知るようなヤハウェ唯一神教としてのユダヤ教が確立されたのだと思います 聖書に多く見られる偶像崇拝批判やユダヤ人の神からの離反に関する記述は 保守派の側から見たユダヤ人宗教の実態だったのだと思います さて休日分は、この前の続きで列王記のソロモンの王国分裂のところですね 例によって預言があって、歴史はその通りに動いたという記述になっています ソロモンの異教への傾倒が大元の原因ですが、レハベアムが長老たちの言うことを聞かずに 同世代の若者の言うことを聞いたため、ヤラベアムを中心とする北部がレハベアム(ダビデの血筋) に反旗を翻して分裂するに至った、という形で分裂の過程を説明しています とはいえ、これはあくまでもユダ(南部)の宗教的保守派による歴史解釈でしょうから そのまま史実というわけにはいかないでしょうね >>10 atheistくん、おはようございます。明日の聖句はイザヤ19-20章です 史実としては「ベテルの金の子牛」について 聖書はエルサレムに対抗してヤロブアム王が偶像崇拝を導入した と描くが、近代の分析では ヤロブアムは北で古いヤハウエ礼拝の伝統を主張していたことが 明らかになっている。 ベテルは族長らと関係する古い聖所で、金の雄牛像は、犠牲が 捧られる象徴的な偶像として用いられていたそうである 北10部族の離反が聖書の描く通り、重税と刑罰にたいするものだと すると北王国の自立は史実どおりなのかもだが、 宗教的観点からは疑問があります >>11 少なくともヤラベアムの段階では北イスラエル王国も ヤハウェ崇拝を推し進めていたわけですね 文献史料としてはヘブライ語聖書くらいしかないにいしても 考古学的資料をつぶさに分析していけば、もっと当時の宗教的実態が見えてくるかもしれませんね >>12 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ19-20章です。 聖書の描く歴史は公平ではないようです >>13 19章と20章が連続しているのかどうか分かりませんが、今回はエジプトについての託宣ですね ただしこの章は以前の章と比べ、史実をユダヤ教的に解釈したものとはなっていないようです アッシリアが出てくるところからも、時代的には前8世紀だと思いますが、その後エジプトやアッシリアが ユダヤ教に改宗していくという史実はないことから、ここは捕囚後にイザヤの名で書かれたものではなく まさにそのまま前8世紀あたりに預言として書かれたものだと思われます 実際にはいつの時代に書かれたものだと推定されているのでしょうか? また今までは実際に起こった史実の解釈が預言という形で書かれていたように思いますが なぜエジプトに関してだけ史実を元にして書いたものではなく、未来予言のような形をとったのでしょうか? それともなにか史実を元にしてはいるものの、それを非常に大げさな形で表現してしまったため このような書き方になってしまったのでしょうか? >>14 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ21-22章です 19章 エジプトへの審判 20章エジプトを信頼する愚かしさ となっています。 四節きびしい主人について、 1.前712年頃のヌビア王シャパカ 2.前,671年のアッシリア王エサルハドン。ナイル川デルタ地帯を占領 32の後継者の.前661年のアッシュール・バーン・アプリ。 4.ほか諸説ありだそうです アッスリヤの王サルゴンは、サルゴン二世でBC722-705。 アシドドに来て、これを攻め、これを取った年はBC721年 BC714に、エジプトに対抗する諸国連合をアッシリアが主導し 属国のユダ王国も参加するように誘われた時代にイザヤに語りかけた とフランシスコ会訳注は註解しています 全体としてはBC8-7C頃みたいですね 19:16その日以下、「その日」と未来預言となっているのは、 五つの連続した神託になっていますか゜、 「イスラエルを通して世界の諸国がいつの日か 祝福されるというアブラハムへの約束の成就の宣託」だそうです 世界と言っても創世記にある世界です 15:18その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、 「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。 エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」 エジプト、イスラエル、アッシリヤが、古代イスラエル人にとって全世界です >>15 大まかにはアッシリアの時代で、アッシリアがエジプトに侵攻したときかそれ以前ということですね アッシリアやエジプトが「主に仕える」というのは、具体的なそれぞれの国に対する予言というよりも 諸国がいずれヤハウェに服するようになるといった漠然とした予言という感じですかね さて21-22章ですが、21章は「海の荒野」とドマ、アラビアについての、22章は「幻の谷」についての託宣です まず海の荒野って何よ?と思いましたが2節のエラム、メディア、要はアケメネス朝ペルシャへの言及で バビロニアのことだとわかりました ここは9節の「倒れた、バビロンは倒れた」というセリフがすべてを物語っています 11節からはドマについての預言ですが、これはどこだか分かりません 発音的にはエドムあたりでしょうか 13節からはアラビアについてですが、ドマとアラビアについては簡潔に語られていて 具体的に何について語られているのか分かりかねます 22章はこれまた幻の谷ってどこよ?と思いましたが、8節から10節あたりでユダ王国であることが 分かります ここはまたユダがアッシリアかバビロニアに攻め入られたときのことを語っているのでしょうが 21章でバビロン陥落を語っているのに、なんでまた時代が戻ってるんでしょうか? あと20節以降ではダビデの家の鍵を預けられるエリアキムという人物が出てきますが これはいったい誰でしょうか?書き方からすごく重要な人物についての言及に思えますが それならもっと名の知れた人物名であるはずなのに、あまり耳にしない名前です >>16 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ23-24章です 11節ドマ。フランシスコ会訳注は、小見出しを「エドムニついての預言」としています。 注記には、ドマは様々に解釈される 1.ヘブライ語的には「沈黙」の意味にもなる 沈黙と訳する現代語訳もある 2.しかしバビロンからテマ(14節)に至る荒れ野の道沿いにある北アラビアの一部族と理解するのが適切 セイルは申命記でエサウの子孫の領地とされており、創世記25:30で「エサウ」は「エドム」と呼ばれると あるので小見出しを「エドム」にした。 宣託の対象となる11-12節はエドム 13-17接アラビアは共にエルサレムとバビロンに挟まれた領域で 両方ともアッシリアによって蹂躙された。 22章はイスラエルへの預言だそうです。 谷はエルサレムを、あるいはエルサレムの谷を指すそうで、東のキドロンの谷であろうとのこと 9-11節の貯水池がキドロンの谷にあるそうです 2節のような配線はBC587年エルサレム陥落の直前の様子に合致するが、イザヤの時代とは あわないので1-8節は未来の敗戦をすでに起こったことして幻視しているのであうとのこと 15節 執事セブナがこの地位にあったのアッシリアによるエルサレム包囲以前だそうです つまりBC701(または688)以前 36:3この時ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム書記官セブナおよびアサフの子である史官ヨアが彼の所に出てきた。 とありますので、セブナの権威をエリアキムが引継ぎ、セブナは降格されたが書記官になっているようですね ハーパー注解によると、「幻の谷」だと意味不明なので、古いギリシア語訳は「シオンの谷」と訂正しているそうです イザヤの幻視の要点は 一時的に開放されたからといって喜ぶな、お前たちは悪しき行いによって滅ぼされるのだということだそうです 具体的にはBC701年にエルサレム包囲から劇的に開放されがBC586には陥落し略奪されるとのこと つまりBC586のバビロン捕囚を防げない運命の原因をイスラエルの罪のうちにみているということですね 22:15-25のヒゼキヤの宮廷官吏セブナ、エリアキムらは36:3,37;2に基づく偏執的加筆であるとのこと で、どの個人の行為もバビロン捕囚を防ぐことできなかった例として、個人を出しているとのこと >>17-18 とりあえずドマはエドムで、アラビアとともにアッシリアに蹂躙されたため ここでは一緒に扱われているわけですね エリアキムは王やそれに比肩する宗教的に重要な人物ではなく 宰相的な地位の人物なんですね 22章の意図としては、結局悔い改めることのなかったイスラエルが神の側の応答として バビロン捕囚を招いた、という感じでしょうか さて23-24章ですが、23章はツロについての託宣で、24章はイスラエル及び諸国の終末的預言のようです ツロはシドンとセットで語られているのでフェニキアの主要都市ティルスのことだと思います 内陸貿易を支配したアラム人と並んで解消貿易を支配したフェニキア人ですから エドムやアラビアとは違って大きく扱われているようですね 例によってフェニキアも滅ぶと託宣されていますが、気になったのは17節の 「七十年終って後、主はツロを顧みられる」の部分です これはバビロンがペルシアに滅ぼされたためにフェニキアの都市が復活するということを言っているのでしょうか ただ「遊女の歌のようになる」「淫行の価」「すべての国々と姦淫」という表現からわかるように 復活と言ってもペリシテ人同様の邪悪な快楽の国という感じで否定的に捉えられているようです 24章は5節から分かるようにイスラエルの罪ゆえにイスラエルも廃れ、散らされるという預言になってます ただ13節からは「もろもろの民のなかで残るもの」がイスラエルの神を讃えるという預言になっており これはヤハウェ信仰が世界に広がっていくという第二イザヤ的ないしはキリスト教的な視野をもって 書かれているように思いました それにしても黙示的預言はたいていそうですが、どれもこれも大仰に書かれてますね >>19 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ25-26章です ハーパー注解によると、フェニキアは、かつて偉大な海洋貿易商人であったが 落ちぶれて、姦淫を行うようになるというのが17節の論旨で、すべての取引による 利益は、主に捧られ、主に忠実なイスラエルの必要を満たすために使われるようになるとのこと。 フランシスコ会訳注によると70年は、王の理想的な統治期間だそうで 70年の浄化を経て、フェニキアが主に用いられるということだそうです フランシスコ会訳注によると24-27章は「イザヤの黙示」と従来呼ばれてきたそうです 現在では「カンタータ「詩篇的歌」とよばれたりもするそうです。 テーマ的には13-23章と密接であるが、スタイル・語法・概念の点で第一イザヤより第二イザヤ だそうです。BC5c-4Cとする学者もいるが、第二イザヤと同じくBC6C説に訳注はたつそうて゜す 5節とこしえの契約を破ったから、世界審判がはじまるそうです。 13節「もろもろの民のなかで残るもの」は、東西に離散していたユダヤ人だそうです >>20 なぜフェニキアだけこのように一定期間の浄化後にイスラエルのために用いられるという発想に なったんでしょうね かつての宿敵ペリシテ人に地理的にも文化的にも重ねているんでしょうか 「イザヤの黙示」という表現は言い得て妙ですね わたしは文体や語法については当然原文が読めないので分からないのですが 預言の視野が23章までとは異なって、より普遍的というか異邦人を包含する方向で 書かれているように思ったので、ちょっと第二イザヤっぽいなと思いました さて25-26章ですが、「イザヤの黙示」の続きということで、ここも終末的な預言が語られています 25章は比較的明るい色調で語られているように思いました 4節の「貧しい者のとりで」という神観はそのままイエスやキリスト教に受け継がれているように思います ここで印象に残ったのは8節です まるで新約聖書に出てくるような聖句で、特に「主はとこしえに死を滅ぼし」というのは ユダヤ教にあっては比較的珍しい発想であるように主ます エゼキエルなどでも死者の復活の幻視はありましたが、これはバビロニアによって滅ぼされたイスラエル の復活という意味合いが強かったように思います ここでは永遠に死を滅ぼすことが語られているので、単にイスラエルの復興を超えて まさにキリスト教的な永遠の命へとつながるような記述だと思いました その割には10節でモアブをことさら取り上げてディスっているのが気になりますがw 26章ではユダの国に焦点を合わせて話が始まります ここで気になったのは、14節と19節です 14節では伝統的なユダヤ教の死生観にもとづいて「死んだ者はまた生きない」と言われますが 19節ではやはり復活を暗示するような文言があります ここはヤハウェを信じない人は永遠の死に至り、信じる人は永遠の命に至るというような のちのキリスト教で展開されるような死生観を萌芽的に語っているのでしょうか? >>21 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ27-28章です。 「主はとこしえに死を滅ぼし」について、聖書協会共同訳は「死を永遠に?み込んでくださる。」と訳しているが 訳注は、通常「死」「陰府」が擬人化され、その獲物を飲み込むと表現されるので、それを真似て ここでは主が「死」を飲み込むと言われていると解説し、アラム語訳では「永久に」を「勝利」と読み替え 「死は勝利に飲み込まれる」と訳されると紹介しています。 新約はイザヤから影響を受けていますね 10-12節は「モアブは塵とされる」と小題がついていますね。 なぜ裁かれるのでしょうね。アッシリアの属国となっていたからでしょうか ハーパー注解は26:19に特に注目しています。 エゼ37:1-14と同じく神はイスラエルを回復されるであろうという確信の 誇張的表現であり、「個人の復活」という明確な概念を伴っていない。 が、後の読者にはユダヤ教や が、後の読者にはユダヤ教やキリスト教の宗教信条の中で 「死者の回復」という概念を考える可能性を残しているとのこと。 >>22-23 昨日は電気をつけたまま、気づいたら寝てました まあよくあることですがw 陰府(シェオル)と神が対置されてるんですね このへんも善悪の対立的語法が色濃くなっていく新約聖書の世界観に類似しているような感じがします これが書かれたのが捕囚後だとすれば、ゾロアスター教の影響があったのかもしれませんね 26:19は新約で見られるような個人の復活への着目ではなく あくまでもイスラエルの回復といった民族単位の枠組みで語られているわけですね それがのちの時代に個人(死者)の復活を語っているものとして解釈されていったんですね さて27-28章ですが、27章は「イザヤの黙示」の最終章、28章は 27章はおそらくレビヤタンやいばら、おどろでイスラエルに敵対してきた周辺諸国を表しており それを主が打ち、ぶどう畑(イスラエル)が主の保護によって根を張り、やがては世界をその実で 満たす、といった構想が語られているのだと思います 8節はバビロン捕囚のことを指しているのでしょうか? だとすると9節でヤコブの不義が贖われると言っているのは 要はイスラエルをしっかり罰したから、もう罪はチャラってことなんでしょうか? 28章はまた元に戻って、エフライム(北イスラエル)の命運とユダに対する警告を語っているようです それにしても「エフライムの酔いどれの誇る冠」という表現自体が北イスラエルに対する蔑視ないしは 憎悪を表しているような気がします ここは11節で集約できるように思います 主は異国(アッシリア)を用いて北イスラエルを罰した、と で、もし主のことばを聞かないならユダも同じ運命に合うよ、というのが14節なのかなと思います >>25 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は1列王16:29-17:24 レビヤタンと 海におる竜=タンニンをフランシスコ会訳注は、 前者を道徳的混沌を象徴し主の民を圧迫してる邪悪な勢力とみなし主が破壊される タンニンはエジプトに対する比喩なので竜と訳されるとのこと。 また、通常はこの二つは敵対勢力のアラム、アッシリア、エジプトと解釈されるが ティルスのことだとする解釈もあるそうです 一方、ハーパー註解は、いやいやレビヤタンは、古代近東共通のシンボルなので 神が全世界の悪の諸勢力に対して宇宙的規模で勝利されることについての確信が描かれているとしています。 8節は捕囚ですね。ご推察の通りです。滅亡と捕囚とによって罰せられ、清められたので もはや神は怒ってないよということらしいです。 ハーパー註解は明快に「捕囚の経験を通しヤコブの罪は取り除かれたのである」と言ってますね。 28-33章は「イスラエルとユダに対する彩度の宣託及び約束というタイトルになつています。 ハーパーは「ユダに対する裁きと約束」と題しています。 26章はエフライムに災い だそうで、特にヒゼキヤ治世下のユダの状態を反映している宣託集だそうです エフライムはアッシリアに苦しみ、エジプトと同盟を組んで、なんとか乗り切ろうとしたのですが イスラエルもアッシリアに対抗してエジプトと同盟を結んだ その判断をイザヤがむかついて指弾しているようですね。 おまえら指導者は酔っぱらって判断を狂わしている、と。 エジプトと同盟を締結するなんて「死の契約である」と >>26 敵対する諸外国という解釈だけでなく、抽象的に悪の諸勢力を表すという解釈もあるんですね 捕囚経験を単なる神から離反した罰と捉えるだけでなく、罪からの清めと捉えるのは ユダヤ教的ではないと思いましたが、考えてみれば犠牲も代替的な罪の清めと考えることができるので そういった意味ではユダヤ教的なのかも知れませんね ここでのイザヤはエジプトやアッシリアを悪とみなしていて、その悪と手を組むことを 極度に嫌って「酔いどれ」呼ばわりをしているってことですね さて休日分は悪名高い北イスラエルのアハブ王と、その時代の預言者エリヤの箇所ですね 妻のイゼベルは出てきますが、その悪事や凄惨な最期についてはここでは触れられていませんね 17章のほうはもっぱらエリヤについての記述で、ハイライトはやもめの女の子どもの復活の箇所ですかね この箇所はエリヤが「神の人」であることを証す以外には取り立てて宗教的な意味がある場所とは 思えないのですが、少なくとも列王記が書かれた時代から例外的ではあっても復活ということは ありうるものとして考えられていたのかも知れません 新約聖書ではラザロの復活などは個別の例外で、ここでの復活と似た扱いですが 一般的にはイエスの復活、そして終末の復活→裁きといった非常に大きな宗教的意味をもっているように 思います ヘブライ語聖書での個別の例外的復活→パリサイ派の復活信仰→キリスト教の復活信仰といった流れで 復活の持つ意味合いは歴史的に重要度を増してきたのだろうと思いますが パリサイ派的な復活信仰(普遍的復活)はどこから生じてきたのでしょうね ヘブライ語聖書の例外的復活を殊更取り上げてそれを一般化したのか、 それとも異教由来のものなのか… 復活観念の歴史的変遷も興味の尽きないところです >>27 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ29-30章です ここの復活はエリアが三度、子供に覆い被さることだ エリヤの体から子供の体に生命力が移される「よみがえり」が 描かれていることですね。 ニ列王4:18-37では、今度はエリシャが死んだ子供をよみがえらせています。 この二つの物語は申命記史家が列王記として編纂する以前に、古い北の預言者伝 説話として奇跡物語が断片的にあったそうですので「よみがえり」も民間伝承の奇跡として 古くからあったのかもですね >>28 なるほど古くからあった北の預言者伝承のなかにあった奇跡物語が エリヤやエリシャの奇跡物語に接合されて、そのなかに復活の奇跡もあった可能性があるってことですね ただエリヤにしろエリシャにしろ、やはりあくまでも復活は奇跡の一つであって キリスト教において意味づけされるような宗教的な重要性はないように感じます キリスト教における復活の由来及び意義については、さらに検討を続けていきたいと思います さて29-30章ですが、おそらく両章ともアッシリアの侵攻時に関して預言をしているように思いました 29章ではいきなりアリエルという地名が出てきますが、これってどこでしたっけ?記憶がありません ともかく10節にある「あなたがたの目である預言者を閉じこめ、あなたがたの頭である先見者を/ おおわれた」という箇所が印象的です 預言者、先見者が出て、イスラエルに警告を与えますが、イスラエルの民をこれを聞かず かえって迫害し、ゆえに神は異国を用いて民を罰する、という定番のパターンが繰り返されているようです 30章では6節から「ネゲブの獣」についての託宣になっていますが、ネゲブはイスラエルの南、エジプトに 近い砂漠地帯だったと記憶しています この地はユダ王国の支配下にあったのでしょうか、それともイスラエルにて期待する異国人の支配下に あったのでしょうか? 最終的には章の後半にあるように神はアッシリアを罰し、イスラエルは解放されるということのようです >>30 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ31-32章です。 アリエルについて、ハーパーもフ会註もエルサレムのことを解説するだけです。 新共同訳聖書辞典によっても、イザヤに与えられたエルサレムに与えられた 呼び名とあるだけで、その語源について明らかではないが、 ≪神の炉≫の意味であろうと推定されています。 ネゲブはエジプトに行くときに必ず通過するユダ南部の荒野地帯だそうです。 つまりユダの領土だけども、収穫のない荒れ野ですね 30章全体は神がエジプトと同盟を結ぼうとしていることに怒っているということのようです 次節のラハブがエジプトのことだそうです。 エジプとに頼ってもアッシリアから救われないが、神に頼ればアッシリアを 滅ぼしてくださる。神を一途に信じなさいという論旨のようですね 久々に覗いた atheistさんが健在でホッとした。 atheistさんが大嫌いな美魔女は最近みないわ。宗教板で >>31 アリエルはエルサレムのことなんですね しかしいきなりアリエルで説明もなければ分かりませんw ネゲブはだいたい記憶通りでしたが、背景的にはエジプトと同盟を結ぼうとすることに対する 神(というかイザヤ)の憤りがあるわけですね さて31-32章ですが、31章は前章からの続きで、まさにエジプトに頼るなと述べる箇所、32章は ここは具体的な固有名詞が挙がっていないので、終末預言のひとつなのかなと思いました 31章で印象的だったのは3節の「かのエジプトびとは人であって、神ではない。 その馬は肉であって、霊ではない。」という箇所です いわば神のように強大であったエジプトですら、あくまでも人であって神ではないということを強調した 箇所だと思います ここはどのような苦境にあっても人ではなく神を寄り頼め、というイザヤの基本的なメッセージが 語られているように思いました 32章は抽象的あるいは象徴的なことばで書かれているので、終末預言のひとつだと思うのですが キリスト教的にはもちろん「ひとりの王」はイエス・キリストを指していると読むんでしょうね イザヤ的には終末預言でないとしたら、具体的には誰を想定して書いたのでしょうか? >>32 お、久しぶり 普通に健在でしたが、公私ともにちょっと忙しいということもあって 宗教板の方にはあまり書き込んでなかったですね 現在は健全な対話ができるような状況でもなさそうなので、あまり見てませんが 特に書くこともないと言えばないので自然に書き込まなくなったって感じかな また気になるレスがあったりすれば書き込みます >>33 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ33-34章です。 フランシスコ会訳注 31章は「信頼すべきはエジプトではなく主」 32章は「正義の王国」 とタイトるしますが ハーパーは 31:1-32:20を「エジプトに下るものは災いである」とします。 31:1-3で、馬や戦車は神の力と比べものにはならない。 エジプトと同盟することは、ヤハウエの計画を明確に拒絶する 政治的妥協だという非難 31:4-9獅子としてのヤハウェ 32:1-8 イザヤが理想とするところは「正義を持って統治する」 ということであり、捕囚後の知恵文学の典型として書かれているそうです 32:9-14 一年余の後の崩壊を嘆き悲しめと言っているそうです 32:15-20 未来の約束としての正義 2-32章を通しての結論部分。約束の成就を夢見ているそうです 「ひとりの王」について、当時のユダの王ヒゼキヤだとする解釈があるそうですが 福音派的には「メシア」。千年王国のメシアと読むようです。 イザヤ本人は、神の直接統治をイメージしていたのではないでしょうか? >>35 32章の20節までに関してはハーパーのほうは前章の続きと解釈してるわけですね 「正義を持って統治する」というのが()第一)イザヤの理想だとすると やはりユダヤ教の伝統は義の神の強調であり、それゆえに不義に対しては苛烈な姿を表す ということになるのだろうと思います もちろん新約聖書でも神の持つ義の側面というのは描かれますが 新約では愛の神の側面が強調されることが多く、このあたりは神に対する捉え方、描き方が 対照的になっているように見えますね 「ひとりの王」についてはイザヤは神の直接統治をイメージしていたのだろうというのが先生の考えですね さて33-34章ですが、33章はイスラエルにおける公平と正義の預言、34章は諸外国に対する滅びの預言 といった感じかなと思いました 33章の22節を見ると、たしかに正義でもって統治する神の姿が見えてくる気がします これは先生が言われた「神の直接統治」というイメージと符合するような気がします 34章はかなりえげつないイメージで諸外国、特にエドムの滅びを語っています この前も書きましたが、イザヤはエドムにえらく敵対心というか憎悪に近い感情をもっているようです ここでの質問は14節の「鬼神」と「魔女」です ヘブライ語聖書で鬼神だの魔女だのが出てくるところは他に記憶が無いのですが ここでの鬼神や魔女は単なる比喩表現なのでしょうか? >>40 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ35-36章です 14節の「鬼神」は レビ17:7彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはならない。これは彼らが代々ながく守るべき定めである』の 「みだらな神」と訳されているのと原文は同じ語だそうです。 「鬼人」の原文直訳は「雄山羊」です。「雄山羊の姿をした魔人」とフランシスコ会訳は訳しています。 地中海沿岸諸国の神話に出てくる神で「雄山羊」の姿をしていたこの偶像に礼拝し奉納していたそうです 「魔女」は原語音訳では「リリト」で、メソポタミアの嵐の悪魔。 それがヘブライ語の夜(ライェラ)と発音が似ていたため、 パレスティナでは「夜の魔女」とされたそうです。ユダヤの伝承によく出てくるが 聖書ではこの個所だけだそうです エドムは神に裁かれて、「鬼神」と「魔女」が住む恐ろしい場所になるぞー ということみたいですね まあ古代人ですから。 >>41 そういえばかのディオニュソスも雄山羊の姿を纏うこともあったので 雄山羊というのは性的な力の象徴と考えられていたのでしょうね 「魔女」はあのリリス(リリト)のことだったんですね リリスは中世以降にユダヤ教やキリスト教文化のなかでイヴ以前の女、アダムの最初の妻といった 描かれ方をされた悪霊で、「夜の魔女」と呼ばれたのは、やはり性的な含意をもっていたのだと思います イザヤはここでエドムをかつてのソドムとゴモラのように性的に乱れた地になると描こうとしたのかも しれませんね さて35-36章ですが、35章は贖われた後のエルサレム(イスラエル)の姿、36章は一転して ヒゼキヤ王の時代の侵攻してきたアッシリアの使者とのやりとりが描かれています 35章はキリスト教の神の国のイメージに大きな影響を与えたのだろうと感じます 特に5-6節は福音書で描かれるイエスのイメージに重なるところが多く、このへんも イザヤ書がキリスト教にとって大きな影響力を持ったことが垣間見える箇所だと思いました 36章はアッシリア王の使者の口を通して、どの神もアッシリアの侵攻は防げなかったこと、 同様にヤハウェもアッシリアの侵攻を防ぐことはできないということを語らせています もちろんイザヤがそれを肯定するはずもないので、これはエピソードの前半で 次章に「つづく」ということなのでしょう 宮内卿エリアキムというのは前の方の章で出てきた人物ですね イザヤ書ではこのヒゼキヤ王の時代についてはかなり具体的な叙述がなされているので 少なくともこの箇所を含む関連箇所はヒゼキヤ王の時代かそのすぐあとの時代の著者によって 書かれたものなのでしょうね >>42 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ37-38章です 35章は「贖われた民のシオンへの帰還」というタイトルがつけられています。 36-39章には「イザヤとヒゼキアについての歴史的記述」となっています。 ハーパーによると、ヒゼキアの長い祈り以外はⅡ列王記18:3-20:19のコピーだそうです。 36章と37章でご推定のとおり、BC701年のアッシリアによるエルサレム包囲と突然の救済が 描かれているそうです。で、39章で前6世紀のバビロニアによる破壊が描かれ バビロン捕囚にある人たちへの「慰め」となっているそうです。 つまりアッシリアの包囲と救済というのは成功体験ということなのでしょう フランシスコ会訳註し従来BC701年の包囲と考えられてきたが゛ 最近ではBC688年説が有力であるとしています >>43 列王記のコピーがあるということは、この部分はイザヤ自身の言葉というよりも 編集者がイザヤの名を借りて書いた部分なのでしょうね エルサレムがアッシリアの包囲を耐えたことを語ることによって 後のバビロンによるエルサレム破壊に対しても希望があることを示したかった、ということなのですね さて37-38章ですが、ここは前章からのつづきですね 37章ではセナケリブのことばを聞いたヒゼキヤがイザヤのもとに使者を送り、祈りを求めます それに対してイザヤはエルサレムはアッシリアの手に落ちることはないことを告げますが セナケリブはそれに対してさらに追い打ちをかけるようにヤハウェによる救いはないと話します ヒゼキヤはそのことば(手紙)を読み、さらに主に祈ると、またまたイザヤは主のことばを ヒゼキヤに伝えます 主を謗ったセナケリブの鼻に輪をつけ、口にくつわをはめて撤退させる、と この章で印象的なのはヒゼキヤの祈りの中で語られる神ヤハウェとその他の神々の違いです 「あなただけが神」(16節)、「それらは神ではなく人の手の造ったもの」といったことばは 明らかに拝一神教の段階を超えて唯一神教へと移行していることを示しているように思います 38章は、なぜかいきなりヒゼキヤの病と主による「死の宣告」から始まります ちょっと時系列がよく分かりません ともかくもヒゼキヤは泣きながら主に祈ります その祈りを聞いた主はヒゼキヤの寿命を15年伸ばします それに加え、エルサレムをアッシリヤから守ることが約束されます 9節以降は病気が治ったあとのヒゼキヤのことばですね このことばのなかで印象に残ったのは、ヒゼキヤが死を虚無として捉えているところです(18-19節) これは伝統的なユダヤ教の死生観だと思います 死が感謝も賛美もできない虚無であるがゆえに、ユダヤ人は現世に拘ったのだと思います このへんはキリスト教と極めて対照的な死生観であるように感じます >>44 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は1列王18章です 38:1そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。 福音派によると、ヘブライ人たちの時系列は曖昧だそうです。 私たちと感覚が違う。そのうえで訳の問題があります 「そのころ」は原文だと「バッヤーミーム・ハーヘーム」で「それらの日々に」という意味です。 アッシリアに包囲されたが、神がアッシリア軍を打たれて王も息子たちに殺された日々に ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた、という流れとなるそうです。 同じそのころでも「その時」という意味ですと「バーエーット・ハヒー」が使われるそうです。 で、この個所は、信仰的模範者である擬人が祈れば神は答えてくださるという意味があるそうです。 ハーパーによると、祈りの部分は後から挿入されている。しかも二か所に分断されているが 本来は一つの祈りだということになるそうです >>45 なるほど、現代人の我々のように出来事を時系列で並べて記述するという感覚は あまりなかったってことですね さらに原文だともっとスパンの長い「それらの日々に」というような表現になっていて 必ずしも時間的に近接していたわけではないことを示しているんですね 要点としては「義人の祈りは聞かれる」ということのようで、ここにもイザヤの強い信仰心が感じられます さて休日分ですが、ここはアハブ対エリヤ、正確にはアハブ(の側の預言者たち)とエリヤを通じた バアルとヤハウェの対決の場面ですね 物語の筋は極めて明快単純なので、特に思うところはありませんが、この話で以前から思っていたことを 思い出しました それは聖書で使われる「主」ということばが原文でヤハウェである場合は、そのままヤハウェと 訳してほしい、ということです 同一の存在を指しているとしても読んだときの印象がまるで違ってきます 「主」だと、すでにそのことばの中に「真実なる神」というニュアンスが入ってしまっていて たとえば39節の「主が神である。主が神である」という箇所は他の神と区別されるべきヤハウェという神の 固有性が感じられません 信仰上ヤハウェと訳すのは抵抗があるのかも知れませんが、ヤハウェとダイレクトに表現したほうが むしろヤハウェが真なる神としてはっきりとした輪郭で立ち現れるように思います >>46 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ39-40章です 主は、英訳だとヤハウエの場合はLORDと大文字で 普通の主人を指す場合はlordと小文字なので、見た目で区別がつきますね 原文だとどちらともアドナイですね。 21節の「主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」 の主は、ヤハウェでないとおかしいといえばおかしいですね でも仰せの通り慣習により抵抗がありヤハウエは無理ですね >>47 すいません、また寝てしまいましたw たしかに英訳だとヤハウェを指し示す場合は大文字で書かれてますね ちょっと記憶が定かではありませんが、もともとあったテトラグラマトン(ラテン文字ではYHWH)は 第二神殿期あたりから、主の名をみだりに唱えてはならないということからアドナイに置き換えられた と読んだことがあります それがさらに七十人訳でキュリオスと訳され、ラテン語を介して、そのまま英語ではLord、 日本語では主ということばで訳されていった、ということだったと記憶しています さて39-40章ですが、39章は明らかに後から挿入されたエピソードであるように思われます 要はヒゼキヤがいい気になってバビロンの王の使節に国の宝を見せてしまったために 後に宝をすっかり奪われた上子孫もバビロンへと捕囚される、というエピソードになってます アッシリアの侵攻を免れたエルサレムがなぜバビロンに蹂躙されかを説明するために ヒゼキヤの高慢や過信を理由として創作されたエピソードだと思いました 40章からは、いわゆる第二イザヤになりますね 40章は被造物の矮小さと比べながら神の偉大さを切々と訴えかける文だと思いました なんかヨブ記を読んだときと似た感覚を感じました 3節はマルコの冒頭に出てくる箇所ですかね? おそらくは第一イザヤ以上に強くイエスや、福音記者を含む初期のクリスチャンの信仰形成に影響を 与えたと思われる第二イザヤですが、こういった詩的な荘厳さをもったことばが1世紀の下層ユダヤ人の 心に強く響いたのだと思います >>48 atheistくん、おはようございます。お疲れのご様子、睡眠を優先されてください。 本日の聖句はイザヤ41-42章です そうですね。アドナイと書きましたが、これは呼び名で、原文は神聖四文字ですね フランシスコ会訳註の見解では、39章が挿入されたのは40章からの第二イザヤの 導入としてとのことです マルコ1:3荒野で呼ばわる者の声がする、 『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」 イザヤ40:3呼ばわる者の声がする、 「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、 大路をまっすぐにせよ。} パクリですね。ちなみに第二イザヤ 約十の隠喩の最初のものだそうです ハーパーによると、40-55章と55-66章は、それぞれBC6C前後の預言者の 言葉のコレクションだそうです。 第一イザヤがBC8のイザヤの活動の記録が大半であったが、これに付加されたそうです 40-55章は、BC539のキュロスの軍隊がバビロン入城するまで書かれ 56-66章は、捕囚後、40-55章の弟子が書いたとのこです http://meigata-bokushinoshosai.info/swfu/d/auto_kt5mnE.pdf イザヤからのキリスト教への影響はかなり大きいですね >>49 お気遣いありがとうございます 39章は40章以降のバビロン捕囚からキュロスのバビロン入城までの流れを作るための挿入ってことですね 福音書の記述のほうが普通の読者にとっては印象が強いため、そのまま洗礼者ヨハネのことばだと 思ってしまいがちですが、イザヤをなぞる形で福音書の物語が進行しているわけですよね ヘブライ語聖書の多様な水脈のなかから、イザヤの「預言」がイエスの物語を描き出すのに 最も適切であったということなのでしょうね 福音記者たちはもちろん予言の成就という形で記述を進めますが さて41-42章ですが、41章2節にある東から起こされた人はキュロスですね ですから史実的にはペルシャの王キュロス2世の征服過程、特に新バビロニアの征服による 捕囚ユダヤ人のについて述べたものですが、こういった歴史的過程を作り出したのは 他でもない神であるという形で歴史が語られていきます 41章の14節に「あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である」と出てきますが これは神自身を指したものなのでしょうか?それとも誰か特定の人物を想定しているのでしょうか? 20節の「イスラエルの聖者がこれを創造された」を見る限り神自身と読めるように思います キリスト教的にはもちろんキリストということになると思うのですが またちょっとよくわからなかったのが、23節の「われわれ」と「あなたがた」です 21節を見ると「あなたがた」はイスラエルの民に見えますが23節では「あなたがた」が神と言われています 「われわれ」が神だとすると複数形になっている理由が分かりません 24節で「あなたがたは無きもの」と言われていることから、この「あなたがた」は異教の神々のようにも 読めます 要は異教の神々の業は虚しいが、俺は本物だぞ、というヤハウェのことばってことでしょうか? この20節以降が具体的に誰の発言で、かつ誰を指して言っているのかがよく分かりません 42章は特に後半14節からは主に対して罪を犯したイスラエルを異国人に蹂躙させたのも 他ならぬ神自身であることが語られているようです 歴史は神によって動かされるという神の人間に対する絶対性が強調されていると感じました >>50 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ43-44章です。 14節は、神ですね。「贖う者」は第二イザヤに17回 第三イザヤに6回出てくる 中心概念だそうです。 ご承知のとおり、本来は親類の者が、一族の者の負債の肩代わりや 奴隷身分からの贖い、時には復讐、子供のいない家系の存続をした者のことだそうです それをイスラエルと契約した神が、イスラエルのためにするということだそうです そうです。異教の神々は、歴史を紡ぐことができないので真の神ではない。 歴史を導く出来る神が唯一神なのだという第二イザヤの理論によって、 ユダヤ教は理論的唯一神教の明らかな表現を得たそうです >>51 すいません、またまた寝てしまいましたw 「購う者」については面白いですね 契約という概念に関してもそうですが、ユダヤ教では経済社会的な概念が宗教的な事象の説明に 多用されています おそらくハンムラビ法典のころから、均衡の感覚が中東社会の人たちにとって 正義の中核的感覚になっているのだろうと思います 神は絶対的な存在であるにも関わらず、神とユダヤ民族との契約は双務的です 「贖い」という発想も日本人の宗教感覚からは、あまり思いつきませんが 露骨に言えば「買い戻し」ということですから、対価を必要とする観念ですね これがキリスト教では罪の奴隷からの買い戻しとしてキリストの命という対価が必要になる理由です 日本人の感覚ですと、単に人が悔い改めたら罪をチャラにしてあげればいいと思ってしまいますが こういったところにユダヤ教から続く均衡(義)の発想が息づいているのだと思います 20節以降の「あなたがた」は異教の神々でいいんですね 第二イザヤが初めて唯一神教を理論的に明確に表現したものというのも、新鮮な驚きです 漠然と捕囚以降としか捉えていなかったので、具体的なその始まりの表現がどこにあるのか 考えていませんでした さて43-44章ですが、その「贖いの神」と唯一神が明確に表現されてますね 43章3節で贖いの対価として挙げられているのはエジプト(とエチオピア、セバ)ですが なぜエジプトなのでしょうか? 44章では、唯一神の強調だけではなく、偶像に対しての痛烈な批判が目に付きます 質問としては、まず2節のエシュルンが分かりません ヤコブの言い換えのようになっているので、要はイスラエル民族ということでしょうか? それから28節のクロスというのは、キュロスのことでしょうか? >>52 atheistくん、おはようございます。睡眠は大切です。お体を大切にされてください。 本日の聖句はイザヤ45-46章です なぜエジプトなのか。フランシスコ会訳註によると、後年のペルシアによる これらの国の征服を考えているようである、とのことです。 エシュルンは、申命記32:15などにも出てくる名前で 「まっすぐ」という形容詞にゆにぃする語で イスラエルの愛称だそうです 28節のクロスは、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、新改訳2017でキュロスです 口語訳と新改訳第三版はクロスですね 訳語の問題のようです >>53 ありがとうございます ペルシアによるエジプトの征服がイスラエルの贖いの対価になっているわけですね イスラエル自身が「身銭を切った」対価ではないので、はたして対価になるんだろうか という気もしますが、ともかくもエジプトを捧げることで贖いの対価としたと第二イザヤは考えたわけですね エシュルンは申命記などにも出てくるということですが、まったく記憶にありませんでした クロスは原文そのものが違っているわけではなく単に訳語の問題なんですね クロスと言われてしまうと、十字架を想起してしまうのでややこしいですw さて45-46章ですが、ここでは「わたしのほかに神はいない」ということが これでもかというくらいに何度も強調されています また創造主と被造物の違いも陶器氏と陶器になぞらえて強調されています 45章の14節で分かりましたが、エジプトという対価はキュロスに支払われたということですね この場合は神がイスラエルの贖い(解放)の対価としてキュロスにエジプトを支払ったことになり イスラエルと神との間での対価のやり取りではなく、神とキュロスの間での対価のやり取りということに なりますね またこの章で印象に残ったのは、20節から22節で、神が「もろもろの国からのがれてきた者」、 「地の果なるもろもろの人」にとっても救いの神であることを宣言しているところです まさに第二イザヤがユダヤ民族を超えた神のビジョンをもっていたことの証であるように思います このビジョンがキリスト教へと受け継がれていったのだと思います 46章では1節目のベルとネボが分かりませんが、文脈上、異教の神ということですよね この章では4節が強く印象に残ります ヘブライ語聖書のみならず、全聖書のなかでも、これほど力強い神の言葉はないというくらいに ここでのことばは際立っています これを読んだ1世紀のユダヤ人たちが新たな救いの運動としてキリスト教を起こしていったのも よく分かります >>54 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ47-48章です 45:1わたしはわが受膏者クロス これを他訳ですと 主は油を注がれた人キュロス(聖書協会共同訳)となっています。 「油注がれた者」とキュロスを書いている点に衝撃を受けます。 この称号は従来はイスラエル/ユダの王限定だつたはずです。 ベルはバアル(=主)と同類の ベルはバアル(=主)と同類のバビロンの町の守護神マルドゥクの別名 ネポは、ベルの子で、その宮がバビロンに近いポルシッパにあったそうです。 知恵と書物の神で 知恵と書物の神で、ベルの語り手とされたそうです。 両方の偶像は新年の大行列の時に運ばれたそうです なるほど4節はサーヴァル(背負う)が使われていますが 神はイスラエルの民に対して、年老いても背負い救い出す と強調されています >>55-57 あ、「受膏者」ってなんのことだろうと思いながら、大勢に影響ないと思ってすっ飛ばしてましたw 「油を注がれた者」だと、もろメシアですね 逆に言えば、それほど解放ユダヤ人にとってはキュロスが偉大に思われたのでしょうね ベルはバアルと語源が同じっぽいですね 4節は絶対に見捨てることはないという力強い宣言で、著者がそれほどまでに神を信頼していたことの 現れなのでしょう さて47-48章ですが、47章は予言の形でバビロンに対する呪詛に近いようなことばが連ねられています 48章はイスラエルに向けてのことばになっていますが、後半で「バビロンから出」と述べられているので バビロン捕囚という苦難を神がイスラエルに課したのだという内容なのでしょう 47章はバビロンの滅亡をバビロンの娘(カルデアびとの娘)の失墜という形で表していますが 13節に代表されるように、かなり挑戦的な言い回しが目立ちます それほどバビロン捕囚という軛が著者にとって重かったため、その反動がこういった表現となって 現れたのだろうと思いました(もちろん著者は予言の形で書いてはいますが) 48章はイスラエルの苦難は神がイスラエルに与えた試練であることを強調しているように思います 最終的にはバビロンからの解放によって神がイスラエルを「購う」わけですが その元になったバビロン捕囚も同じ神が行ったことだ、と強調しています ここも歴史は神によって動かされることを強調し、ゆえに神に従え、さもなくば神は試練を与えることになる と言いたいのだと思いました >>58 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は1列王19:19-21 2列王2:1-18です 47章。バビロンが処女と言われてのは、古代において戦争の犠牲者の筆頭が 若い未婚女性だったからだそうです。 裸にされて奴隷市で売られたりしたそうです。 なんともかわいそうな話で、敵国とはいえ神がそんなことすんなよと思ってしまいます 48:21岩から水を流れさせ 1コリ10:4 10:4みな同じ霊の飲み物を飲んだ。 すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、 この岩はキリストにほかならない。 イザヤ48:21の岩をパウロはクリストスと読み込んだようです 福音派は、47章を バビロンの突然の破滅は、反キリストによる大バビロンの破滅のプロトタイプと みなし、終わりの日もこのように突然に来ると予言しています。 今だとロシアの原爆とか、中国の台湾侵略なんかで誰がなんか言い出しそうですね 48章は。神は神のマスタープランを実現し、神の力を信じない者に示したと解釈しています つまり神に従えですね 困った考え方です >>59 裸にされて奴隷市に、ってすごいですね 背景にそういった事情があると分かると重みというかエグさが増します 岩から水、はわたしは民数記だったかの、あのモーセを思い出しました バビロンは黙示的にローマや現代ではアメリカなどの隠喩として読まれたりしてきましたが 時代ごとに都合のいいように対象が変わるので、そういった読み方は実に安易で いつも解釈法としてどうなんだろうと思います 災難を神によるものとする考え方は、ある種の脅しとして機能しますから、これもまた 宗教的な解釈として注意が必要なんだと感じますね さて休日分はエリヤとエリシャの話ですね 1列王記のほうは出会いの場面で大筋は分かるんですが 20節の「わたしはあなたに何をしましたか」というセリフが分かりません これだとなにか非難しているように響きます 2列王記のほうはエリヤの昇天とその後のエリシャのエピソードですね ここでは9節の「あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」というセリフが分かりません 霊を継ぐのはいいとして、「二つの分」は何でしょうか? 23節以降はあの有名なはげ頭からかい事件ですねw にしても子どもならよくやるような他愛も無いからかいだなのに エリシャはその子供らを呪って殺してしまいます なんと大人げないことでしょうかw それともこの行為に重大な神に対する罪のようなものがあるのでしょうか? atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ49-50章です。 20節の「わたしはあなたに何をしましたか」 フランシスコ会訳によりますと 「行ってきなさい。私はあなたを妨げることは何もしていない」 という意味だそうです。 「2つ分」・・・口語訳、新共同訳、新改訳第三版 「2倍」・・・フランシスコ会訳、新改訳2017、聖書協会共同訳(2018) フランシスコ会訳の影響か、最新の訳は2倍にしています。 福音派曰く 神の律法(申命記21:17)によれば、父の財産が譲渡される場合、 他の子どもに対して長子は二倍のものを受けたので、 エリシャはそのように願ったのでした。 決して二倍の祝福そのものを求めたのではありません。 神の家と呼ばれたベテルで42人の子供が死ぬのは エルサレムが侵略されて多くの子供たちが死ぬ前触れ として描かれているのかもしれないと 福音派の牧師さんは仰せでした。 私は預言者を侮辱したら、ひどいめに遭うぞという 脅迫であると思います >>62-63 20節はそういう意味なんですね それなら問題なく意味が通りますね 「二つの分」というのは長子の相続分が他の子どもの二倍という聖書的慣習(神の律法)に則って エリシャがいわばエリヤの長子(霊的後継者)となることを懇願したセリフということですね はげ頭からかい事件をエルサレム侵略による犠牲の前触れとするのはけっこう無理があるような気がします なにしろエリシャが呪って死んでるわけですから 預言者を侮辱したら酷い目に合うぞという脅迫という解釈のほうがしっくりくるように思いました さて49-50章ですが、まず49章冒頭の6節くらいまでが他の書にはない視点をはっきりと示していると 思いました その意味では第二イザヤのビジョンの要約とも言えるような箇所だと思います 冒頭の呼びかけが「海沿いの国々」「遠いところのもろもろの民」となってます 今までのイスラエル民族に対する呼びかけや訴えかけという限定を外し、より広範な民への 訴えかけから始まります この世界的なビジョンは6節に集約されていると思います わたしはイエスはこの第二イザヤのビジョンを引き継いだのだと思います その後は主の救い、それに対するイスラエルの絶望(14節)、さらにそれに対する主の回答と 続いていき、主が民を見捨てることがない、忘れることがないという主旨が語られています ここでの質問は23節です 「もろもろの王や王妃」、つまりは異国の王や王妃は養父や乳母となる、と書かれていますが 同時に「あなたのあしのちりを舐める」とも書かれています ということはこの「養父」というのは庇護者というよりも執事のように仕える者という意味なんでしょうか? 50章は3節までがイスラエルが苦難にあったのは神々捨てたからではなく民の離反が原因であることが 語られ、4節以降は預言者本人(わたし)を助ける神が語られているようです >>64 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ51-52章です。 「あなたのあしのちりを舐める」は、拝跪する様を表しています。 バビロン捕囚から開放される時、諸国の奴隷であったイスラエル人が 諸国の王の援助の元、エルサレムへと安全に送り返されるという 神の約束の詩的表現ではないでしょうか。 50:1-3は、捕囚はヤハウェの弱さが原因ではなくて、あなたたちの罪が原因と書き 50:4-11で、闇-光、つまり刑罰-回復という神のビジョンが、それを知るイザヤの弟子 によって語られているそうです。 捕囚という刑罰に素直に従った者が赦され、回復の時が来た、と。 >>65 また寝てしまいましたw 諸国の王がイスラエルに服属するといった意味ではなく 捕囚を終えてエルサレムへと帰還するイスラエル民族を援助するということを表しているってことですね 50章の4節以下は預言者個人に対する救いというよりも、捕囚という刑罰を受け止め それに従った者が神によって回復されるということを語っているわけですね さて51-52章ですが、ここも捕囚からの解放を主によるものとして、その救いをかたっているようです ですが、ここでも目につくのは、単にイスラエルの解放が語られているだけでなく 51章の5節や52章の10節のように、神の統治や救いが諸国に及ぶことに言及している点です 面白いのは51節で、5節まではイスラエルの民が諸国に虐げられ、また捕らわれて 主の名が侮られた、と語り、6節ではそれゆえにわが民はわが名を知るに至る、と語っているところです これは征服者たちがイスラエルを征服したことで、その守護神たるヤハウェを力なき者として 嘲り侮蔑したことによって、かえってイスラエルの民がその名を意識するようになった というようなことを言っているのでしょうか? 普通は他の民族を滅ぼしたり、自民族が救われたりすることで、その守護神の名は知られるようになる といった展開で語られるように思いますが、この5-6節の展開はちょっと変わっているような気がしました 実際後半では「わがしもべ(イスラエル民族)」は栄え、「彼は高められ」る、「多くの人が彼に驚いた」、 のように守護する民族の繁栄や強大化によってその守護神の名が高められるという展開で 語られているように思います >>66 atheistくん、おはようございます。年末が近づいてます。睡眠を第一にされてください 本日の聖句はイザヤ53-54章です 神の計画では 1.イスラエルが背いた場合 2.イスラエルに刑罰を与える・・・捕囚 3.イスラエルが捕囚という刑罰に従い反省する 4.神がイスラエルを救うことで諸国に神の名が知られる という展開だそうです 従って52:5,6は、日々、侵略者から神の名を侮辱されることで 神の名を逆に意識させられたと読めますが第一に ハーパーによると52;3-6を後代の書き込みと断定しています。 その上で イスラエルは理由なく、エジプトやアッシリアによって攻撃された ヤハウェは行動し、民はヤハウェの行為の中で神を知るのである としていますね。~ つまり、ハーパーは神の名の侮辱=捕囚など 開放=神の名を知る の比喩という解釈ですね >>67 ありがとうございます、たしかに睡眠を削っても平気でいられるほど若くないですからね 問題の箇所は後代の挿入と考えられているのですね たしかにこの箇所はこれまでの流れからすると、やや不自然に感じられます 挿入だとしても、侮辱そのものによって神の名が知られるというよりは 侮辱=捕囚 → 解放=神の名の認知、のように解釈される、というのがハーパーの立場なんですね さて53-54章ですが、イザヤの53章はおそらくキリスト教徒にとって「旧約」聖書の中で 最も重要な箇所のひとつと言ってもいい箇所です わたしは以前も何度か書いたように、イエス自身がイザヤに書かれた「苦難の僕」と自分を同一視し いわばイエス自身が苦難の僕を命を賭して演じ切った(イエス自身の認識では自分の使命と考えた) と考えていますが、キリスト教の観点から53章を通して読めば 見事なまでにイエス・キリストを予言したものと読めます キリスト教を考慮に入れず、ユダヤ教の枠内のみで考えるとしても この箇所は、極めて異様です ひとつは、ここで語られる「メシア」が王のように偉大で壮麗な姿とはまるで逆の姿で描かれているからです またその「メシア」は「われわれも彼を尊ばなかった」と書かれている通り、ユダヤ人によって侮られると 書かれているからです これは推測するのが難しいことだと思いますが、第二イザヤはなぜこのような特異な「義なるしもべ」を 描いたのでしょうか? 54章は冒頭の1節で分かるように、苦難の中にあったユダヤ人が救われるという展開の章ですね 具体的にはここでも捕囚からの解放という歴史的事実を指し示していると思いますが 11節から13節にあるように、その救いは物質的な繁栄を指しているようで、その意味で伝統的な ユダヤ教の現世主義的救済を描いたもののように思われます >>68 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ55-56章です。 フランシスコ会訳注曰く 「賠償のささげもの」は犠牲には雄牛がささげられることになっており ここでは聖書で唯一、人間が賠償のささげものになっている、と。 ハーパーは、新約聖書をイザヤに読むことと、他には見当たらないという理由で 人による身代わりの受難を否定することは避けなければならないと主張しています。 ではなぜ人間なのか。ハーパーは持論を展開します。 僕が、捕囚という刑罰の期間、捕囚に従順であったこと、 帰還の際に忠実に帰還をしたことをもって、賠償の犠牲となったと 表現してるのだと。 第二イザヤはなぜこのような特異な「義なるしもべ」を 描いたのは、神の計画どおりにことが運んでるということを強調するためでしょうね キリスト教がここから多大な影響を受けたのは 新約のいろんな箇所の異様でもわかります。かなり読み込んだのでしょう >>69 わたしは今回の通読に際しては、予型論的解釈を避け、テキストをその時代の歴史的 文化的文脈で理解することを基本にしていますが、この53章はあまりにも「キリスト教的」で ユダヤ教の歴史的文化的文脈で理解するのが困難になるほど異彩を放っているように思いました このことは逆に言えば、キリスト教が如何にこの53章をはじめとする第二イザヤに決定的な影響を 受けているかの証左でもあるような気がします ハーパーでは予型論的解釈を慎み、この53章をあくまでも捕囚とその忍従、および帰還を 表したもの、と読んでいるわけですね このような事態が神の計画通りであることを強調するために、それを「義なるしもべ」でもって 表した、というのが先生の見立てですね さて55-56章ですが、55章は捕囚からの解放の喜びを表しているのか、幸福感の横溢した箇所のように 感じました もちろんそのような喜びの中でも主に従え、主に聞け、という基本の教えは貫かれていますが 主のあわれみの大きさが強調されていて、教えに従うことよりも喜びや希望が強く目に付きます 56章以降は第三イザヤと考える学者もいますが ともかくも第二イザヤ的な民族を超えたビジョンがはっきりと表れた(受け継がれた)箇所だと思いました 6節がその典型と言っていいと思いますが、なぜか途中で切れています これは口語訳の節分けの問題で7節にそのまま繋がるのでしょうか? それとも元々途中で切れているのでしょうか? >>70 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ57-58章です フランシスコ会訳注も、ハーパーも56章以下を第三イザヤとしています。 六節は途中で切れているのではなくて、RSVが and holds fast my covenant--としているので そこからの重訳ですね。 ここは、ヘブライ語聖書で排除されていた異邦人と宦官も聖なる民のメンバーとなる。 神はさらに多くの民を集められるという箇所で、切れ目なく続いています。 6節最後のわが契約を堅く守る異邦人は――の「――」は切れているように見えますが たぶん、ためだと思います。 異邦人が神から、「わが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる」と言われているのは 驚くべきことだからです。 しかし、神の計画は 「わが家はすべての民の祈の家ととなえられる」ことであったのです。 >>71 RSVを調べてみたら、And the foreigners who ~, every one who ~ and holds fast my covenant ? (ここから7節) thse I will bring to my holy mountain ... となっているので、6節は「~する異邦人は、(それを言い換えて)~するすべての人」という形で 7節のbringの目的語になる対象を提示して、それを改めて7節のtheseで受けてbringの目的語にしてますね ということで文構造上は6節と7節でひとつの文を形成してますが 先生の言われるようにこの目的語になる人たちの説明が長いので、いったんそこでためて もう一度theseで受けてる、って感じですね 英語だと特別読むのに苦労するわけではないのに、それを日本語に直訳すると なぜか分かりにくくなってしまうことがあるようです というか、直訳形式で日本語に移してるから、かえって分かりにくいのかも知れませんね あとは日本語では「~異邦人は」で止めているので主語だと思って、7節の「これを」と同じものとは 読めなかったのかも知れません 結果論ですが、実際キリスト教を通じて、すべての民とは言わないまでも、多くの民にとって 「わが家は、祈りの家ととなえられ」ているので、イザヤの予言は それなりに実現したと言えるのかも知れません さて57-58章ですが、57章は3節や5節の内容から、どうやら異教の徒に対することばになっているようです おそらくはイスラエルのなかで行われていた子どもの生贄など、異教的習慣に言及されているのかな、 と思いました 58章は断食等を行う、見かけ上敬虔な信徒に対して言及されているようです この章で言われていることは、やはりそのまま新約聖書で書かれているようなことで ここからもイエスや福音記者に対する第二イザヤ(第三イザヤ)の影響が甚大であったことが伺えます ここでははっきりと、おのがための断食を主は受け入れないと書いてあります 主が受け入れるのは6,7節で語られているように、飢えた者、貧しき者に対する隣人愛を示すことです ここまで来て、なんですが、現代のユダヤ教徒はイザヤ書、特に第二、第三イザヤの箇所を どのように読んでいるんでしょうかね ちょっと気になります >>71 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は、2列王5:1-19です。 口語訳の頃はもろ英訳から重訳ですからあかんですよね。ヘブライ語聖書を 訳してほしいものです。 レビ18:21あなたの子どもをモレクにささげてはならない。 またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 古代イスラエル、カナンの神モレクに子供を生贄にする祭儀があったそうですね レビ記20::2で、子供ささげる者を殺せと言ってますね 激しい拒絶ですね 実は現代のユダヤ人はすべてファリサイ派の末裔です。 ルカ18:12わたしは一週に二度断食しており、とあります。 現代のユダヤ教は年六回ですね ユダヤ教がイザヤをどう読んでいるのか、一度聞いてみたいですね >>73 レビ記にそういう記述があったんですね こどもを生贄にすることについては他にも記述があったと思いますが レビ記だともうはっきりきっぱり書かれてますね イザヤ書は従来のヘブライ語聖書の思想的枠組みを超えるようなことが書かれていると 思いますので、伝統に準拠するユダヤ教徒がどのように読んでいるのか、そのうち調べてみようと 思います さて休日分はスリヤの軍隊長ナアマンの「らい病」をエリシャが癒やした話ですね 新約聖書で出てくる「らい病」はらい病とは断定できないので、今は「重い皮膚病」のように 訳されてますが、ここでもらい病とは断定できないんですかね ともかくナアマンはイスラエルで捕らえてきた少女の話から、イスラエルに行って そのらい病を治癒してもらうことで、「イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知り」ます そして今後は「他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげ」ると断言します このエピソードは異邦人であるナアマンがらい病に治癒をきっかけにイスラエルの神に帰依するという エピソードで、ひとりの例とはいえ、いま平日に読んでいるイザヤ書の異邦人の救いに通じるものが あります ヘブライ語聖書にはこのようにところどころヤハウェが異邦人であってもヤハウェを信じることがある ということが暗示されている箇所がありますね もしかしたらこういった箇所も、新約聖書のローマの百人隊長やサマリアの女などのエピソードに 影響を与えたのかもしれないと思いました >>74 「ツァラアト」(ギリシア語では「レプラ」)は、 口語訳では「らい病」、新共同訳では「重い皮膚病」、 新改訳第三版と新改訳2017では、そのまま「ツァラアト」 聖書協会共同訳では「規定の病」とやくされていて迷走しています。 既定の病ってなにとなりますが、「律法で規定された病」とのことでした。 これらはハンセン氏病患者団体からのクレームに配慮した迷走です。 ナアマンの話をルカ4章が引用し、主イエースースに語らせています。 「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」の実例として 4:27また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、 そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた >>76 聖書に記された症例だけでは現代の病理学上の病名を同定するには至らないということで ハンセン病患者団体からのクレームに反論できなかったという感じですかね ルカに引用があるのは完全に記憶から消えてました 今日の割当分はおそらく先週の続きでイザヤ59-60章だろうということで感想を書きます 59章は神の救いがない理由は神にあるのではなく、人の側の悪や罪にある、ということを 述べた章ですね 17節はヤハウェがイザヤ(古代ユダヤ人)にとって、どのような神であったかを 示した興味深い箇所です 義、救い、といった通常神に帰される性質のみならず、報復が挙げられているところが ユダヤ教らしいと思います 「熱心」というのも挙げられていますが、これは原語的には「嫉妬」とは別のことばでしょうか? それから些細な事ですが、11節の「はとのようにいたくうめき」という形容がピンときません はとが「呻く」ところなど聞いたことも見たこともないのでw 60章はイスラエルが主の恵みにより異邦人に讃えられるような描写がなされています 栄誉が金銀財宝などの富でもって描写されるところは、現世主義的なユダヤ教の影が見えますが この章も基本はヤハウェによるイスラエルの救いを記した章なのだと思いました >>78 atheistくん、おはようございます。失礼しました。聖句指定を忘れてました。59-60でした。 本日の聖句はイザヤ61-62章です 「熱心」は、新改訳やフランシスコ会訳では「妬む」と訳されており 原語的には「エール・カンナー」のカンナーと同じ語です ハトが鳴くのは求愛やなわばりの主張で 「デーデーポーポー、デーデーポッポー」と泣いているそうですが、人間には癒しに聞こえるそうです これ以外にも威嚇の場合、「プッ」や「プーッ」とおならのような音でライバルオスを威嚇したり メスが近づくと「ググゥ、ググゥ」と、こもった声をだし求愛するそうです。 ハトのうめき声はどれでしょうね 一説によると60章はペルシア王アルタクセルクセスによるエズラに対する委託だそうです。 残留する捕囚民のうち希望者をすべて導いて故国に帰れという。 >>79 ということはここの「熱心」も「妬み」とか「嫉妬」と訳しても、さほど的外れではないということですね 鳩にもけっこういろいろな鳴き声があるんですねw 人間、少なくとも日本人にとっては、やはり「呻き」というのはちょっと想像しにくいですね 60章はエズラ主導による捕囚からの帰還のことを表しているという解釈もあるのですか わたしは未来の予言の話だと思ってました さて61-62章ですが、先程の先生の解説で、ここも捕囚からの帰還後のエルサレムについて 予言している箇所なのかな、と思いました エルサレムの復興を主の祝福、救いという形で予言的に描いているのだろうと思いますが やはりその祝福や救いはここでも現世的な富という形で描かれています 61章で気になったのは1節目の「主がわたしに油を注いで」の部分です 普通に読めば、この「わたし」は筆者自身になると思いますが、これは筆者自身がメシアという自覚を もっていたということなのでしょうか?それともここでの油注ぎは、いわば比喩的な使い方で 「主に任命された、福音を伝える者」くらいの意味なのでしょうか? 62章も前章からの続きだと思いますが、61章、62章通してエルサレムが救われ、もう異邦人に 蹂躙されたり搾取されたりしない、と予言しているようです この二章は捕囚後のエルサレム復興という比較的短いスパンの予言のつもりで筆者は書いているのだと 思いますが、現実的には結局またローマに服属することになりますね >>80 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ63-64章です メシアは「油塗られたもの」という意味ですが、なぜオイルが塗られるかというと 宗教的には、「聖別」を意味します。なのでヘブライ語聖書的には ユダヤ人の王、ラビ、預言者、祭壇、無発酵パンなどの様々な人物や事物に対して 油塗られます。 この1節の第一人称は、預言者として「主がわたしに油を注いで」と自覚されています。 ところがキリスト教は、これを主イエースースだと解釈します。 ルカ曰く 4:16それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、 聖書を朗読しようとして立たれた。 4:17すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、 4:18「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、 わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、 囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、 打ちひしがれている者に自由を得させ、4:19主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。 4:20イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目が イエスに注がれた。 4:21そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 62章が現代のシオニストのメインテキストだそうです。 フランシスコ会訳は「シオンの救い」と小見出しを書いています。 イスラエルでは、極右政党と右派と宗教政党が与党になりそうな情勢で そのなると緊張が高まりそうですが、このエルサレムの復興というのは 彼らにとっては現代的課題かも知れません >>81 なるほど、塗油は必ずしもメシアの印というだけでなく聖別一般を表しているわけですね この場合は預言者としての自覚を表している、と ルカのこの箇所もすっかり記憶から消え失せていましたw 新約聖書ではけっこう無理やりヘブライ語聖書の聖句箇所をメシアの予言に結びつけて 表現しているところが目立ちますね 62章は現代のシオニストのメインテキストなんですか たしかにエルサレムが救われるということを確信するために依拠したくなるようなテキストになってますね さてイザヤ63-64章ですが、ここは主に顧みられない嘆きが中心になっているようです 63章はいきなり「エドムから来る者」と始まっていて、なんでエドム?と思いましたが どうも主はエドムなど異邦を踏みにじって、その返り血を浴びて衣が深紅になっているというような 描写のようです えらくグロテスクな描写ですね イザヤ書にはエドムに対する憎しみとも言えるような表現が前にも出てきたと思います そういえばヨハネ黙示録にも似たような表現がなかったでしたっけ? なんかこのへんは第二第三イザヤで見られる異邦人への救いというビジョンはどこかに消え失せて 敵への憎悪が前面に出てしまっているような気がします それでも一応神から離反した自分たちへの反省といったものはあるようです 16節などは認められなくとも主は自分たちの贖い主と強い言葉で語っています ところで「アブラハムがわれわれを知らず」はまだいいとして、「イスラエルがわれわれを認めなくても」 というのはどういうことでしょうか?「われわれ」はまさにイスラエル民族のことだと思って読んでたのですが なぜにそのイスラエル民族をイスラエル自身が認めなくても、となるのでしょうか? ここはアブラハムとセットで、このイスラエルは先祖のヤコブという意味で使っているのでしょうか? 64章ではもう嘆きがさらに加速してますね >>82 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ65-66章です。 フランシスコ会訳註によると、エドムは、イスラエルを抑圧した神を信じない国々の代表で イスラエルの宿敵だそうです。エドムの語幹は「赤」を意味するので「血」「ぶどう酒」が表象されるそうです。 黙示録との関連で言えば一部のキリスト教では 14:20そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、 馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。 と、イザヤのこの個所を結び付けて 主の再臨の時に、ユダヤ人はエドムの「ボツラ」に退避しユダヤ人たちに「恵みと哀願の霊」が注がれ、 悔い改めて、民族的な救いを経験。ユダヤ人たちを根絶しようとエルサレムからボツラに進軍した 反キリストの軍勢に復讐しているのがイザヤ書63章1~6節に預言されているメシアで、 反キリストの軍勢は再びエルサレムに引き返しますが、エルサレムのヨシャパテの谷で敗北することが 14:20で予言されていると解釈しています。 「イスラエルがわれわれを認めなくても」は、他国から侵略されて捕囚されて他国で奴隷となったり したからではないでしょうか。 ただし、キリスト教の一部では、ユダヤ人と異邦人が十字架の贖いによってひとつになる とよむ人たちもおられるようです >>83 エドムの語幹は赤なんですか やたら血だとかぶどう酒だとかが出てくるわけですね 黙示録のその箇所は、えらくグロテスクでちょっと気分が悪くなった記憶があります やはりここも予型論的に読み込まれているのですね 「イスラエルがわれわれを認めなくても」の箇所は、捕囚の身にあるユダヤ人の立場からの 発言かもしれないということですね さて長きに渡ったイザヤ書通読も今日が最後ですね 65章は主を求め、主に従う者と、そうでない者の選別について語られているように思いました イスラエルと異邦という区別ではなくイスラエルの中での選別ということが語られているのではないかと 思います 17節で新天地の創造が語られています わたしの記憶ではヘブライ語聖書で他にはっきりと新天地の創造について語られている箇所は なかったように思いますが、他にあるのでしょうか? この新天地の黙示録もダイレクトに黙示録に引き継がれているように思います 66章も前章からの続きで同じテーマを扱っているように思います ただ18節以下が特にそうですが、今度はイスラエルに限定することなく 「すべての国民」から選別したものを集める、と語っているようです その流れの中で、21節で「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と 書いてありますが、これは従来までのようにイスラエル民族のなかのレビびとのことではなく 新たなる祭司集団として諸国から選んだ者の象徴としてレビびとと語っているのでしょうか? 非常に量が多く、かつ読解が難しい表現を含んだイザヤ書でしたがともかくもなんとか読み終わりました 以前からわたしは第二(第三)イザヤのイエスや新約聖書に対する影響は大きいと思っていましたが 今回再読して、改めてここまで影響が大きいことに驚きました 特に第一イザヤにも新約聖書に対する影響の大きさが感じられたことが大きな収穫でした >>84 atheistくん、おはようございます。イザヤお疲れさまでした。 本日の聖句はエフェソ1章です。 ヘブライ語聖書で「新天地」が語られているのはイザヤだけですね 新約では2ペテロ 3:13しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる 黙示録 21:1また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 祭司とレビびと。56章で神殿で礼拝する外国人が描かれていましたが、ここでは更に進んで 外国人の中からも追加で祭司とレビびとが選ばれるということです。 使徒六章でステファノなど7人がギリシャ語を話すユダヤ人を代表して奉仕者として選ばれて ますが、イザやのこの箇所を思い出させます >>85 やっぱり新天地が出てくるのはイザヤだけだったんですね 新約で新天地に言及されているのは、黙示録だけではなく 2ペテロもそうなんですね 黙示録はこの前読んだこともあり、はっきり記憶に残ってますが 2ペテロはどんな書簡だったかすら記憶にありませんw 新天地だけでなく、異邦人から選ばれる祭司とレビびとという発想も ヘブライ語聖書の中では極めてユニークですね ステファノを始めとするヘレニストが初期教会で重要な役割を担った背景には このイザヤ書の影響もあるのかも知れませんね 今回イザヤを読んだことで、ヘブライ語聖書と新約聖書をつなぐ いわばミッシングリンクだったものがイザヤ書であったという認識が強くなりました さて今日からはエフェソということですが、これはパウロの真正書簡であるかどうか 疑義のある書簡ですよね ひとまずはパウロ筆ではなくてもパウロ派の書簡ということで読んでいきます まず一読、目につくのは予定説的な言辞です 4節、9-11節などは明確に神の予定と計画が語られています わたしはこの予定説的な言辞は咀嚼し切れていません というよりも、予定説が正しいなら、結局「なるようになる」のだから 敢えて意図的に伝道したり悔い改めたりしなくとも、時が来れば自動的に予め選ばれた人が クリスチャンになって、伝道する人は伝道し、悔い改める人は悔い改めることになるので なぜイエスが口を酸っぱくして「悔い改めよ」と説いたのか分からなくなります いわば人間は神の操り人形のようなもので、人間の自由意志が入り込む余地がないように思えます こういった予定説的な言辞がパウロ書簡で強調されるのは、おそらく困難な状況下での 救いの確信のためだと思われますが、神学的に自由意志論とどう整合するのだろうと思います >>86 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はⅡ列王記18-19章です。 さていわゆるエフェソス書簡ですが、明確に疑似書簡です。だが伝統的に1.1に後代写本の付加である 「エン エフェソー」を本文として訳しています。ちなみにネストレ・アーラント28版では後代挿入とわかる ように【】入りです。 これは特定のエフェソスに宛てられた書簡ではなく、キリスト教徒宛ての公開書簡体裁の文です。 また疑似書簡コロサイ書に対抗し、脱退換骨して書かれた疑似書簡です。 4節で、天地の造られる前から我々ユダヤ人は選ばれていた。 13節で、おまえたち異邦人はパウロスの異邦人伝道によってはじめて「救い」に組み入れられたのだと 主張しています。これは予定説の体裁を取ってますが、ユダヤ人によるユダヤ選民主義です。 ユダヤ選民主義がキリスト教徒になると、我々は世界の初めから神に選ばれた民族だよ となるのですが、後代のキリスト教はこのわれわれをキリスト教徒と読みます。 すると「世界の初め以前」から救われるべきキリスト教徒がいたという予定説となります。 ちなみに「みまえにきよく傷のない者となるように」はコロサイ1:22のパクリです。 コロサイ書ではあなたがはかつて悪かったが、今や悔い改め救われて神と和解し 「聖なる、傷のない、責められるところのない者」として立っているとなつてますが いわゆるエフェソスでは、われわれユダヤ人は天地の造られる前から選ばれているのだ となっているわけです。 >>87 簡単に言うと、コロサイなどを手本にしてパウロの名で書かれた書簡ってことですね ユダヤ人と特定することばは出てきていなかったので、普通にクリスチャンのことを指していると思って 読んでました どちらにしても創造の前からということは予定説だと思います さて休日分は列王記のヒゼキヤの箇所ですが、これは全部ではないですが ちょっと前に読んだような気がします 今回よくわからなかったのは18章16節まではヒゼキヤはアッシリアに完全降伏しているように 読めるのに、17節以降アッシリア王の使者ラブシャケはヒゼキヤをアッシリアに背いたと非難している ところです 一応21節でラブシャケはヒゼキヤがエジプト王に寄り頼んだと言っているので、このことを 指して非難したんでしょうが、16節までの記述ではそれがまったく出てきていません これは当時よく知られた話だったので記述を省いたということでしょうか? >>88 atheistくん、おはようございます。明日7日の聖句はエフェソ2章です。 1.18:9ヒゼキヤ王の第四年 サマリアが占領され、捕囚された 2.18:13ヒゼキヤ王の第十四年 ユダ王国の町々が占領されたので、ヒゼキヤは銀三百タラントと金三十タラント を渡しエルサレム包囲を解いてもらった 3.その10年後のBC701年に、 18:17アッスリヤの王はまたタルタン、ラブサリスおよびラブシャケをエネサレムに派兵 という流れです。時系列がややこしいてすが BC701年の包囲は心理戦を仕掛けたのです。諸民族の神々はアッシリアの前で無力だった。 ヤハウェも何もしないぞ。と。ヒゼキア王は神に祈った。すると、 19:35その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。 アッシリア軍が敗走 という流れです >>89 なるほど、2と3の間に10年の開きがあるんですね 時の経過を示すような表現がなかったので そのまま2の状況が続いているものと思って読んでました 3のときにはヒゼキヤはエジプト王に寄り頼むよなど抗戦の構えを示してきたので それに対してアッシリア側がヤハウェの無力を説いて威圧してきたって流れですね >>90 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエフェソ2章です。 註解がなければ気づけない流れです。10年後とどこにも書かれてないので。 この間に高台にあるエルサレムに水確保工事をしたり、いろいろと準備したそうです >>91 ヘブライ語聖書は特に注解がないと何言ってるのかさっぱり分らないところがありますよね さてエフェソの2章ですが、基本的には今までのパウロの手紙の焼き直しという感じで 特別に新しいこと、あるいはこの手紙独自の主張があるわけではないようです ただ重点としては異邦人とユダヤ人のふたつの対立を乗り越えてひとつになるよう説いている 感じがします ここでの質問は、2節の「空中の権をもつ君」です 文脈上世俗の権力を表しているようですが、なぜ空中なのでしょうか? 普通に考えれば「地上の権」と表現したほうがいいように思います それから14節以降に出てくる「二つのもの」というのも判然としません 異邦人とイスラエルという対比がその前で使われているので これは異邦人とユダヤ人がひとつになる、という意味でしょうか? でもそうすると15節の「二つのものをひとりの新しい人に造りかえて」というのが よく分からなくなります ここでの「新しい人」というのは教会の比喩なんでしょうか? 教会の比喩だとすれば16節の「ひとつのからだ」というのも キリスト教ではよく教会をキリストの体に喩えたりするので、合点がいきそうに思えます >>92 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエフェソ3章です。 空中の権をもつ君が、つまり悪魔的権力の親玉が、地上を支配しているという意見ですね。 「この世」と訳されている語は「アイオーン」ですが、「アイオーン」は神格の対象となっており アイオーン信仰は罪の勢力で、その親玉は空中の権をもつ君なんだと言われていたからかもですね 「二つのもの」は、ユダヤ人キリスト教徒(我々)と異邦人キリスト教徒(あなたたち)です。 15節はユダヤ人と異邦人とを一つのキリスト教徒という「新しい人間」に作り変えたということですね つまり、約束された救われる者と滅ぼされる罪びとが分けられていたのに神がクリストスにおいて 救われるキリスト教徒に作り変えたということですね 16節の「ひとつのからだ」は、イエースースのからだのことですね。 教会は伝統的に、クリストスのからだと解釈し、イコール教会と解釈しています。 >>93 アイオーンといえば、わたしの場合は英語のeonが浮かんでしまうので 永遠と思えるような長大な時間、くらいのイメージがあります あとはグノーシス主義での神的存在の意味くらいかな この世の意味もあるのは地理的イメージよりも時間的イメージで この世の時間というような意味から派生したんですかね 「二つのもの」に関しては、やはり基本的にはユダヤ人と異邦人の区別から来てるけど 厳密にはユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒ということですね 「新しい人間」においてはユダヤ人か異邦人かの区別がなくなるので「ひとりの」と付いているわけですね 16節の「一つのからだ」はたしかに文脈上、イエスの体ですね そのイエスの体が十字架につけられることでユダヤ人と異邦人の対立が解消されたのだ、 ということなのでしょう さて3章ですが、ここでの重要な聖句は6節であると思いました 前章からの続きで、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の対立を解消して ひとつのからだとなること、これがこの手紙の主眼なのかもしれません 要は教会はユダヤ人と異邦人の対立を超えてひとつになれ、ってことでしょうかね パウロ自身はこういった神の計画のなかで異邦人に遣わされたと自認しているようです その使命の中で艱難にあっているが、それは異邦人がユダヤ人とともにクリスチャンになって 神の奥義にあずかるためだ、ってこと言いたいんでしょうかね >>96 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエフェソ4章です 3節で「奥義」と言ってますが、その中身が6節ですね。 パウロス大先生の「奥義」は、「イエースース・クリストスに救済」でした。 ユダヤ教文脈ではありえなかったので「奥義」だったわけですが いわゆるエフェソの著者からすると、「イエースース・クリストスに救済」は当たり前の事なので (120年頃成立です) 「異邦人が共同相続人」となることが「奥義」だったわけですね。 さて、パウロス大先生の時代は、キリスト教はまだユダヤ教の一宗派だったので、 パウロス大先生は異邦人の使途を強調したが、 いわゆるエフェソの著者の時代は、エルサレムは陥落し、その前にキリスト教会はペラに 移住し、エルサレム教会の地位は失墜しており、キリスト教は異邦人が中心の教会であった いわゆるエフェソの著者はこれが気に食わなかったのである。 我々ユダヤ人は「世界がはじまる以前にクリストスから選ばれていた」、きみたち異邦人は キリストの支配が天上から地上に及んだので、おまけで共同相続者とされたのだということです 極めて傲慢なユダヤ主義に貫かれています。また時代の影響でアイオーンひとつをみても グノーシス主義に似た定義に影響されています >>97 なるほど、パウロの文脈ではキリスト自身が救いであって それをパウロは何度となく説くわけですが、エフェソの著者にとっては すでにそれは前提になっているので、「異邦人が共同相続人」というテーマが奥義になるわけですね 後半のユダヤ人至上主義に関しては、わたしはまだエフェソの文脈からは それがはっきりと読み取れませんが、読み進めるうちに分かってくるかも知れません さて4章ですが、ここも普通にパウロ的な教えの枠内であるように感じました 印象的なのは4-5節で出てくる「~はひとつ」という文句です 教会における一致を説いた箇所で、教えの一致を強調しているようです 7節からは人それぞれに賜物が分け与えられていること、それがキリストのからだの 各部として有機的に結びついていることが説かれているようです ユダヤ主義的に読めるのは17節で、異邦人を「むなしい心」の持ち主として描いているところです ここもキリスト(あるいは神)を知らなかった人を異邦人という表現で表しているようにも 読めるので、大きくパウロ的な文脈から外れているようには見えません 強いて言えば、8-9節の「地下の低い底にも降りてこられた」という箇所を 異邦人への伝道と捉えれば、たしかにユダヤ人至上主義なのかなと思えます 全般的にはキリスト教で強調される倫理がここでも説かれている、という印象でした >>98 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエフェソ5章です。 4:5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ 日本語で読むと分かりませんが原文では「一つ」は性変化しますので 主はヘイス、信仰はミア、バプテスマはヘン。となってます。 男性・女性・中性です。 さてこの一つは、パウロス大先生の神学では、1コリ8:6のように 多神教に対して神は一つであり、その神を顕わしたのはクリストスただひとりであると云ってますが いわゆるエフェソの著者は、キリスト教の関わることはなんでも一つだ。 ユダヤ人キリスト教が設定した事柄を異邦人キリスト教徒は変更するなよ、という意味での一つです。 4:11そして彼は、ある人を使徒とし 原文にある者を、とはありません。ルター以来の改竄です。 これは1コリ12:28のパウロス大先生の文に合わせるための操作ですね。 原文は、彼が使徒たちを、また預言者たちを・・・また牧師や教師を与え です。 主イエス―スが教会に各種の指導者たちを信徒を整えるために与えたという文です 17節異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない 典型的に異邦人蔑視ですね。 ヌースを口語訳は「心」と訳していますが、普通は「理性」ですね。 9節の「地下の低い底にも降りてこられた」 これも口語訳の改竄ですね。 原文は「地という低い場所まで」です。天に比すると地上は低いので。 新共同訳 聖書協会共同訳 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 新改訳2017 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。 新改訳第三版は この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 これは地下をイメージした訳ですね なぜ地下なのか。キリスト教神学の一部少数派に黄泉下りを読む人たちがいて、その影響に よる改竄です ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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