【歴史】申し訳ないけど、邪馬台国は畿内以外ありえない。卑弥呼=百襲姫説が正しいよ
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◯=近似 ◎=酷似 △=微妙 ☓=違う
卑弥呼[魏志倭人伝]
◯①倭国大乱を収めるために王として立てられる
◎②鬼道(シャーマニズム)を用いる
◎③夫はいない
◎④非常に高齢
△⑤弟がいて国を治めるのを助けている(崇神は弟とされていないため“微妙”)
△⑥卑弥呼の死後、新たに男王を立てたが国中が不服で互いに殺しあった
◯⑦卑弥呼の墓:直径百余歩(約150m)
☓⑧邪馬台の女王
百襲姫[日本書紀崇神紀]
◯①多発する災害、疫病を静めるために登場
◎②巫女として大物主が神憑りする
◎③(大物主と結婚したため人間の)夫はいない
◎④崇神天皇の大叔母
△⑤将軍の反乱を予言(笑)。崇神に忠告し、崇神が反乱軍を返り討ちにする。(崇神は弟ではないため“微妙”)
△⑥崇神天皇は畿外へ四道将軍を派遣し征伐を開始する
(確かに百襲姫没の記事自体は征伐より前に置かれているが、没年に関する記載がないので、畿外征伐との先後が断言できず“微妙
”)
◯⑦百襲姫の墓と見做される[宮内庁治定]
箸墓古墳の規模:
墳長278メートル
【後円部】径約150メートル
高さ約30メートル
「昼は人が造り、夜は神が造った」と記されるただならぬ墓
☓⑧あくまで巫女として活躍した皇族の1人として描かれる
これだけ似てりゃ、同一人物だ 天皇家を万世一系であるとしたかった日本書紀の編者にとって卑弥呼は不都合
だって夫も世継ぎもなく
天皇の直系尊属であるわけでもないのに倭国大乱後の初代統領になり
しかも民を惑わすと言われた鬼道に熱心
更に中国に朝貢
肝心の直系尊属たる崇神は卑弥呼に仕えていた
なんて事は絶対認められないから神功皇后の活躍時代を卑弥呼の時代にズラして混同させようとした(三国史記と比較すると100年ものズレ)
代わりに倭迹迹日百襲姫命としての活躍は伏せられ、あくまで巫女として活動した皇族に格下げ(※それでもなお異色の人物)されてしまったと考えると自然だ 何より百襲=卑弥呼と日本書紀が書けなかった理由は魏志倭人伝に天皇の名前まで出ちゃってるからだわな
しかも官扱いなのが不味い
邪馬臺国4官
①官:伊支馬[イキマ(生駒)]
↓
垂仁天皇[イクメイリビコ(活目入彦)]
②次官:彌馬升[ミマソ(御間襲)]
↓
[謎。対応無し]
③次官:弥馬獲支[ミマワキ(御間城)]
↓
崇神天皇[ミマキイリビコ(御間城入彦)]
④次官:奴佳鞮[ヌカテ]
↓
[謎。対応無し] 魏志倭人伝では、天皇が卑弥呼に使える官扱い。投馬の彌彌那利や彌彌、奴国の兕馬觚や卑奴母離(ヒナモリ。~モリなので、守る人。)と同じ。
こんなの書けるはずがない
だから百襲と崇神を紀元前の人にして、百襲=卑弥呼説が湧いてこないようにした
けど現代に入って崇神や百襲が実は3世紀の人だと分かってしまったから編者の目論見が外れたってわけよ 在野の研究者さんですか?
呉座勇一さんについて一言 >>15
>牛も馬もいないので運搬能力が低い。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない。
ダウト
瀬戸内海運使えば、馬や牛より早く多くの兵力輸送出来る 卑弥呼=日の巫女=アマテラスやろ
ということは伊勢神宮の三重やろ簡単やん マジでわからんのやがあれは一応女ってことで確定なん? >>18
伊勢神宮が出来たのはもっと後の話
そこは元々磯部氏が支配してた。
伊勢の語源も磯(いそ)。
そして伊勢を支配していた磯部氏は後に大王によって伊勢神宮外宮の宮司にされる。それが度会氏 ただ正確に言えば女王ではなく【斎王】だろうな
中国からしたら女王に見えたんだろうよ せやからなんで畿内から邪馬台国当時と思える遺物が出土せんのや?
なんで一枚も魏鏡が出てこんのや?
北部九州やとバンバン見つかるし魏志倭人伝にもはっきりと銅鏡を送ったと記されてるのに 畿内やとして、当時の中国からどういうルートできとったん? 場所は吉野ヶ里の近くでほぼ確定しとるけど研究者の食い扶持がなくなるから発掘しとらん遺跡があるって話やなかったか確か 存在しなかったんちゃう
中国人くらいしかそんなこと言ってないんやろ 逆に日本で呉の年号が記された銅鏡が出土しているのは、安倉高塚古墳(兵庫)と鳥居原狐塚古墳(山梨)の2例のみ
女王国が「魏」から支援されていたならば
女王国と敵対する狗奴国は当然、魏と対立関係にある「呉」と親交を深めようとしただろうし当然応じられたであろう。
【九州から呉の年号が記された銅鏡が出土していない時点で九州説はズタボロ】
同時に鳥居原狐塚古墳に近い遠江の久奴が狗奴国に比定され、卑弥呼が都する邪馬臺国の畿内説が更に強化される
九州説の方は、貴方達が狗奴国だと考えている呉の元号が刻まれた銅鏡見つけてから出直してきてください。
畿内説は狗奴国に比定する「遠江の久怒」付近から赤烏元年鏡が発見されているので物証万全です。しかも赤烏元年(238年)の紀年銘なので魏志倭人伝にドンピシャ
物証すらない九州説は相手になりません 古代ジャップ猿の古事記(爆笑)日本書紀(爆笑)よりも
古代中国のソースが信頼できるやろ >>29
吉野ヶ里はありえねえわしょぼすぎる舐めてんのか?
奴国が比定される比恵・那珂遺跡群の方が4倍でけえ規模誇ってるぞ さっさと全古墳掘り返して調査しろよ
嘘つかんように民間業者駆使してな
どーせ盗掘されまくりで何も残っとらんやろうけど >>32
もちろん中国史書がソースやで
支對馬[ツスマ]國→対馬
一支[イキ]國→壱岐
末廬[マツロ]國→松浦
伊都[イツ]國→糸島
奴[ナ、ヌ]國 →那珂
不彌[プミ]國→宇美
投馬[ヅマ]國→但馬or出雲
邪馬臺[ジャマデ(上代までの日本語に拗音はないから話し手の日本人はヤ行のつもりで喋っていただろうよ)]國→ヤマト
狗奴[クナ、クヌ]國→久怒(山梨から呉の年号が記された銅鏡出土※九州からは出土しておらず)
斯馬[シマ]國→不明
伊邪[イヨ]國→伊予(愛媛伊予市)
彌奴[ミナ、ミヌ]國→美濃
對蘇[ツソ]國→土佐
蘇奴[ソナ、ソヌ]國→讃岐
鬼[クィ]國→紀伊
巴利[パリ]國→播磨
支惟[キグィ]國→吉備
華奴蘇奴[パヌサヌ、パナサナ]國→阿波の和那散(播磨国風土記に登場、現在の徳島県和奈佐意富曾神社) 邪馬台国に至る行程で奴国なんか紹介しとるのに大都会岡山や出雲をガン無視はありえへんからなあ
まあ九州やね はっきりいって難し過ぎてよくわからん 百襲姫というのがその本に本当に書いてるかもわからん 九州を支配していたのは【奴国=那珂】
比定地の那珂には比恵・那珂遺跡群という巨大遺跡があります。吉野ヶ里ばっかり注目されますが、こっちは吉野ヶ里よりデカい。4倍ほどデカいから比べ物にならない。
直線道路に面して様々な施設や家が置かれていた、つまり綿密に都市計画を練ってから都を造った先進国家が【奴国】である
魏志倭人伝に2万戸あるのと記されているのも納得
実際奴国の官(多分王様)も兕馬觚(シマコ=島を支配する者。みたいな?)という名を冠している >>37
日本書紀(爆笑)ソースにしてる時点で論外 奴国[那珂]は一時期日本最強、そして最大の都市を有していた。
漢委奴国王の金印まで獲得していた。
しかし3世紀以降急速に発展する瀬戸内海東部に圧倒され妥協の必要性に迫られ、また大陸で魏がドンドン拡張してくるので女王国同盟に加入したという所でしょう
https://i.imgur.com/H00p5DU.jpg 九州の自然災害の多さを見るに水害や土砂崩れで流れてしもうた遺跡とか多そう(適当) >>44
『日本書紀の編者が魏志読んで寄せただけじゃないの?』
よくある質問ですね
ですがそれも真っ向から否定されますよ
何故か?
日本書紀の編者は卑弥呼と神功皇后を混同させようとしているからです
例えば
日本書紀神功皇后66年の記事で注釈的に倭の女王が中国に使いを出したとの記載
もっと言えば
神功皇后39年に「魏志によれば『明帝の景初3年6月に倭の女王が使いを送り、郡に至りて天子に朝献する事を求めた。太守は役人を派遣し洛陽まで連れてきた』という」とまで書かれている
そもそも日本書紀の主張する神功皇后の在位年を西暦で換算すると170~269年て事になる
んでもって崇神や百襲は紀元前になっちゃう(ありえないけどね)わけだから編者に百襲を卑弥呼と混同させる意思が無かった、むしろ同一視されないよう努めてた事がわかるね 九州は中国の領土やったってことか?
日本は早く中国に盗んだ領土返さんとな >>38
>>37
無視してないぞ
あと魏志倭人伝って伊都国までは方向・里数・戸数や官名の定型項目以外に見聞記録があるけどそれ以降に記載された土地には無いからね
つまり使者は伊都国より先に行ってない。それ以降、というか九州より先のの投馬や邪馬臺は伝聞。
倭人は入れ墨してるってのも、棺はあっても槨が無いってのも、伊都国までの習俗の事だ。
という事を頭に入れておいてください 袋井市のあたりって栄えてたんか?邪馬台国と抗争してたんか? >>48
マ?
中国の掲示板にこのスレ貼って宣伝しとくで
日本がまた領土盗んだ疑惑出てきたってねw 隋書に「倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り、大海の中の山島に依りて居す。魏の時、中国と訳を通じること、三十余国、皆自ら王と称す。倭人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ。」とかいてあるでしょ
投馬以降は倭人からの伝聞だから、いきなり距離が里数から日数に切り替わってるわけね
中国からの使者は九州(筑紫島)までしか行ってないんだよ >>39
【日本書紀崇神紀】
>七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姫命曰「天皇、何憂国之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭国域內所居神、名爲大物主神。」
崇神天皇は言いました。
「私の世代になって、よく災害がある。おそらく良い政治が行われていないから、神祇が咎を与えているのではないか。
どうにか命神龜をして災いを起こす理由を見極めよう」
天皇は神淺茅原に行って、八十萬神に占いで問いました。
このときに百襲姫命が憑して言った。
『天皇よ。どうして国が治まらないことを憂うのか?
もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう』
崇神天皇「あなたは、なんという神ですか?」
百襲(憑)『私は倭国の域内にいる神、大物主神である』 >>39
【日本書紀崇神紀】~百襲の予言と忠告~
>大彦乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姫命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭国之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」
大彦命はすぐに帰り、詳細に見た事(少女が変な詩を歌っていた)を百襲姫に報告しました。
天皇の大叔母の百襲姫は聡明で物知りで、【未来の事も分かる人】です。
彼女は歌の怪(シルシ)を察知して、崇神天皇に忠告します。
「これは武埴安彦が謀反を起こす表でしょう。私が聞いた所によると、武埴安彦の妻吾田媛は密かに倭の香山に来て、土を取り、領巾の頭に包んで呪いを掛けて『これは倭国の物実』と言って、帰って行ったのです。」
※反乱軍の武埴安彦[山城国=今の京都を拠点にしてた]は予言を聞いた崇神に反撃され討たれます >>48
せや
古代九州にあったのは中国王朝の出先機関やったんや
やから日本は中国に九州沖縄を返還せなあかん >>54
その狗奴国ってそんな栄えてたんかなって
南九州は熊襲とか隼人とか薩摩とか異質な人がおるイメージあるから狗奴国となんか重なるんやけど 弥生人自体朝鮮由来なんやから九州にないとおかしくね? 氏族に関連の深い神社の配置、史書や伝承から推測すると
摂津&河内→物部氏
河内&和泉→葛城&葛城外交担当支族の蘇我氏(ヤマトと瀬戸内海の交通路=喉元を抑える)
大和→三輪を本宗とする後の大王家(イリ王朝)。ここに斎王卑弥呼もいる。
[ここまでが邪馬臺国かな]
山城→武埴安彦が支配していたけど百襲姫の予言で崇神に討伐される。代わりに葛城に仕えていた加茂氏や秦氏が入植&開拓。後に平安京が出来て京都になる。
https://i.imgur.com/XpnysC1.jpg >>56
百襲姫は大物主の預言を受けて、神功皇后は天照大神の預言を受けるんやな
こんがらがる >>61
2~3世紀の時代には、黥面土器が畿内だけ全く見つかっていない
つまり入れ墨を嫌う渡来人が畿内に大量に侵入してきている >>63
百襲姫は大物主と結婚もしているから、登場の人からしたら神に比肩する存在や 九州か畿内かにそんな意味ある?邪馬台国がどっちにあろうとそのどっちにも巨大なクニがあったのは確かやろ 宮内庁の意向が変わらん限りここら辺の歴史はもう解明できんやろね まず親魏倭王は親魏大月氏(当時はクシャーナ)王と同レベルの称号
九州だけだったら三韓にも負けるであろう超弱小国家なのにこんな称号貰えんよ >>66
どっちにも強大な国あったで
九州支配してたのは奴国>>45。今の那珂な
吉野ヶ里遺跡より4倍も大きい遺跡群が発見されてる >>65
国譲り神話はなにを意味しとるんや?
卑弥呼はイリ王朝の人で国津神の陣営やったんやな 1~2世紀半ばまでは九州が技術優位あったから最強だったんや
実際、那珂は「漢委奴国王」貰ってるやろ?優れた都市遺構も見つかってる
けど2世紀後半~3世紀に入ると全国各地に渡来人やってくるから技術力が均一化する。そんでもって瀬戸内海東部沿岸の方が平野部多いからマンパワーで押し負ける せめてブログ、出来れば寄稿、欲言えば学会、最高は査読論文でどうぞ >>70
同じ女王国だった筈の投馬(出雲)國を邪馬臺が滅ぼした話が、国譲り神話になってるのだろう
そんで投馬討伐に協力してくれた氏族を「出雲国造」にした。
なんでそんなこと分かるのかって?
出雲国造の故地は出雲大社(杵築大社)がある西部じゃなくて東部なんだよ。だから出雲国造は出雲大社より熊野大社を重視してたりする
今でも出雲大社は熊野大社に屈辱的な祭祀するの強いられてる 封泥とかいうのが出土すれば確定とか言われてたけどそんなの千年以上もつもんなんか もっと上手く纏めよう
国譲りは邪馬台国の時代より後
理由は簡単。出雲大社(杵築大社)があるのは西出雲(杵築)だから。
西部の杵築。東の淤宇氏という構造。
つまり熊野を本宗とする後の出雲國造勢力は(出雲国造は延暦17年(798年)にその職位を解かれるまで、出雲国東部の意宇郡司だった)は邪馬臺と同盟して
杵築をついに叩き潰しそのまま乗っとってしまったと。
そういうわけで出雲国造は杵築大社より熊野大社を重視していたのですね その名残は今でも残ってる。
出雲大社の宮司は毎年10月に熊野大社に出向いて臼と杵を受け取るんだ。
そんでもって餅をお礼に渡す。すると熊野大社の下級神官である亀太夫は、色が悪い、去年より小さい、形が悪いなどと苦情を口やかましく言い立てるという屈辱的な神事をずーっと出雲大社はやらされてるわけ 居るよなあ自分が専門家より歴史の真実について詳しいと思い込むやつ
統合失調症の気があるから病院行きなさい 投馬(出雲)は但馬含め中国地方の広範囲を支配していた。魏志倭人伝に約5万戸と記されているから邪馬臺に次ぐ勢力だったのだよ。
けどジリジリ邪馬臺に削られてしまい。最後には杵築の地も奪われたと。 >>74
亀太夫神事(鑽火祭)ってやつかな
熊野が出雲にマウントとってヤマトは怒らなかったんか 読む気起きないからまとめてYou Tubeに動画あげてよ 卑弥呼がイリ王朝ってのも語弊があるな
邪馬臺国は東京都みたいなもんやで
卑弥呼は、奴国も投馬も邪馬臺も全部含めたみんなの女王(斎王) >>83
あー続き読んだら納得した
頭こんがらがるなあ >>83
怒らないやろ
邪馬臺に協力して、投馬最後の抵抗拠点の杵築を叩き潰したのが出雲国造や >>86
大皇も所詮豪族連合の代表にすぎないからまあそうやろうな 記紀で卑弥呼=百襲姫が地味に描かれて神功皇后とか天照がフィーチャーされてるのは卑弥呼が魏に朝貢したのが編纂者にとって不味かったのかな 余談だが魏志倭人伝に登場する一大率(ソツ)。これは後漢書に記載のある帥(ソチ)よ同じ様な物でしょうね。
またこれらに対応する役職が日本書紀にも書かれていて宰or司(みこともち=御言持ち)と呼ばれている。
その彼らを統括する(すべる)のが大王。
よって大王は諸国から「皇(すめらみこと)」と呼ばれ畏れられる様になるんですな この辺の古代群雄割拠みたいなの解明されたらどちゃくそ面白いやろうなぁ >>91
マズイ。だって天皇っぽい人が卑弥呼に仕える「官」として魏志倭人伝に記載されているのだもの>>3 日本書紀はナショナリズム全開。
一貫して「天皇すごい!日本すごい!」という姿勢で書かれてる
日本書紀に「高句麗と中国が朝貢してきた。」て書いちゃうくらいにね
「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)
それなのにヤマトが中国に朝貢していて、しかも天皇は卑弥呼に仕えていたなんて話書ける筈がない。
だから後世の人にはバレない様に卑弥呼に当たる百襲姫を西暦換算紀元前の人にして代わりに神功皇后を3世紀の人にしたわけ。
江戸時代までの人達は皇紀信じてたからまんまと騙せてたんだけど現代になるとそうはいかんよね 江戸時代までは卑弥呼=神功皇后って認識やったんか?
ってか卑弥呼や魏志倭人伝の存在って知られてたんか
あと神功皇后は実在したのそれとも創作? 邪馬台国が畿内説はあり得ない
そもそも魏志倭人伝の記述と合わない
魏志倭人伝の内容を軽視するならそもそも邪馬台国と卑弥呼の存在が怪しくなる 女王国から男系の天皇制国家へ移行したあとの時代に天皇制の伝統性正当性を確立するために書かれたのが記紀なんやね 「纏向遺跡」は2世紀末~3世紀初頭に突如出現し、計画的集落で規模が大きく朝鮮との交流を示す北九州に見られる漢鏡・後漢鏡・刀剣類は皆無、搬入土器が多く全国から集まっていて遺跡規模は全国最大級で【市的な機能】が重要視され、生活用具が少なく土木具は巨大運河築造や都市建設の土木工事に使用したものと見られる
だから百襲姫は【大市】に墓が作られた。と日本書紀に記載されてるわけよ >>99
九州説の方が地名説明しきれないな
支對馬[ツスマ]國→対馬
一支[イキ]國→壱岐
末廬[マツロ]國→松浦
伊都[イツ]國→糸島
奴[ナ、ヌ]國 →那珂
不彌[プミ]國→宇美
投馬[ヅマ]國→但馬or出雲
邪馬臺[ジャマデ(上代までの日本語に拗音はないから話し手の日本人はヤ行のつもりで喋っていただろうよ)]國→ヤマト
狗奴[クナ、クヌ]國→久怒(山梨から呉の年号が記された銅鏡出土※九州からは出土しておらず)
斯馬[シマ]國→不明
伊邪[イヨ]國→伊予(愛媛伊予市)
彌奴[ミナ、ミヌ]國→美濃
對蘇[ツソ]國→土佐
蘇奴[ソナ、ソヌ]國→讃岐
鬼[クィ]國→紀伊
巴利[パリ]國→播磨
支惟[キグィ]國→吉備
華奴蘇奴[パヌサヌ、パナサナ]國→阿波の和那散(播磨国風土記に登場、現在の徳島県和奈佐意富曾神社) やっとイッチの主張がわかってきたわ
なんか合ってそうやけど難しいわ >>98
本居宣長は卑弥呼=神功皇后としているよ
というか日本書紀の神功紀に魏志倭人伝が引用されてるから日本書紀編者の確信犯で読み手に、神功皇后を卑弥呼に比定させようとしてる >>104
詳しくありがとう
騙せてて草
書いた人頭ええなあ >>104
神功皇后って新羅の神の子孫だよね
そうすると
卑弥呼は渡来人だったんかね >>100
記紀というが、古事記の方もまた江戸時代まで偽書扱いされたり軽視されてたのを知っていますか?
本居宣長が古事記伝作ったおかげで注目されたんですよ
古事記の存在は正史である日本書紀や続日本紀に一切登場しないし、古事記が他の文献に引用されるのは812年が初で古事記編纂されたはずの712年から100年もブランクあるし天武天皇が編纂命じたのに推古天皇までの歴史しか書かれてないし、滑稽な史書だなあと思われてたんですわ ワイの中学の頃の先生がイッチと同じこと言ってたわ
でも畿内だと魏志倭人伝に出てくるルートが合わなくなるやん >>37
ちゃんと何処からどこまで何日かかったかも書いてよ😁
ソース元の魏志倭人伝には書いとるやろ? 日本書紀とか古事記とかいうデタラメ内容の創作物を歴史書扱いしてるジャップマジで頭イカれてる >>102
当時の地名と今の地名に相関を求めるのが間違ってる根拠が無い >>111
今の研究者は誰一人として記紀神話の記述が全部正しいと思っとらんやろ >>106
ワイは神功皇后≠卑弥呼説だよ
というか通説でしょう。だって神功紀の記述と他国の史書比較すると100年もズレてるんですもの
卑弥呼=神功皇后と読み手に推定させたいがために無理してしまった。
で、新羅の話は確かにそうだね。古事記に「神功皇后母方の祖先は新羅王天日槍です~」と書いてある。
そして神功皇后の朝鮮征伐は虚構だったわけでもなく朝鮮の史書三国史記にも高句麗の好太王碑にも「倭人が攻めてきた」との記載が残っている(100年ズレてるが)から
これは新羅王位継承戦争みたいなもんだったのかもね 当時の日本で畿内から九州を支配できるほどの制度も文化も技術もない 日本書紀と古事記は大化の改新という古代日本最大の政変後に作られていて政治色が強すぎる どの説も面白いからこの問題は嫌なんや
たぶん永遠に確定せんのやろ >>110
九州から水行20日で投馬(出雲)
そっから水行10日で若狭湾に入って南下し陸行一ヶ月で邪馬臺に到着
完璧やな >>107
卑弥呼を神功皇后とくっつけるって意図は古事記も同じちゃうか >>116
邪馬臺国は主導的立ち位置だろうが九州を支配してまではいない。
九州を支配しているのは奴国
中国地方を支配しているのは投馬(出雲)国と巴利國(播磨)と支惟國(吉備)
畿内を支配しているのは邪馬臺国
それらの同盟を【女王国】と呼ぶ。 >>118
確定できないのは卑弥呼が天皇家と関係ない可能性が有るからやろ >>120
琉球語で「北」は”にし”と言うんだが、これは日本語の”西”と語源は同じく「去にし(いにし)」に由来している。
つまり古い形の日琉祖語では西と北が混同される。
倭人からの伝聞で間違えた可能性があるわけだね
実際後世の使節は東へ東へ進んで
邪靡堆。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者に到達しているからね[隋書] 新唐書「筑紫城の阿毎氏の神武が大和を統治し天皇になった」
これ無視し続ける理由なに? >>125
仮に北=西だったとして魏志には南と書かれてる >>124
なんで迷ってるんや?
日本海日本列島沿いを東進してると放っておいても若狭湾に入る(背後に琵琶湖地峡がある若狭湾は日本海の風が若狭湾から琵琶湖に吹き抜けているため)
しそこから南下すれば畿内の地やん この時代の日本史って絶対面白いよな
ワイが死ぬまでには天皇陵暴いて明らかにしてほしいわ もはや90%の人間が九州説で一致してる
畿内の豪族が、どうやって九州の有力豪族達を避けて大陸まで使節を送ったんだ?
方法がない。 畿内説は無理やり解釈が多すぎるんだよなぁ
普通に魏志倭人伝読んだら九州確定やんけ
さっさと箸墓ご飯掘って答え合わせしてほしいわ 「魏志倭人伝が間違ってましたぁ」ってなったら阿鼻叫喚よな
ありえないけど 魏志倭人伝読めばそもそも中国が倭国と認識してるのは朝鮮半島南端から北九州までじゃん
他にも和種の国は有るとは認識してるが
そもそも畿内は同時期に倭国大乱に相当する争いがない >>127
中国人が「我が国から九州までの行き方は分かるのですが、都までの行き方がわかりません教えてください。」と問う
すると倭人は「私が都からやってきたルートはですね、投馬国からニシ(西の意)へ水行20日で(倭人は里数を知らず、ただ日を以て計るのみ[隋書])ここ筑紫島(九州)に到着したのですよ~」と説明する
中国人はニシが倭語で北を意味する語(琉球語では今もニシで北)と言う事を知っていたので、「ならば逆に不弥国から南へ進めば投馬国に到着するのか」と解し記載したと考えれば自然。
隋書では中国人使節はちゃんと東へ進んでいるし、投馬からいきなり距離が里数ではなく日数で表記されることを考慮するとこれが一番正しい
伊都国で中国の使節に対応したのも、女王国盟主たる邪馬臺国の役人であっただろうから(地理的な近さから、また女王国は邪馬臺国に限定されないから投馬国の役人である可能性もある)。自分が来た道程を語るであろう >>131
魏志倭人伝を文字通り読んだら場所的に日本ですらなくなるぞ
せやから信ぴょう性が疑われてこれだけもめてる なんなら朝鮮半島にあっても不思議じゃないんだけどな 女王国で祭る神様が大国主から天照に変わったのはどういう理由や?
卑弥呼現役時代は大国主系を祀ってたんよな >>130
伊都国も奴国も女王国だって書いてあるやろ
魏が膨張しまくってた(帯方郡復活、朝鮮半国々がどんどん飲み込まれていく)から九州も同盟に入って外敵に備える必要があったんや
女王国ってのは古代ギリシアのデロス同盟みたいなもんや >>141
水行1日が何kmかわからんからわからんぞ >>131
いやそのまま読んだら邪馬臺国は沖縄あたりになるやろ 正直どうでもいいわ
所詮中国から見た話だし邪馬台国以外国がないわけじゃないし >>146
なんだよ同盟って
そんな妄想で議論成り立たせて良いなら、何でもありじゃねえか 日本と朝鮮半島の暗黒時代って文書すら残ってないマジもんのやつやからロマンがあるよな
朝鮮半島は三韓時代からのスタートやし 卑弥呼は処女のまま死んだか否かの論争よりは建設的
ワイはパコってたと思う >>152
しかも魏に対する同盟って言ってるけど朝貢して仕舞だし意味不明だわ どこにあったかってさほど重要じゃないよな
邪馬台国も複数ある国の一つに過ぎないし 魏志倭人伝の方角は当時の情勢考えると魏は恣意的に蜀の東方沖に位置する位置でわざと書いた説が有力やろ >>151
どうでもいいけど古代において世界は日本だったっていう説がある
邪馬台国はエジプト >>157
大和王権の成り立ちに関わるからセンシティブやねん 邪馬台国九州説だった場合の近畿がどういう国だったのか言及してる人少ないよな
少なくとも卑弥呼の時代に奈良に前方後円墳を日本中に広める勢力がいたのは確かなんやから 中国はかつての支配地域まで領土取り戻したいらしいから
邪馬台国の位置がどこかで日本の領土がどれだけ今後中国に取られるかわかるんよな
最低で九州
畿内説が正しいとなると畿内までになるので
九州であってクレメンスが日本人の総意やろうな畿内まで取られんから >>156
いや朝貢すれば中々攻められないぞ
怖いから臣下に下るんや >>163
確かに九州も滅茶苦茶発展してると認めてるんやがな
日本で一番最初にデカい都市作ったのが奴国(那珂)や
>>45 >>143
天照が国教になったには天武朝で相当後の時代やからな、そもそもそれまでは各氏族で氏神祀ってねって感じやったけど中央集権体制を確立させたい天武天皇が統一して天照大神を信仰しろってなった まあ常識的に考えると九州だけどな
近畿が日本の中心になるのはもっと後の時代やろ 邪馬台国が連合国家なのは倭人伝にも書いてあるんだっけ なんで卑とか邪とか襲とか倭とか悪い意味の漢字使うの >>152
後に天皇と呼ばれる崇神や垂仁が、投馬の彌彌那利や彌彌、奴国の兕馬觚や卑奴母離(ヒナモリ。~モリなので、守る人。)と同じ「官」扱いされている事から分かるでしょう。
実際の所(もちろん戸数約7万の邪馬臺国が最強ではあろうが)女王国は大王がいないという体裁とってたのだとしか考えられない
つまり同盟だ。 >>172
邪馬台国を中心とした連合国家で邪馬台国は構成国の一つちゃうか?
国って漢字がめちゃくちゃ広い意味で使われてるからややこしいよな >>162
九州に居た卑弥呼勢力と奈良に居たのちのヤマト政権に繋がる勢力の2つがあったで何か問題あるんやろか
最初から日本全国を統治してないとあかんのか? >>173
そら見下してるからよ
異民族は大体酷い字当てられる 纏向から出土する遺物に九州のものや中国のものがほぼないことを見れば
西側の国々と交流がなかったのは明白な事実 >>176
そうやとしてもぶっちゃけどっちが天皇家の祖かわからんからちゃうか? >>176
九州には奴国(戸数2万)
中国地方は投馬国(戸数5万)
畿内には邪馬臺国(戸数7万)
それらを併せた呼称が女王国。つまり同盟みたいなもの >>171
というか九州から畿内を制圧したと見るのが正しくね鉄器の有無がデカいし
あながち神武東征は間違いじゃないのかも なんで3世紀に統一王朝があったと思ってるのお前ら
女王国って同盟の事に決まってるやろ >>186
それはそうだと思う
神話も元になった話はあるはず >>188
そりゃ無いよでも女王国は肥前肥後辺りの連合国家だと思う なんでわーくにはこんなもんの記録すらろくに残ってないんや?
どうなっとんねん >>191
記紀の前の歴史書が残ってればね...
大化の改新で燃やしちゃった😜 >>181
だから新唐書の編纂は北宋時代やから記述に信憑性が薄いんや >>192
平原遺跡ってとこから卑弥呼のものと見られる鏡とか管玉とかが出土してる >>193
統一された宗教も歴史書も無しで原始的とは言えこの規模の国家がまとまるもんなんやろか もし卑弥呼の子孫が現れて「わらわが真の王じゃ」って言ってきたらどうなるん? すまんけどワイみたいな頭小学生にも理解できるように簡単に説明してくれんか興味深い内容なのにわかりにくすぎるわ ・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)
・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)
・文部科学省検定済教科書
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年) >>194
記紀とかいうファンタジーよりはマシやろ…
神武が九州におったとしてなにがあかんねん >>186
制圧被制圧の関係ではない
邪馬臺が九州北部を完全制圧したのも磐井の乱から 九州説って今学会で唱えてるやつおるん
昔は京大が九州説だったらしいが 本能寺黒幕説唱える奴とかに見られるように歴史に於いて「~と考えるのが自然」っていう奴はアウト >>190
そんなショボい弱小国に、親魏大月氏(クシャーナ)王にならぶ親魏倭王などあげないよ
いくらなんでも戸数盛りすぎですぐ嘘だとバレるし >>196
白村江の戦いで大敗して以降大陸からかなり制度や技術を輸入したからその後であればできると思う 渡来人が九州では無くて近畿四国にいた理由はなんなん? >>200
だって例えるなら吾妻鏡で中国三国志の新説が書いてあるようなもんだぞ
それを鵜呑みにするのか?
歴史学的に同時代史料に近いものを参考にするのが基本やし
だからみんな記紀より魏志倭人伝を史料にしてるんや >>196
いや一つの国にはまとまってない
邪馬臺国も投馬国も奴国もそれぞれ王がいる
それらの同盟を女王国と呼んだというのが実態に近い >>204
紫旗?だっけの事ならあれ遠方だから貰えたんだろ
>>208
編纂って事は一次資料が他にあったんでしょ? >>207
古代は日本海貿易が盛んだったからや
敦賀なんて地名自体が渡来人に由来するやろ
他にも出雲は高句麗の土器が発掘されてるし出雲国風土記の国引き神話では朝鮮から土地を引っ張ってくる描写がある
素戔鳴尊も新羅のソシモリから日本に来てる >>211
引用元が分からん以上信憑性があるとはいえんだろ >>212
で、なんで近い九州に住まずに近畿に向かったん? ちなみに素戔鳴尊は製鉄氏族の事だと思う
製鉄が盛んだった辰韓(新羅のソシモリ)から来て、草薙の剣獲得したりしてるし鉄との関わりが深い
もしかしたら日本列島でも小規模な製鉄が行われていたかもしれない(播磨あたりとかなら可能性ある)。
だとすれば鉱業は鉱毒垂れ流すし木を伐り倒しまくって自然破壊土砂災害招く。
なので製鉄氏族を象徴する素戔鳴尊が獰猛で大暴れし田畑を破壊する荒ぶる神として描かれるのもまあ当然だったでしょう 韓神新羅神社とかいうど直球な名前の神社あるけど、そこも祭神はスサノオだね
また出雲市ある韓竈神社もそう
神社の説明看板には
「社名のカラカマは、朝鮮から渡来した“釜”を差すとされている。
即ちこれは、祭神の素戔鳴尊が御子神と共に新羅に渡られ、我が国に“植林法”を伝えられると共に“鉄器文化”を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。」
と記載されているよ >>212
都怒我阿羅斯等は敦賀って地名ありきの説話ちゃうかな
まあそういう話が作られるくらい渡来人来てたって言うことなんやけどどっちみち >>215
逆になんで九州に渡来人来てないと思ったんや?優れた製鉄鍛冶技術を要する長刀が一番最初に普及したのも、日本で一番最初に計画都市[那珂遺跡=奴国]出来たのも九州やぞ
2世紀後半~3世紀には、今まで来てた九州のみならず日本各地に渡来人が来るようになったってことや むしろ次の空白の4世紀なんだよな。
この時代に、それまで日本に全くなかった大陸・半島様式の物事が大量に日本に輸入され定着していく。
完全に日本のタブーだよこの時代 質問に単刀直入に答えずに
余計な事をごちゃごちゃと足したがる奴ってバカの嘘つきなんだよ >>215
これ>>45が那珂遺跡
邪馬臺国が纏向造るよりも百年前から計画都市造ってた
多分文字書ける人もいた >>222
そうだなあ
倭人が全然開拓してない未踏の地が畿内にはたくさんあったから渡来人が特に殺到したとかかな。例えば京都とか秦氏が開拓したし
あと畿内は百済移民を大量に受け入れたりもしてるよね
それと在日コリアンも多く来た >>223
日本に無かったと言うが、九州には前から大陸半島様式のものが沢山あったんちゃう?
4世紀以降に九州が邪馬臺に負けたってことやろ
邪馬臺が奴国通さず直接半島や大陸から瀬戸内海通じて大量に物輸送しまくれる様になったんや
違うか? 百襲姫が箸で大事なとこ突いて死んじゃうのはどういう意味? >>208
そんなトンデモ扱いして無視するほどでもないやろ
記紀に囚われてるが故に邪馬台国畿内説が蔓延ってるわけで 魏志倭人伝に、卑弥呼が死んだあとにまた戦争が起きたと書いてあるやん
日本書紀でも百襲姫が死んだ後の記事に、崇神天皇が『畿内はもう平定した。次は外だ!四道将軍よ出発せよ!』と戦争始める記事が来るんだよな
しかも次の斎王は崇神の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)
これ卑弥呼の後に女王になった臺与(トヨ)と対応するよね 出雲って負けた割には神話内で取り扱われすぎだしクソでかい社殿も建てられたしで実は普通にヤマト政権側だったと思っとるわ >>230
同時代史料の優先は歴史学の基本中の基本なんだが
あともちろん記紀も同時代史料ではないから考古学的発見と比定して扱われてるわけで >>229
大物主って他の女性のホトも突いてるんですよ(勢夜陀多良比売)
ただ当時の日本人ってまだ箸使ってなかったんでその箸云々の逸話は後付けだと思います 日本は邪馬台国のことも国頼みなのに奴らは邪馬台国の何百年前に史記が書かれてるってヤバ杉内 >>233
でも地元で伝承を記録したはずの『出雲国風土記』にはヤマタノオロチ伝説なんて書いてないですし、出雲大社(杵築大社)が創建された由来も全然違いますよ
国譲りだって経緯も結果も違うしな >>237
出雲風土記に大社創建の由来なんてあったっけ
なんにせよ敗戦国にわざわざでかいもの建てる必要なくない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています