関ヶ原の戦いで小早川秀秋が裏切らなかったら西軍が勝ってたって本当なん?
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徳川家康は処刑されて江戸幕府も存在しなかったらしいけど 家康と三成って実は同タイプなんじゃね?
もし今川家が天下を取った場合三成のポジションに家康がいたんじゃね? >>100
三国維持できたかね
結局は関東に飛ばされてそう 島津がまともな数の兵を出せて三成がある程度意見を聞いてたらまともな勝負になってた? >>89
関東転封から実質初戦の徳川軍がどの程度戦えるのかは疑問や 毛利軍が動かなかったからだぞ
家康が西上してから京極に小早川も続々寝返り始めた 九鬼の水軍の規模デカくして湾岸襲わせて補給線断ったりゲリラ的に後ろ襲わせればよかった >>102
三成は二十万石しかない
家康に二百五十万石与えてたのが敗因で粛清が足りなかった >>88
期待されてた長男が死んだからお鉢が回ってきただけで当主としての教育とかほとんどされてないやろうからしゃーない >>106
なお西軍は大垣のすぐ近くまで来た時点でやっと家康が美濃来たこと知った模様 >>20
実は家康って大阪で死んでた説あるでマジで 乱世再突入でどっちにしても豊臣政権終わりやね
まぁあの時点ですでに8割がた家康に乗っ取られてたから三成がなにもしてなくても1610年までには江戸幕府成立してたが >>4
吉川は毛利の家臣で豊臣からは陪臣
小早川は隆景の代から豊臣の直参なんだわ >>101
草
裏切りグッズ販売は流石にひどない? >>107
信長生きてたら側室も取れずに史実より早く豊臣家滅んでそう >>34
むしろ、明治以後なら毛利を総大将に徳川に抗ったと主張したがるんちゃうんけ 西軍が勝ってたらあと100年ぐらい戦国時代続いたんちゃう 小早川はとんでもない波瀾万丈な人生を送ってきて歴史に名も残したのに死んだのは20歳という恐ろしさ >>70
兄弟も死んでるしどっちみち世代交代ちゃう >>123
秀吉の後継候補だからアル中でも注意されなかった >>125
1人だけ藤堂と打ち合わせ済みやったからね
他の3バカは西軍の負け確定してから追従しただけやから当然処罰対象 >>84
そもそも上杉征伐の後詰で姫路にいたらいきなり大坂で石田三成が決起して西軍に囲まれたから仕方なく西軍についただけやしな >>111
姫若子「大好きな長男が死んでしまった…せや!四男と長男の娘を配合して長男を再錬成するンゴ」
こいつもまあまあヤベーよな >>121
研究は一次史料中心に進められるからすぐには進まない
人質集めたり内府違いの条々出した秀頼側近である三奉行が
積極的だったのがわかってる >>129
三成に「あいつなんか怪しいぞ」って警戒されとったみたいやしね 関ヶ原の戦いってこの規模の割にバチバチやり合うの短すぎやないか
近代ならともかくあの当時でもなんか異質やないの >>127
宇喜多秀家と小早川秀秋なぜ差がついた慢心環境の違い >>13
史料上では9月17日に吉川広家が自ら認めた書状に吉川・福原二人が長束や安国寺らに相談せずに合戦の前日に本多・井伊と和睦の起請文を交わしたと言ってる
ちなみに実際にその9月14日の起請文も現存してる
9月19日に毛利輝元が福原広俊に宛てた書状では吉川・福原両人なお陰で毛利のお家が続いたと感謝を表しているので上記吉川の発言は恐らく間違いないやろ
毛利不戦の方針は輝元も知ってたと思うが実際の交渉に関する細かい経緯までは輝元も知らなかったってところやろ
吉川広家も本来なら一々輝元の了承を得ながら進めるべきところ時間がなかったので吉川と福原広で交渉を進めたと言ってるし >>133
大坂方面に逃走中の西軍を東軍が追撃してちょうど関ヶ原の辺りで追いついただけって説もあるし
少なくとも両軍万全の態勢整えてから槍合わせが始まったような戦いではない 蜂須賀「息子は徳川に預けてるしワイは領地返上して頭丸めて高野山に上がるわ!」
こいつの思い切りの良さなんなんや >>130
長男死んでからマジで病んでおかしくなってたっぽいからなぁ… >>130
真田信之も従兄弟と結婚した理由が本来跡継いでた昌幸のお兄ちゃんの娘との配合と言われてるしあるあるちゃうんかなあ 一日で決着はつかなかっただけで勝敗はほぼ東軍やったやろ >>133
誰が豊臣政権のリーダーかを決める選挙的要素が入ってるからな
西軍は自分たちが秀頼を擁立したら家康は支持を失うと考えてたけど
岐阜城の陥落で見込み違いが明らかになって終戦ムードに でもワイはカトキヨ嫌いだから
ついでに福島も嫌いだから
分かるメンスよね? 昔「大谷刑部は小早川の裏切りを察していたから止めるためにあの位置にいた」
最近の研究「大谷は小早川の裏切りを察していなかったからあの位置にいた。もし察知していたらあの位置は自殺行為」 >>137
ヒデが出世する前から立場ある人だしそういうもんやろ だいたいアレ秀吉の種ちゃうやろ
当時はどうでもよかったんかね >>4
吉川が蓋して毛利が動けないからじゃなかったか じゃあ西軍の勝ち筋はゼロ?
西軍決起あたりあたりをスタートとして >>149
本人は自分の子供やと盲信してたししゃーない >>146
大谷が自身の書状で言ってるのは眼病や
文禄の役の頃から患っててそれがずっと治らず関ヶ原まで続いてる 大谷吉継って裏切り者なのになんで忠義厚い男の代表格なってるねん >>152
前田利長が東軍についたのがきつい
家康の仕掛けた無断縁組事件で徳川派と反徳川派が一触即発になってたから
この時に徳川討伐をするべきだった >>156
不利はしゃーないとして
この段階になって博打含みであってもええから逆転手何かないか? >>127
朝日殿の孫やからな大学の同級生にに足守木下家の子孫がおったわ >>156
立花宗茂の軍と合流できてたら何とかできたかもなあ 三成でようわからんのは戦意があって戦も上手い立花宗茂とかを
別戦場に配置していることだな
大谷の警戒行動を見ると小早川は信用するに足りないと思っていたはずなんだが >>152
もともと、徳川派と前田派の2大政党が気に入らないのが発端だから
前田派すら取り込めない時点で西軍構想に無理がある >>152
上杉が損害度外視で大暴れして家康の足引っ張ってくれれば
ワンチャンあるかもしれない程度 >>152
東軍の木曽川渡河を阻止すれば長期戦になったかも
そのためには伊勢制圧を急がないと
あと大津城が早く落ちてればその兵力と合流できて家康が決戦自重したかも
それらの要因も伏見城攻略に2週間もかかったのが遠因 前田利長は元々反家康だったのに豊臣方が前田家に支援しなかったから徳川派になったんやっけ 三成が真田に送った書状
内府違い出せばなんやかんや福島や池田はこっち側に来る
加賀の前田も越後の堀もこっち側や
上杉が南下して関東に攻め込む
とりあえず三河で一戦や
勝ったら信濃全部あげる
うーん この 西軍は秀頼巻き込めなかったのが敗因やろな
まあその時は未来なんて分かってないしタラレバになるが >>152
岐阜城の三法師が孤立してたから大垣城あたりからの援軍で時間を稼いでるうちに形成整えるくらいやろ岐阜が落ちて終わったんやし >>47
家康の抑えに置いた東海道のやつら全部東軍についてるのほんま草 上杉が陽動して家康をおびき出し
後方から決起して挟み撃ちにするってのも
家康にまとまった軍勢を率いらせている時点でなあ
せめて家康がその軍を掌握出来ないように内部に裏工作しとかんと 明治の頃になってからドイツ陸軍かなんかの将校に
こんな西軍負けようがない状況なのに負けられるってむしろ凄くね?とか
驚かれとったやろ 秀吉の子は産まれても早死にしてたから秀頼も早く死ね
豊臣家は秀次が継ぐんやで >>169
元々上杉征伐は堀秀治が起こしたようなもんなのに堀が三成につくとか絶対有り得ないんだよなあ >>168
利長が帰国した隙に家康が大坂城に入城して家康暗殺未遂事件も起こって
前田征伐の可能性があったが上杉と同盟組んでる噂が流れて
芳春院を人質として江戸に送ることで和解した、ので東軍についた つーかサルなんて呼ばれてた人の息子が恵体のイケメンだとあれ?ってならんかな
コイツ担ぐ意味ねーわって思ってもしゃーないでしょ >>152
岐阜城が落ちた時点で相当厳しい
伏見城が落ちた後西軍は伊勢方面に兵力を集中させてるけど美濃や三河方面にその兵力を集中させるべきやったな
これでも勝てるとは断言できないけど史実よりはまだマシやろう
濃尾方面の担当は三成がやってて実際真田宛の書状にも三河方面に打って出ると言ってるけど、安国寺や長束が担当する伊勢方面の攻略が優先されてそれが叶わなかった >>182
母親の淀君が恵体の浅井長政の娘だからまあ…… >>178
全軍がガチで戦ったらな
実際は裏切ってたり日和見ばかりでまともに軍として機能してなかったんや >>47
織田が秀吉側に付いた理由ってなんなんや?
政権簒奪されて恨みしかないはずやん >>186
西軍がすぐ近くにいて東軍にいたらすぐ標的にされてたのと秀信と三成が仲良かったのと秀信は逆に織田の後継者に信雄から戻してくれたことに秀吉に感謝してたから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています