そんなふうに全体的にはエンターテインメントとして大いに楽しめたのだが、結末部分があまりにまずかった。メッセージが直接的で説教くさいだけでなく、本編の物語との明らかな齟齬がある。
はっきり無責任かつ不誠実で、全てが台無しと思える領域まで到達していたのだ。結末を含むネタバレ全開となるが、その理由を記していこう。

 本作の敵役となる非理谷充(ひりやみつる)は、徹底的に“社会的弱者”として描かれる。
ティッシュ配りのバイト中にサラリーマンたちにバカにされ、推しのアイドルは結婚して裏切られたと思い込み、さらには暴行犯に間違われて警察に追われる身となり、そして超能力を手にして悪の道へと走ってしまう。

 問題となるのは、ひろしの最後の激励の言葉だ。

「誰かを幸せにすれば、自分も幸せになれるんだ。がんばれ!」

 言葉そのものは真っ当かもしれないが、非理谷は幼少期にネグレクトにあい、両親は離婚して、学校ではいじめられ、今は30歳になり非正規のバイトで食いつなでいる。そんな彼には、「がんばれ!」という精神論的な励ましではなく、公的な支援が必要だろう。

 劇中で非理谷はテレビで名前を全国で放送されて指名手配され、幼稚園の立てこもり事件を起こしてしまう。これから刑務所に入るというときに、今更「がんばれ!」という言葉をぶつけるは違和感しかなかった(しかも、当の非理谷は記憶を無くしている)。

 そもそも「クレヨンしんちゃん」という作品において、過剰に恐怖を覚える幼稚園の立てこもり事件を起こしたこと自体がやりすぎに思えた。
劇中で非理谷にそれをさせることなく、最終的に就職先を紹介するなどして、真っとうな解決法を示すことだってできたはずだ。

 さらには、その「がんばれ!」と言うのが、妻と子ども2人、庭付きの一戸建てを手にした、正社員で係長の野原ひろしなのだ。
1990年代ではまだ平凡なサラリーマンとして見られたかもしれないひろしは、現代社会では理想的な家族を超えて、“勝ち組”そのものにも見えるため、さらに欺瞞めいたものを感じてしまう。

 そもそも、非理谷は決してがんばっていなかったわけではない。少なくとも、推しのアイドルを応援するために日銭を稼ごうと努力をしていたのではないか。幼少期から不幸の連鎖が起きて、“社会的弱者”からいわゆる“無敵の人”になってしまった彼を生々しく
(しかもアイドルオタクであることも含めややステレオタイプ的に)描き、「日本の未来は暗い」と社会全体の問題にも言及しておきながら、結局は「がんばれ!」という個人の努力に帰結させ、それをまるで“良きこと”のように描く構図は、はっきり間違っている。

 なお、原作漫画の26巻に収録されている「しんのすけ・ひまわりのエスパー兄妹」が本作のストーリーの元となっているのだが、こちらは映画とは真逆の「彼には罪がない」ことを明言する終わり方になっていた。多少ご都合主義的ではあるものの、こちらの方がはるかに誠実だったと思う。


 さらに、非理谷は30歳、ひろしは35歳で年齢的にそれほど差がないにもかかわらず、ひろしが「君はまだ若い!」と年齢を理由に「がんばれる理由」までを口にするのも大いに違和感があった。
キャラクターの設定や“らしさ”も考えず、ただ作り手が自分の考えをキャラクターに代弁させてしまっているからこそ、こんなことになっているのだろう。


正論やん
何で原作を改変したんや?