江戸時代の百性、大阪から広島まで27分で米相場を伝えるシステムを構築していたwww
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旗振り通信(はたふりつうしん)は、江戸時代中期から明治期にかけての日本で、
米相場などの情報を伝えるために活用されていた、旗などを用いた通信システム(大型手旗信号の一種)である。
熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。
大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている[15]。
んやで 12キロ先の旗とかよう見えるな
どれくらいの大きさやったんやろ 世界に比べたらね
1819年の記録によれば、フランス国内を縦断する551kmのルート(パリ・ブレスト間)を通じ、8分間で情報伝達することを可能にしたという。 >>3
米の先物取引とかが行われてたんやで江戸時代
既にデイトレーダーがいたんや >>15
旗振りなのにアナログ値で送ってたとか凄いな 江戸時代の経済と為替システムって
知れば知るほど勉強になるよな >>15
ちなWW1の時期までは世界的にも旗振り通信が標準や >>24
フザケたことするとすぐ処刑する社会やからな
毎日の生活が命がけの時代やから社会システム自体相当な担保があると思うわ >>5
>旗の視認には望遠鏡や双眼鏡が用いられた[ 人間何人も配置してまで早く知りたい理由が分からんな
誰が金出してたんや >>35
デイトレもやが転売も出来る
人より米のが価値があるんや スレタイ分かりにくいな
これ江戸は関係ないから気をつけろよ 時計みたいのも当時はあったんかね
太陽の角度とかでやり取りしてたんやろうか >>35
いつの時代も富を独占したいヤツってのがおるんやろうね 最近これの映画やってたで
望遠鏡覗いたら小梅太夫がドアップになるシーンだけ覚えとるわ マジカル頭脳パワーのゲームは
ここから着想を得たんだろうね…… >>38
今なんか数msを短縮するためにサーバーを東証のすぐそばに置くくらいスピードは重要だぞ >>23
0か1を組み合わせてたんかな
1人で送るんやろか
サイン難しそう >>49
近江商人走るみたいなやつ
相場が飛脚で届くから旗信号で先回りしてデイトレすんねん >>15
こんなスレにきてわざわざ返り討ちに合ってるのはそういう趣味なんか? 旗はたぶん色が重要や
桁毎に持ち替える前提。
左右の組み合わせで何桁目の数字かを表現出来る 古代にも高地性集落というのがあって
敵襲があった場合に山伝いにのろしを上げて広域に伝達してた 昔はこういう仕事って熟練でさえあれば良かったからアスペ発達でも務まったんやろね
今はこういう仕事が機械化されてどんどん追いやられとるけど >>39
ほ~ん
てことは地域ごとに相場ちゃうやろうから広島が安かったら広島で買わせて、大阪に持ち帰って売るみたいなこともやってたんか >>67
シュレッダー係を復活させた会社は優しいよな >>31
電話も無線電信も日露戦争で使われてるけどな
意外なのが伝書鳩で、第二次世界大戦中でもイギリスが使ってたから、ドイツには鳩捕獲専用の鷹狩部隊がおった ってか百姓が米相場なんて気にしてたんか?
アイツら米収穫して年貢納める以外のことせんやろ 堂島米市場ってのがあったんやな
株の代わりみたいなもんか >>3
米経由で金にするから必須や、米のレートは東西の金銭レートでもある 盗見られてもいいように
相場に事前に決めてたルールで数字を足したりして見てもわからなくしてたらしい >>67
ここ20年の話やとコミュニケーションや!言うてカリキュラム弄ってたら何も生み出せずに地盤沈下したのは皮肉な話やな >>38
情報の取得スピードと質はそれだけで資産になる
高師直が情報収集のために作った集団が忍者って言われる連中 江戸時代、飢饉が頻発したが
国内での食料の総量は足りていた
つまり飢饉が発生している東北に九州で余った分を持っていけば助かった >>80
各藩の年貢は基本的に米現物やったけど
時代が降ると、諸藩も現金が必要になったんや
でも米の売買は幕府の方針で、大坂堂島に限定されてたんや 江戸時代の初期は銀の方が高かったらしいな
ほんで田沼のとき金銀のレートを揃えるために2枚で1分、8枚で1両になる南鐐二朱銀を作ったんやっけか >>86
仕事で必要なコミュニケーションと飲みの席でワイワイやるコミュニケーションを同一視したリクルートが悪い 堂島米市場に注文を出す人々が各地に登場し、江戸時代の後期には、堂島で活躍した米仲買(現代の証券会社に近い存在)が出す注文のうち、8割から9割はこうした顧客からの注文で占められるまでになっていきました。
現代の株式市場では、市場で売買を行う権利を保有する証券会社が顧客からの注文を取り次ぎ、手数料を受け取っていますが、堂島の米仲買も、顧客からの注文を取り次ぐことで、手数料収入を得ていたのです。
米仲買が取り次いだ注文の多くが、「帳合米(ちょうあいまい)商い」、現代でいうところのデリバティブ(金融派生商品)取引でした。
独占市場やからそりゃ皆必死やな ロープいっぱい張って揺らすとか出来んかったんやろか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています