宗教板避難所3
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エフェソスはキリスト教神学では重要文章なので キリスト教神学では、なんとしでもパウロス大先生の文章と読みたい という人たちが神学者の中で半数ほどおられ その人たちはパウロス大先生の文章と主張されています。 でも直訳すると、素直に読むとパウロス大先生の文章とは違います そこでパウロス大先生の諸文章に似せるための改竄がいろいろとなされています >>99-101 原文ではパウロと異なる表現が使われているのに、翻訳ではパウロに合わせるために パウロ的な表現で訳されてしまっている、ということですね 「地下の低い底にも降りてこられた」という箇所も最初は黄泉下りのことかと思いましたが 文脈的に唐突なので、単に天に対比してこの世の低さを述べたものなのだろうと思いました それがさらに異邦人に結び付けられているのかなあ、と さて5章ですが、ここはキリストを頭、教会をその体、という比喩をそのまま夫と妻の関係に適用して 妻は夫に従い、夫は妻を愛するように、と述べた箇所ですね 31節の創世記の箇所を32節で無理やりキリストと教会に当てはめているところなど ちょっと無理があるような気がします 現代人から見ると、聖書に現れるこのパターンは明らかな男性中心主義ですが パウロも似たようなものだったので、まあそんなものなのかなという感じです ここでの質問は14節の「こう書いてある」と言われている文句の元ネタはどこなんだろうということです 「キリスト」と出てくるので、ヘブライ語聖書ではないと思いますが、元ネタはわかっているんでしょうか? >>102 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエフェソ6章です。 14節の「こう書いてある」とあるので、何かの引用ですが、引用元の文章は見つかってません。 推測説としては 1.グノーシス主義的な霊の目覚めを語ったもの 2.死海文章に1つ2つ同じ単語が見つかっているので死海文章がネタ元とする説 3.当時のキリスト教会で用いられていた讃美歌の類 などと推定されていますが、証拠はないです 「死人のなかから、立ち上がりなさい」 ユダヤキリスト教文章で、死人の中から立ち上がるといえば「復活」のことだが 原文アニステーミを口語訳は他の個所では「復活」と訳しているが、ここでは 時期通りになぜか直訳している。 さてパウロス大生の場合、「復活」をいう場合は違う単語エゲイロマイを使う上に 必ず受け身で「甦らされる」と表現しているので、 いわゆるエフェソの著者がパウロス大先生と違うとわかる部分であす >>103 またしても寝てしまいましたw 引用元は分かっていないのですね 「死人のなかから立ち上がる」「キリスト」という文言から推察するに 当時のキリスト教界隈で使用されていた文章であるような気がしますが 死海文書などの改変引用かもしれないので、分かりませんね 訳文を見ているだけではパウロの文かどうか、なかなか判別はつきにくいですが 原文を見れば、パウロの文章と使用語彙が異なるので、それがパウロの文章ではないという 有力な証拠とされているわけですね さて早くも最終章ですね エフェソは短いのですぐ終わっちゃいますね 前半はそれぞれ子、父、僕、主人としての努めを語っていますが なぜか母がありませんw というか、母は父に従うのが前提だったので、教育においては重きを置かれていなかったのでしょうね 10節以下はよくクリスチャンが引用する有名な箇所ですね しばしば「霊の戦い」として引用されるところですね 気になったのは19節以下です この箇所を見ると、この筆者が具体的な伝道の使命を帯びた個人であるように書かれています 「兄弟テキコ」という固有名詞も出てきます この箇所である程度筆者を特定することはできないのでしょうか? >>104 atheistくん、おはようございます。お疲れさまです。 土曜と日曜の聖句はⅡ列王記22:1-23:25 テキュコスは使徒20;4で、第三回伝道旅行の最後にエルサレムに大金を持っていた際の 護送団一人として、アジア人テキュコスと名を挙げられている人ですね それをコロサイ4:7でパウロス大先生の文書を装うために名を借用し いわゆるエフェソは、コロサイの引用を膨らませたという次第ですね テキュコスは使徒でアジア人とされてますので、おそらくエフェソス人です。 エフェソスにエフェソス人を遣わすのもおかしな話ですが、いわゆるエフェソの手紙の 著者はエフェソに向けて書いてません またこのテキュコスは疑似パウロ書簡では大人気で コロサイ、エフェソに続いて、第二テモテ4:12, テトス3:12にも登場します >>105 ということは使徒で出てきたテキコを援用して擬似パウロ書簡では 真正パウロ書簡を装った、ということですね そんなに登場してるのにまったく記憶にありませんw さて休日分は俗に言うヨシア王の申命記改革の箇所ですね ユダヤ教の観点からは模範的な王ということになるでしょうが ユダの各地で盛んに崇拝されていた異教(非ヤハウェ崇拝)を 弾圧した王ということになると思います 古代では宗教的な統一が政治的な統一と密接に結びついているので これはヨシア王の政治的手腕を示すものとは言えるかも知れません 神殿で律法の書を見つけたことになってますが、あまりにも都合の良いエピソードなので おそらくは創作だと思います それにしても23章で描かれるユダ王国内の異教崇拝はすごいことになってますね なにしろ神殿内にまで異教の祭壇やら偶像やらがあったということですから これが本当であれば、ヤハウェ崇拝どころか、異教の見本市のようになっていたことになりそうですw 実際は異教崇拝もその反動のヨシア王の改革も誇張されているのかも知れませんが >>106 atheistくん、おはようございます。明日月曜日の聖句はエレミヤ1-2章です。 ハーパー注解は、 ハーパー注解によれば 「torahの書」はその本質において申命記12-26章と28章のことと推定されていて 申命記の成立年代をヨシア王の統治期間であるとする文学史学者がいるそうです。 つまり、この頃に「torahの書」を含む律法五書が成立したという説もあるみたいですね >>108 ということはヨシア王治世に実際に申命記が成立したことを 列王記ではちょっとした劇的なエピソードに改変して記した可能性があるってことなんでしょうね 今度はエレミヤ記ですか 今回も2章ずつ… なんとか頑張りますw >>109 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ1-2章です 分量が多く大変です。お疲れの時は睡眠を優先されてください。 年末はお忙しいでしょうから無理はされないでください >>110 お気遣いありがとうございます イザヤを乗り切ってすぐだったので、不意をつかれましたが エレミヤはイザヤよりは明確な記述になっていたような気がするので ここも頑張って読んでいきたいと思います エレミヤはバビロン捕囚前から捕囚後までを生きた預言者とされてますが エレミヤ書前半はたしか捕囚前の話で、ユダの民たちがいかにヤハウェに背いたかが語られて いたように思います さてまずは1章ですが、預言者エレミヤの簡単な紹介に続いて エレミヤに臨んだ神の言葉が語られます ちょっと意外だったのは10節で「あなたを万民の上、万国の上に立て」と語られているところです つまりエレミヤは単にユダに対する預言者としてだけでなく、万国(中東の近隣諸国)に対する 預言者としても立てられていた、ということになりますね 11節の「あめんどう」がまず分かりませんが、そのあめんどうの枝が12節でなんでそのとおりと言われているのか 分かりません また14節では災いが「北」から起こると言われてますがバビロンは地理的には東といったほうがいいのに なぜ「北」なんでしょうか? 2章は主を忘れ、主を裏切ったイスラエルの民を、主が激しく責める箇所ですが なんか男に逃げられた女の嘆きみたいで、ちょっと微笑ましいです まじめに言えば、このエレミヤ書からも当時のイスラエル(ユダ王国)に如何に異教崇拝が 蔓延っていたかが分かります ともかく22節に書いてあるように、どんなに洗い落としても「悪の汚れ」は消えないくらいに 罪が染み付いてしまったユダ王国にこれから鉄槌が下される、ということですね ただエレミヤでも「罪のない貧しい人の血」(34節)と、社会的弱者に目が向けられているところは 重要だと思います >>111 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ3-4章です。 口語訳は「万国」と訳していますが、普通は「諸国と諸王国」と訳される個所です。 和名「あめんどう」は、ポルトガル語の「amendoa(アメンドア)」のことですが、 他訳(新共同訳。新改訳ほか)ではアーモンドとなっています。ヘブライ語では、シャーケードです。 見張るのヘブライ語がショーケードなので訳すると意味不明ですが語呂合わせです。(語根は同じ) 明治訳では「巴旦杏(はたんきょう)」でしたので徐々にわかりやすくなっています フランシスコ会註は外敵の侵略は通常北から始まったとしてます ハーパーは北からの侵略について4-6章とともにバビロニアを挙げてますね なぜでしょうか。 エレミヤでも他の預言者と同じで神への背信を婚姻関係の破棄という形で責めているようですね たぶん、捕囚されたという現実が、なぜという疑問となり、神に背いたら罰せられたと解釈した ということなので、鉄槌は決定事項ですね それを予言の形で語るという形式のような気がします >>112 アーモンドのことだったんですね で、それが語呂合わせになっている、と アッシリアなどもユダにとっては北になるので、敵は北からという印象が強いのかも知れませんね 聖書では、神と民を婚姻という形式で隠喩的に語ることが多い印象がありますね 最初はずいぶん違和感がありましたが、お互いの忠実さとか裏切りなど、神との契約関係は 婚姻関係と類似する関係があるので、こういう表現になるのでしょうね さてまずは3章ですが、終始民が神に対して背信をなしたことが語られていますね ただ特徴的なのは、12節や14節、22節などで「帰れ」と再三言われているところだと思います 単に主を裏切ったから鉄槌を下す、でおしまいではなく、神はきちんとイスラエルの民に ヤハウェに立ち戻ることを呼びかけ、神は民を完全には見捨てないことを説いていますね 4章は、冒頭を除いて、ほぼバビロニアによるエルサレム侵攻を予言した箇所だと思います ここでもたしかに「北」から、と語られてますね どう考えてもバビロニアなのに、北ですね 冒頭は悔い改めて主のもとに帰るよう訴えかけています 前章にもちらっと語られていましたが、万国(諸国)の民も祝福を受けるという表現で ヤハウェ信仰がイスラエルの民のみの祝福にとどまらないことを暗示しています ここでの質問は今更なんですが、2節の「主は生きておられる」という文言です よく出てくる印象がありますが、大元の表現はどこにあるのでしょうか? それから「生きておられる」という表現がヤハウェへの忠実を表すのは 主は偶像の神のようにただの木や石で作られた「なにもしない」偽の神ではなく 生きている本当の神という認識を表しているからでしょうか? >>113 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ5-5章です。 2節の「主は生きておられる」 有名なのはBC850年ころの預言者エリアですが、 BC1000年ころのダビデ王も 1列王記で 1:29すると王は誓って言った、「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。 と言ってますね その前のサウル王も言ってます サムエル上19:6 サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。ダビデが殺されることはない。」 土師記ではBC1100年ころのギデオンも言ってますね 8:19ギデオンは言った。「それは私の兄弟、私の母の息子たちだ。主は生きておられる。 もしあなたがたが彼らを生かしておいたならば、私はあなたがたを殺さずにおいたのに。 1100年ころといえばルツ記のボアズもですね 3:13今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、 よろしい、その人にさせなさい。しかし主は生きておられます。 その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、 わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。朝までここにおやすみなさい >>114 けっこういろんなところに出てきますね ヤハウェを持ち出すときの、一種の決まり文句のようになってる感じですね さてまずは5章です いきなり2節でまた出てきちゃってますねw やはりヤハウェ信仰を告白する 一種の決まり文句のような感じです それはさておき、この章はイスラエルの民が如何に主であるヤハウェを裏切っているかを 強調しています 1節では「公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか」と、もう徹底的に民を こき下ろしてますね ここでの質問は15節の新バビロニアに関する記述です エレミヤ(神)は新バビロニアを「長く続く国、古い国」と言ってますが 実際の新バビロニアは少なくとも王国としてはアッシリアの支配を脱して前7世紀前半に建てられてます から、むしろエルサレムに攻め入る数十年前に興った新興国です これはエレミヤの記述が歴史的に不正確だったのか、それともエレミヤはメソポタミアに 栄えた古バビロニアなども含めて大雑把にひとつの国のように言っていたのか そのあたりはどうなんでしょうか? 6章もそのまま前章に続いて、いかにイスラエルの民が主を裏切って主のことばに耳を傾けず にいるかを滔々と語り、それゆえにバビロニアを差し向けてエルサレムに鉄槌を下すと宣言してますね ここでもバビロニアは「北の国」と言われています 詳しい侵攻の有様は知りませんが、まあ来た方面から攻め入った、ってことなんでしょうかね 何度も何度も北から、と繰り返すので、よほどその印象が強かったんじゃないかと思えます >>115 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ7-8章です。 侵略者は 25:9見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、 人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。 と、明らかにされるまでは、わざとぼやかされています。 バビロンと認識しているので、新バビロニアというような区別はないと思われます。 バビロン自体はBC3000年からある古い都市ですし。古バビロニアはBC19,18Cと言われてます。 エレミヤの属するベニヤミン族の領土はエルサレムの北にあったそうです エルサレムに向けて進軍する際に北から攻撃されて行ったということなのかもですね >>116 新バビロニアという名称も本人たちの自称ではなく後代の人たちが彼らを指して呼んだ名称でしょうからね おおよそバビロンを拠点とするする王国、という認識だったのでしょうね さてまずは7章ですが、かつてペリシテ人に略奪された宗教的中心地のシロを引き合いに出して エルサレムも同様に神から離反した罰として打ち捨てられる、と予言している箇所ですね これまでも何度か神に従うことが具体的にどのようなことなのかは書かれてきましたが 6節で書かれていることはそのまとめのようなものになっています でもここではみなしごややもめと並んで「寄留の他国人」ということばが付け加えられています 少なくともこの時代、あるいはそれより前までは、エズラやネヘミヤのときとは違って エルサレムに寄留する他国人に対しても寛大であることが正しいこととされていたようですね 8章も同様に神から離反し悔い改めることのない民と、そのような民に対する罰について書かれていますが 後半は特にそのような事態に対する嘆きが目立ってきます この章でちょっとだけ気になったのは、17節の「魔法をもってならすことのできない」という記述です ユダヤ教では魔法はあまり話題にのぼることがことがないので やや奇異な印象があるのですが、これは異教の業ではならすことができない、ということを 言わんとしているのでしょうか? >>117 atheistくん、おはようございます 本日の聖句はエレミヤ9-10章です。 出エジプト記でも 23:9あなたは寄留の他国人をしえたげてはならない。 あなたがたはエジプトの国で寄留の他国人であったので、 寄留の他国人の心を知っているからである。 「寄留の他国人」を大切にしなさいと述べられます。 ユダヤ人自身がエジプトで寄留する他国人だったからです。 異教の業ではならすことができないということです。 8:17見よ、魔法をもってならすことのできない、 へびや、まむしをあなたがたのうちにつかわす。 それはあなたがたをかむ」と主は言われる。 ならす、というのがわかりにくですが 神は罰を与えるために、蛇を派遣するのですが おまえたちの異教の魔法で、その蛇を宥めておとなしくできないよと いう意味ですね 聖書協会共同訳ではわかりやすいです エレミヤ書/ 08章 17節 私はあなたがたの中に蛇やコブラを送る。/彼らに呪文は通用しない。 /彼らはあなたがたにかみつく――主の仰せ。 >>118 出エジプト記にもあったんですね というか、おそらく出エジプト記がおおもとで、その経験ないしは教訓が ずっとユダヤ人の間で生きていた、ってことなんでしょうね 魔法とか魔術とかは異教の業ということですね ここはヤハウェの行為は異教の業ごときではどうともならないということを強調してるんでしょうね さてまずは9章ですが、ますます嘆きの色合いが濃い文章になってきているようです ちょっと分かりにくいのが冒頭で、1-2節の「わたし」はエレミヤのことだと思うのですが 3節の「わたし」はヤハウェのことで、民がわたし(ヤハウェ)を知らない、ということですよね? 目についたのは15節の「にがよもぎ」と25節の「心に割礼」です にがよもぎは黙示録で、心の割礼はパウロで出てきていたと思います エレミヤだけではないと思いますが、新約聖書はこういったヘブライ語聖書のことばを受けて 書かれているのでしょうね 10章は特に前半部分で偶像である異教の「死んだ」神々と本物の「生きている」神ヤハウェが 対置され、異教の神々を離れ、主に従うことが求められています 23節以降はエレミヤの神に対する嘆願ですかね そうだとすると民のみならず、自分のことも懲らして正しい道を歩ませるよう頼んでいることになります 主眼はあくまでも主を裏切った民への懲らしめにあると思いますが >>119 atheistくん、こんにちは。土曜と日曜の聖句はⅡ列王24-25章です 9章には「主の嘆き」というタイトルが入ってます。 1-11a 16-21節が、主の嘆きを哀歌の形式で書き 11b-15節は解説 22-23節は処罰の告知だそうです。 なので1-2節も3節もヤハウェですね。 心の割礼は申命記30:6が最初だと思います あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、 あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。 でロマ書2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず 霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。 パウロは「誇る者は主を誇れ」と言ってますので 9:24誇る者はこれを誇とせよ からでしょうから申命記よりエレミヤからかもですが 10章23節以下のタイトルは「エレミヤの祈り」です これは不思議な祈りですね 罰を与えて、イスラエルを滅ぼすのまでは仕方ないが なぜならイスラエルは神を裏切ったので。でも無にまではせず 公平に裁いた後は救ってくださいという祈りですね で、反省して神を崇めるエレミヤと違い 神を最後まで認めない国々は、怒りで滅ぼせ、と。 これまたひどい話ですが二元論的に展開になってますね >>120 1-2説もエレミヤではなく神の嘆きなんですね あまりにも人間的な嘆き方なので神の言葉とは思えませんでした 嫉妬したり怒ったり、という描写はあっても、神がこういう嘆き方をしている箇所って 他にはあるんでしょうか? 10章23節以下はたしかにエレミヤの場合は「怒らずに」と前置きしながら「懲らしめ」を求めているのに 神を信じない国や人々に対しては「怒り」を注げ、ってなってますね さて休日分は列王記の最終章ですね この箇所はまさに今エレミヤの主題となっているバビロン捕囚の場面です この場面で最も印象に残っているのはゼデキヤが目の前で自分の子どもたちを殺され 目をえぐられた場面です これはゼデキヤの目に最後に映るものを最も残酷なものとする仕打ちですが よくもまあこんなことを考えましたね 古代ではこういったことはざらにあったのでしょう エホヤキンが最後に獄から出され、他の王たちよりも高い位にされて 一生王の前で食事をすることになったのは、なんででしょうか? この話もなぜか記憶に残っています >>121 atheistくん、おはようございます。明日月曜日の聖句はエレミヤ11-12章です。 神の嘆きの典型は「ああー」ですね ヘブライ語では「ホーイ」という感嘆詞です。 同じ感嘆詞の「オーイ」は、「あーあ」のほかに「わざわいだ」と訳されたりもします。 ホーイ51回 オーイ24回もヘブライ語聖書に出てきますので神は嘆きまくりですね エホヤキンは、囚われの他の諸国の王とともに、恩赦で開放されるのですが 地位が特別に高くなります。理由は聖書には記載されてませんが エレミヤの勧告「バビロンの手に落ちよ」どおり、即位後バビロンに何も歯向かわず 降伏した点がバビロンの代替わり新王に優遇された理由かもですね 聖書的にはエレミヤの預言を守ったからですね。抵抗力が残ってなかっただけですが。 そしてエホヤキンの孫のゼルバベルが、捕囚から帰還の際の総督となります。 聖書的には神に祈り続けた三代があって、エルサレム帰還がかなったと解釈されるようです >>122 わたしにはあまり感嘆詞が使われている印象がなかったのですが けっこう使われているんですね 「わざわいだ」などと訳されてしまっては感嘆詞ではなくなってしまうので そういう印象がなかったのかも知れません そのまま「ああ」などのように訳されていれば、もっと人間味のある神様という印象になってたかもですね エレミヤの預言を守った、ということが聖書的にはエホヤキンが優遇された理由で、 孫が帰還の際の総督になったことを含め、聖書はエホヤキンをそのように描きたかった ということなのかもしれませんね >>123 atheistくん、おはようございます。 本日の聖句はエレミヤ11-12章です。 >>124 11章は出エジプト時の契約を持ち出して、ユダの民がこれに従わず バアル神を崇めていることで、神は完全にユダを見切って、災いを下す、と エレミヤに告げている章ですね 21節では特に「アナトテの人々」が出てきますが、19節でエレミヤに危害を加えようとしている 人々のことだと思います アナトテというのはなにか意味のあることばなのでしょうか、それとも単なる地名なのでしょうか? ここで特別に取り上げられているということは、地名だとしてもエレミヤに深く関連した地名っぽいです 12章は冒頭でエレミヤが、神が植えられた悪人、不信実な者が栄えるのはなぜか、と神に問いかけますが それに対する神の直接の答えはないようです 3節では羊の屠りに喩えて、そういった悪人を殺す日にそなえて、残しておいてくれと懇願までしていますね 神の答えと思しき箇所は5節になりますが、ここの意味がよく分かりません 要はエレミヤが弱い人間なら強い者に対しては、また危険な地ではどうにもできんだろ、と 言っているようです これは悪人に対しては、一介の人間であるエレミヤにはどうにも対処できるものではない、 ということでしょうか? いずれにしてもエレミヤの問いに対する回答にはなっていないように思えます 14節以下もちょっと不思議な箇所です ここはイスラエルの地に攻め入る異国人(悪い隣り人)の中から選んで ユダの家を継がせる、と言っているように読めます 16節もユダの民ではなく異国人を指しているようです つまり異国人も「主は生きておられる」と言って誓うなら その異国人も自分の民とする、と言っているようです ここは単に17節の「耳を貸さない民(バビロニアなど)」は滅ぼす、という結論の前フリなんですかね? >>125 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ13-14章です 「アナトテの人々」 11:18-12:6はエレミヤ五つの告白の最初のもので 預言をするようになって、迫害されるようになったみたいです。 で、フランシスコ会訳注の推測によると、エレミヤの故郷にいるエレミヤの一族 である祭司の人々のことだろうとのことです。 福音派によりば、エレミヤはヨシア王の中央集権化の改革に賛成したそうで 地方の祭司の利益に反したようです。具体的には地方の聖所廃止。エルサレム神殿へ一本化ですね 12:5節をリビングバイブルは以下のように意訳します 神様は私に、こう答えました。 もしおまえが、このアナトテの住民のような、ただの人間と競走して息を切らせるとしたら、 どうして、馬や王、その家来、悪い祭司を相手に競争できるだろうか。 平地でつまずき、倒れるとしたら、ヨルダンの密林では、どうなるのか 故郷の人々に負けてどーするねん。お前は今からもっと強敵と闘うんだぞ と言われている箇所みたいですね 14節以下は驚くべきことに 諸国民であるカルデア人、アラム人、モアブ人、アンモン人らを神は憐れむ。 彼らが悔い改めて「生ける主にかけて」と祈るならば、ユダヤ人に接ぎ木して救う。 逆らったままならば滅ぼすということですね 接ぎ木思想の萌芽がみられます >>126 アナトテはエレミヤの故郷の祭司職の人たちだろうってことですね 特にヨシアに与して地方の聖所廃止に賛成したとなれば恨まれるのも当然で エレミヤは祭司たちに対してもかなり辛辣な預言をしてますから なるほどという感じです 12章5節は、故郷の人たちに負けるくらいなら中央のもっと力のある人たちには 敵わないから気合い入れろっていうような叱咤激励ですね 14節以下は捕囚期前後にしては、かなり大胆な記述ですね もっともこの箇所が実際に捕囚期前後に書かれたのかは分かりませんが さてまずは13章ですが、ここは比喩を使って、ユダが滅ぼされることを語っています 特に最初の比喩は「実技」を伴う大げさなものですね ユーフラテス川というのも意味有りげです 神の「腰」から離れてバビロニアに連れて行かれることを暗示しているようでもあります 17節も主の嘆きになるんですか?16節からの続きなど考えるとエレミヤの嘆きのようにも読めますが 18節以降とのつながりを考えると主の言葉を伝えたもののようにも読めます 14章も神はユダの民に対して突き放したことばを、エレミヤを通して語っています 特に11-12節あたりはもう民がなにをしようと滅ぼす意思に変更はないことを断言してますね これに対してエレミヤは19節以下で民のために神に赦しと救いを嘆願しているようです 滅びのことばがあまりにも峻厳であるためか、エレミヤも単に神の言葉を預かって語るだけでなく 神に対する嘆願のことばも書き記したのではないかという気がします >>127 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ15-16章です。 13章17節はエレミヤの言葉ですね 15-17節がひとかたまりです 18-19節は「王家への警告」で、これもエレミヤの預言です。主の言葉を伝える預言ですね ヨヤキン王と母ネフシュタに対する警告ですが、捕囚されます。 14:17以下が「エレミヤの哀歌」です。16節までの主のことばを受けての哀歌ですね それで、祭司的預言者といわれたりします。 前半は神の言葉を預かる預言者。後半は民と一体となって祈る祭司であると。 >>128 13章17節はエレミヤの言葉なんですね 14章は19節以下が、これまでの預言者としてのことばではなく 民の側に立った祭司としてのことばって感じなんですね エレミヤの印象は怒れる神の峻厳なことばを伝える預言者という印象がありますが こうして民の側に立って神に憐れみを請う祭司という側面もあるわけですね さて15章は冒頭から「たといモーセとサムエルとがわたしの前に立っても、 わたしの心はこの民を顧みない。」と主はかなりご立腹の様子 6節などは「あわれむことに飽きた」と言うほど、もう完全に民に愛想を尽かした様子が分かりますが このあたりのセリフなど、ものすごく人間っぽいですね 新約聖書では神(父)は表立ってことばを語ることはほとんどなく、神はまさに神としての 権威ある「抽象性」を維持していますが、ヘブライ語聖書では、こういったことばがしばしば 預言者の口を通じて語られるので、非常に人間的な趣きがあります 16章も今までどおりの民に対する「滅びの宣告」が語られていますが 15節はちょっと趣きが違うようです ここはいったん、バビロンに民を囚えさせるが、のちに捕囚から解放してイスラエルの地に 帰還させる、という内容ですか? そうだとすると、ここでもまたバビロニアのことを「北の国」と言ってますね 世界史で習う新バビロニアの地理的位置が頭にこびりついているせいか どうしても北というのがしっくりきませんw >>129 atheistくん、おはようございます、本日の聖句はエレミヤ17-18章です。 ハーパーによると16:14-17:4は「希望と悲運」となっており、 希望と悲運とが交互に描かれているそうです 14-15節は希望の帰還が、16-18節は民の完全な敗北が。 しかし福音派は、16節「わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ」を 主イエースースが最初の四人の猟師の弟子らに「人をすなどる漁師にする」と 云った発言の預言としています。 >>130 不思議に感じたのは、たぶん民の完全な敗北→希望の帰還という順序で配列されてなかったから だと思います 16節は「漁夫」ということばがあったため、すべてを予型論的解釈で押し通そうとする福音派には そのように読めたんでしょうね さて17章ですが、まず人を頼みとする者と神を頼みにする者の対比が語られ ついでエレミヤ本人の救いとエレミヤを責める者の滅びを願うエレミヤのことばが語られます この章で目立ったのは、21節から語られる安息日の重要性です 外部の人間にとっては安息日がそれほど重要なものであるとは感じられないのですが 敬虔なユダヤ教徒にとっては救いと滅びを決するほど重要なもののようです 18章は前半が陶器師と陶器の比喩で神が民を如何様にでもできることを語っています 8節や10節で出てくる「思いかえす」という言葉は普通の言葉で言えば「思い直す」でしょうか? 21節では、悪行をなした者(自分に悪をなした者)に対して その子に災難を降らせることをエレミヤは願っています こういった発想は古代が個人中心ではなく、あくまでも家父長中心で 家族はその所有物であるかのような発想を元にしているように思います 現代人にとっては極めて居心地の悪い発想ですが、おそらく古代ユダヤ人にかぎらず 近代個人主義が広まるまではこういった考えはむしろ一般的だったんでしょうね >>131 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ19-20章です。 18章10節の「思いかえす」は他訳では「思い直す」です。8節は、新共同訳だけ「思いとどまる」です 新共同訳 思いとどまる フランシスコ会 聖書協会共同訳 思い直す 新改訳第三版 新改訳2017 思い直す ハーバーによると、安息日遵守は律法にも定められいるけれども ここまで安息日を重視するのは預言書では異例で、この理解は 捕囚後のものだと推定しています。 安息日遵守の失敗とBC587の国家破局を結び付け、捕囚後の 後代の祭司の宗教改革が込められていると。 エレミヤでは神の裁きが「つるぎと、ききん、疫病」の三重表現が好まれて用いられていますが(29回) 18:21以下ではそれが 「彼らの子どもたちをききんに渡し、 彼らをつるぎの刃に渡してください。 彼らの妻は子を失い、また寡婦となり、 男は疫病にかかって死に、 若い者は、戦争でつるぎに殺されますように。」と 変形表現になっているそうです。変形というかより具体的に。 古代でも仏教では、その人の悪は、その人の未来に苦果となると考えたみたいですね 子孫ではなくて、その人の来世に。 あくまで個人ですね >>132 すみません、またまた寝てしまいました 「思いかえす」は「思い直す」でいいわけですね 安息日に関してはなんでこんなに強調されてるんだろうと思いましたが これは異例なんですね 捕囚後ということは宗教的な保守化というか唯一神教化が強化されていく過程が そのまま反映されているため、安息日が強調されているってことなんでしょうね 神の裁きの三重表現というのはエレミヤの特徴ってことですね たしかに仏教だと子孫に因果が巡るような言い方はあまり聞いたことがないような気がします あくまでも輪廻を通じて個人に苦果が巡るということなんでしょうね このへんは民族宗教のユダヤ教と個人の悟りの仏教の違いなのでしょうね さて19章ですが、トペテまたはベンヒンノムの谷にまつわる章ですね 例の幼児犠牲で使われた場所ですよね 6節は前の章でも出てきたような気がします ともかくエルサレムあるいはユダがまさにゲヘナになる、という預言ですね 新約以降地獄といえばゲヘナですが、こういったヘブライ語聖書の記述が地獄のイメージを 形成したのでしょうね 20章はずいぶんと激しい表現になってますね 前半はエレミヤに足かせをつけたパシュルという人物を取り上げて 具体的にバビロン捕囚の様を預言しています 中盤からはエレミヤが預言によって暴虐だとか滅亡だとか叫ぶものだから 我が身ははずかしめられ、あざけられると慟哭しています 14節以降はまるでヨブの言のようです >>133 atheistくん、おはようございます。一週間お疲れさまでした。 さて土曜日曜の聖句はイザヤ9:1-7 ミカ5:2です。 19章は、背教したから、おまえたちはこの瓶のように粉々にされるという預言ですが 細かくみると、幼児犠牲についてハーパーが疑問をなげかけます。 列王記下21:6でマナセ王時代に行われていたという記録があるが、 ヨシヤ王時代の申命記改革で終わったはずだ。ヨシヤの死後に再び行われたのであろうか、と。 聖書から離れると、父ヒゼキヤが反アッシリア政策で独立を保っていたが、もはや限界を感じ マナセ王はアッシリアとの朝貢関係を構築して生き残りを図ったそうです。 で、宗主国アッシリアの支配下に入った以上、古代中東では宗主国の神を崇拝するのは 忠誠を示すうえで最も大事な外交政策だったそうです。 聖書からはバアルやアシタロテ信仰への傾倒を批判されるマナセですが。 そういうこともあって、回心したマナセの祈りが70人訳にあり、正教では旧約外典とされている。 私が注目したのは 「この所に」です。 19:4彼らがわたしを捨て、この所を汚し、 この所で、自分も先祖たちもユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、 かつ罪のない者の血を、この所に満たしたからである。 ここの「この所」は一義的には神殿なのでしょうけど、広義には、エルサレム、そしてイスラエルで 多数の神はあちら地方の神で、俺はこの所の神であるという「論理」が見えるように感じます。 これは多神教世界の中の拝一神教感覚なのではないでしょうか。 つまり「おれんちでよその神を拝みやがって、お前たちを赦さん」と言っているように思えます。 14節のフランシスコ会訳注の注記は、まさにヨブ3;1-3の同じような表現を参照と注意喚起しています。 ハーパーは、エレミヤを編集した者たちは、捕囚という結果、エレミヤの最後を知っていたので エレミヤ伝承を収集し保存したものの中から エレミヤの告白の最後に陰鬱な感情の吐露を配置したとしています >>134-135 エレミヤで言及される幼児犠牲は異教崇拝の誇張表現なのかもしれませんね マナセ王の異教崇拝は古代中東における被支配国の外交的常套手段であったということですね エレミヤ記の成立年代がいつなのか分かりませんが 19章の記述は基本的にバビロン捕囚前の預言を語っているので 捕囚期以後の確立した唯一神教に至る前の拝一神教の段階での記述なのかもしれませんね 記述や編纂の成立年代はおそらくかなり複雑でしょうから、該当箇所の成立年代を正確に 確定することは難しいと思うので、テキストの記述から背景の宗教観を推測することになるでしょうが 唯一神教が背景にあれば、異教の神は偶像という扱いになるでしょうから、ここでは まだその認識に至っていないようにも見えますね さて休日分ですが、キリスト教的にはキリストの誕生と予型論的に解釈される箇所ですね ミカのエフタラがなんのことだか分かりませんが、ベツレヘムとついているからには ベツレヘムのことだと思います イザヤのほうはガリラヤ、ミカのほうはベツレヘムになるので まあガリラヤ人のイエスがベツレヘムの地で誕生したことを暗示する箇所を ヘブライ語聖書から抜粋したということなのでしょう そういえば先生はイエスがベツレヘムで生まれたというのは史実だと考えられているんでしたっけ? >>136 atheistくん、おはようございます。明日月曜の聖句はエレミヤ21-22章です ハーパーもフランシスコ会訳注もエレミヤ書の成立年代を明記してませんが ハーパー曰く、エレミヤ当時、エレミヤは唯一の預言者ではなくて、いろんな預言者が ヤハウェの名のもとに預言していたし、エレミヤは他の預言者と対立していた。 捕囚後、エレミヤの伝承が収集されたのは、結果的にエレミヤの預言が正しかったからだと。 サムエル記上に 17:12さて、ダビデはユダのベツレヘムにいたエフラタびとエッサイという名の人の子 とあります。 フランシスコ会訳注は、ベツレヘムの別名と解釈しています。ベツレヘムの古い名説に立ったのでしょう。 その上でダビデ王発祥の地伝説と関係あると推定しています。 私は、ベツレヘム生まれというのはダビデ伝承を意識したこじつけ、ルカのでっちあげだと思ってます >>137 なるほど、複数の預言者のなかから、捕囚という事実に合致する預言者の伝承が 捕囚後に収集されたということですね 元の伝承は捕囚前、編纂は捕囚後ということになれば拝一神教的な考えと唯一神教的な考えが 混合していてもおかしくはなさそうですね エフラタはエフラタびととベツレヘムの別称のふたつの解釈があるということですね 先生はイエスのベツレヘム誕生挿話は創作という立場ですね わたしも、確信はありませんが、創作じゃないだろうかと思ってました >>138 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ21-22章です。 エレミヤの70人訳とマソラ本文では、70人訳が短くて、昔は短縮版とされてましたが 死海文書が発見されると70人訳と死海文書が一致されたので、逆にマソラ本文が 新しく、そして増広されていると明白になりました。 >>139 ということはエレミヤの新しい部分は70人訳以降ということになり 前3世紀以降に付加された可能性が高くなるということですね 思っていたよりもずっと新しい部分を含んでいるようですね さて21-22章ですが、ユダの王やバビロンの王の名も出てきて かなり具体的な叙述になってますね 21章冒頭ではゼデキヤ王がエレミヤに遣いを通して主の言葉を求めますが 主の言葉はもう身も蓋もない激しいものですね また22章ではヨシア王の子シャルムという人物やエホヤキムも出てきますが ゼデキヤがユダ王国最後の王ですから時系列が前後しているようです 両章とも「ネブカデレザル」と書かれていますが内容上明らかにネブカドネザルです ネブカデレザルというのはエレミヤ特有の呼び方なんですかね? あと22章でコニヤという人物がエホヤキムの子として出てきて後半けっこう大きく取り上げられていますが この人物はまったく記憶がありません ヨシア王以降でバビロン捕囚に絡んでよく出てくるエホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ以外の人物で そんなに重要な人物っていましたっけ? ちょっと気になったのは、22章10節で「捕え移されてゆく者のために、激しく泣け。 彼はふたたび帰ってきて、その故郷を見ることがないからである。」と書いてありますが これはユダの王家の血筋に限定した発言なんでしょうかね? あるいは実際には捕囚後帰還するユダヤ人はいましたが、それは捕囚されたユダヤ人の子孫ということで この発言は捕囚されたユダヤ人本人たちのことを言ってるんでしょうか? >>140 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ23-24章です。 ネブカデレザル33回 ネブカデネザル56回、口語訳に出てきますが どちらもネブカドネザルのことですね。 ユダの王エホヤキムの子コニヤは、エホヤキンのことです。 22章10節から30節は、フランシスコ会訳注によると、ユダの最後王ゼデキアに先立つ 四人の王について、言及しているそうです。 10節の死んだ者、15節父 11、18節がヨシアのこと 11節シャルムはヨハアズのことで、10節cから12節までが彼の事だそうです 13-19節はヨアキム(エホやキム)のこと 24,28節コンヤ(24:1エコニヤ)はエホヤキンのことで20-30節だそうです もう名前がこんががってわかりませんw 一応整理すると 0・・・ヨシア王 1・・・エホアハズ王(母ハムタル) 治世3か月 2・・・エホヤキム王(母ゼブタ)治世11年 3・・・エホヤキン(コンヤ) 治世3か月 エホヤキンの子供 4・・・ゼデキア(母ハムタル) 治世11年 だそうです >>141 ネブカデレザルって33回も出てきてたんですね コニヤはエホヤキンですか 愛称みたいなもんですかね それにしてもわたしも名前がこんがらがってついていけませんw こういう箇所はもう注解がないとダメですね エホヤキムとエホヤキンは名前がよく似ていて、かつおもしろいので記憶に残ってます ゼデキヤは例の悲惨な生涯の記述で忘れたくても忘れられませんねw 三人ともすぐに名前は出てきませんし、特にエホヤキムとエホヤキンは混乱しますが バビロン捕囚というユダヤ民族にとっての大事件に絡んだキャラなので それなりの知名度があるのでしょうね さて23章ですが、前半はバビロン捕囚後のユダヤ人の帰還に関する預言のようです 6節で言及されている「主はわれわれの正義」という名は誰のことか推定されているのでしょうか? 史実的にはペルシアのキュロス大王くらいしか思い浮かびませんが 5節の内容からはダビデの血筋のユダヤ人と考えられるので、ユダヤ教徒はこの人物を 誰だと考えているのか気になるところです 9節からはヤハウェから離反した預言者(と祭司)に関する預言になってますが 33節からの「主の重荷」ということばが、どうして繰り返してはならないのかが判然としません 一応36節で「重荷は人おのおのの自分の言葉だからである。」と書かれてはいますが、よくわかりません あと18節と22節で「主の議会」が出てきますが、これはヨブ記などと同様、神を中心とする天の統治体や 法廷のようなものが古代ユダヤ人にはイメージされていたということなんですかね 24章ははっきりと捕囚以降の預言と書かれてますね いちじくの比喩で、捕囚のユダヤ人がのちに帰還できること、ゼデキヤ等は地から絶えることが 語られています >>143 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ25-26章です。 「主はわれわれの正義」は、ユダ最後の王ゼデキヤの名前の意味が、これなのですが、 ゼデキヤは残念ながら「主はわれわれの正義」を実現できなかったので、33:16で 「その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」 とありますので、「エルサレム」のことになります。 キリスト教では「ダビデの若枝」を主イエースースと見ます。 で、「主はわれわれの正義」を再臨主クリストスと考えるようです。 23:9節以下は「偽預言者についての託宣」が小見出しとなっています。 重荷のヘブライ語はマッサ。託宣のヘブライ語もマッサです。 エレミヤが罰がくるぞと託宣(マッサ)していたので、エレミヤの敵対者たちが エレミやを揶揄して、重荷(マッサ)と言っていたようです。 そういうことがあって、敵対者こそが、「重荷」であるとやり返している場面ですね 18節の「主の議会」ですが、新改訳2017は 「主との親しい交わりに加わり」と訳しています。 聖書協会共同訳は「会議」と訳していますが、新改訳のほうが直訳に近いのではないでしょうか。 統治体や法廷というニュアンスではない思われます。 >>144 > エルサレムは安らかにおる。 ここは口語訳では「イスラエルは安らかにおる。」となってますからイスラエルのことではないですか? わたしは「その名」というのは前節の「正しい枝」のことを指すものと思ってました まあ当然のごとく、キリスト教的にはキリストと考えるでしょうね 重荷も託宣もヘブライ語ではマッサなんですね これはたしかに原語でないと分からないですね 「主の議会」は議会というよりも親しい交わりに近いということですね そうなるとこれも統治体や法廷といった行政・司法的なニュアンスはなくなってしまいますね さて25,26章ともエホヤキムの治世中にエレミヤに下った預言ですね 25章では18節で「今日のとおりである。」と記されているため、少なくともこの章は バビロン捕囚が行われたあとに編集されたことになりますね ここではユダだけではなく、バビロンやその他の国々に関しても主の怒りの杯が飲ませられる という預言になってます ここで気になるのは11節の「七十年」です 一般的にバビロン捕囚は前586年、帰還は前538年とされていますから 大雑把にはおよそ五十年の捕囚期間のはずですが、なぜ七十年なのでしょうか? 26章はエレミヤの預言とそれに対する祭司や預言者、民の反応が具体的に記されています 当然、彼らの反応はエレミヤを処刑せよ、という反応ですが、悔い改めて主の声に聞き従えば 主は災いを下そうとしたことを思い直される、というエレミヤのことばを聞いて コロッと反応を反転させます 20節からはウリヤの例を出して預言者殺しを暗示させ、そういったことがないように エレミヤを助けた話で締められています >>145 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ27-28章です 23:6ではイスラエル、33:16ではエルサレムとなっています。 「若枝」=『主はわれわれの正義』=ゼデキヤ(主は私の正義)です。本来の第一義。 『主はわれわれの正義』は更に称号として イスラエル(23:6)、エルサレム(33:16)となります。第二義(ここまではユダヤ教) キリスト教では若枝は、主イエースースのことです。 七十年について。 フランシスコ会訳注は、厳密な数字ではなく、人間の一生の長さを表す完全数であろと擁護しています。 歴代志下36:22にも70年とあります。 またエズラ記1:1以下にに、ペルシャ王クロスがエレミヤに感動して帰還を布告したとあるので ヨシア王の死BC609からクロス王の解放の年BC539からの70年と解釈する福音派の立場があります。 24章で、よいいちじくと言われた人々が、BC597の第一次捕囚です 悪いイチジクされた人々が、BC587の第二次捕囚です。 更に神殿が破壊されたBC586年から、再建されたBC515のことであるという解釈もあります。 >>146 もう一度23章を見てみたら完全にイスラエルのことを指してますね もう完全に忘れてましたw 七十年については捕囚を広義にとって始まりと終わりを変えれば それなりに七十年になるわけですね ただけっこう無理やり感があるので、わたしは「人間の一生の長さを表す完全数」という解釈のほうが しっくりきます さて27章はゼデキヤや周辺国の王へ告げる預言ですね 6節で明確に書かれているように、イスラエルの神は単にイスラエルの民族神というよりは 他国の王をも自らのしもべとする「世界や歴史を動かす」神として描かれています バビロン捕囚やその後のキュロスによる帰還がユダヤ民族にとっては あまりにも衝撃的な経験であったため、このような世界や歴史を動かす神として ヤハウェを捉えるようになっていったのだと思います 13節ではつるぎとききんと疫病で民が完全に滅んでしまわないよう バビロンの王に仕えるよう、主は言います 捕囚という試練を受けることでこれまでの罪が赦され、あとあと帰還によって イスラエルが存続するという神学的構想が現れていると思います 28章は10節でエレミヤのくびきに言及されているので、そのまま27章の続きだと思いますが ここではハナニヤという具体的な預言者の名前が出てきます ハナニヤは二年以内にバビロンのくびきが砕かれると預言しますが エレミヤはそれは木のくびきであって、それに替えて主は鉄のくびきを王や民につけること、 そしてハナニヤはその年うちに死ぬことを預言します ここは偽預言者と本物の預言者の違いをくっきりと描き出した章ですね ちょっとあからさますぎて、創作感が半端ないですがw >>147 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ29-30章です。 27:1ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤが世を治め始めたころ←初っ端改竄です。 ヘブライ語聖書原文は、「ヨヤキム」となっています。 27-29章は捕囚の人々に向けての日付なしの手紙であったものがエレミヤ書へ 挿入されたものだそうですが、編纂の際に日付を付け加えたのですが、 間違えたそうです。シリア語訳が修正し、RSVなどが採用し、口語訳は重訳しています。 ハーパーによると、BC597の第一次捕囚をどう解釈するかをめぐって 二党が争ったそうです。 エレミヤ党は、バビロンの支配は神の意志であると論じ、バビロンへの隷属を説いた。 隷属期間を70年と説いた。 ハナニヤ党は、第一次捕囚をヤハウェの業であるということを受け入れた上で、 捕囚は民に対する十分な罰となり、我々は反省した。ヤハウェは今こそ国を回復 させようとしていると主張しエレミヤと対立したそうです。 エレミヤの神学背景はシナイ契約だそうです。 ハナニヤの神学背景は王権契約で、国はヤハウェの裁きを受けても決して 究極的に破棄されず悔い改めたら回復されるというものて゜ どちらもユダヤ教の神学的正当性を有していたそうです。 >>148 内容的にエレミヤ書に近似しているために挿入されたってことなんでしょうか 聖書全般そうですが、著作物は特定著者の排他的著作というような観念が古代においては なかったのでしょうね エレミヤとハナニヤの神学的背景はおもしろいですね ハナニヤのほうの王権契約というのはダビデの血筋による王権は継続する、というような契約でしょうか いわば王権の絶対性にあぐらをかくハナニヤ党と王権すらも神から離反すれば滅ぼされると考える エレミヤ党との神学的対立ってことですね さて29章も、その捕囚された人々に宛てられた手紙ということですね ここでは捕囚という災難よりも捕囚からの帰還という希望が主の口から語られていますね ただやはり偽預言者に対する口吻は峻烈で、特に後半ではシマヤという具体的な名前を挙げて 子孫に至るまで罰する旨を告げています 30章は、また元のエレミヤ書に戻るということですね ここは前章と同様に主に主による帰還の約束として、帰還の希望が語られています 内容からすると、帰還後のエズラ・ネヘミヤによるエルサレム再建の時代に書かれた者のように思われます ただ気になったのは3-4節で「イスラエルとユダ」と言及されている部分です エレミヤ(を書いた著者)の見通しでは、ユダ王国の復興というよりも イスラエル王国を含めた全イスラエルの復興を念頭に置いているようです 第二神殿期のイスラエルはかつての北イスラエル王国の範囲まで イスラエルの領分になってたんでしたっけ? >>149 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はマタイ1:1-17です。 ハナニヤの王権契約はダビデのものでしょうね 2サムエル記7章のことですが それを要約した1歴代志でも要約されてます 17:11あなたの日が満ち、あなたの先祖たちの所へ行かねばならぬとき、 わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。 17:12彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。 17:13わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、 あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。 17:14かえって、わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。 彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」。 17:15ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。 30:3-4節 ハーパーによると、ヨシア王の支配地域までの回復が想定されているそうです 福音派は「イスラエルとユダ」の回復を「全イスラエルの回復」と解釈し、終末を読み込みます。 >>150 2サムエル記7章をもう一度読んでみました 12-16節が特にその王権契約に該当する部分ですね たしかにここでは、途中、懲らしめがあったとしてもダビデの王国は永遠に続く旨が 主の口から述べられていますね ヨシア王の支配地域ということは、まあ最初の約束の地の全域という感じですね 福音派の解釈では字義どおり、全イスラエルってことですね 休日分はマタイによるイエスの系譜ですが、マタイはヨセフに繋がる父系の系譜ですね 系譜だけなので特に言うべきことはありませんが、一応聖書ではイエスは聖霊によって 身ごもったことになっているので、父系の系譜は形式的な系譜になってしまいます それでも一応はダビデの系譜と言えなくもないので、マタイはユダヤ社会における父系重視の 伝統からこのような系譜を挙げたのでしょうね メシアに関するヘブライ語聖書との整合性、もっとあけすけに言ってしまえば、辻褄合わせのために 冒頭にこのような系譜を挙げたのだと思います >>151 atheistくん、こんばんは。明後日の月曜の聖句はエレミヤ31-32章です 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。 1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代 ダビデからバビロン捕囚までが十四代、 バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。 キリスト迄は13人ですがなぜか数字をあわせて14第になっています。 第一に、ダビデ王の王権が永遠というユダヤ思想の伝統を受けて 主イエースースは、ダビデ王の血を引く王であるという意識がここに展開されています 第二に捕囚が区分のひとつとして大きく取り上げられています。 そして捕囚後の名前の人々はまったく業績が知られていません ところで聖霊によって見語こもった説は別の福音書のルカ説なので マタイ編纂当時、その考えは一般的ではなかったと思います。 パウロ派のルカは、父ヨセフの血筋の義人ヤコブ、従兄弟シメオンがエルサレム教会を 支配することに対して、主イエースースと血のつながりはないとする話をでっちあげた だけでしょうから >>152 > キリスト迄は13人ですがなぜか数字をあわせて14第になっています。 そうなんですか、思いっきり14代と書いてあるので、数は数えてませんでしたw そういえば捕囚後のダビデの系譜って出てきませんもんね > ところで聖霊によって見語こもった説は別の福音書のルカ説なので > マタイ編纂当時、その考えは一般的ではなかったと思います。 これはルカ独自なんですか? 一応マタイにも「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、 まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」(1章18節)と書いてあるので 両福音書共通の認識だと思ってました >>153 >聖霊によって身重になった。 ルカの場合は、露骨に聖霊がマリアに覆いかぶさって、子供を生むと書いてありますが マタイの場合は微妙です。 「~によって」と訳される前置詞はεκですが、これは第一義には「~から」という前置詞です。 「~によって」という前置詞をマタイはここでわざと避けて、曖昧なεκを使っています ニュアンスとしては「聖霊に基づいて、聖霊を根拠として、聖霊的な仕方で」というものです。 義人ヨセフは、律法に従って、離縁しようと決めたのは、自分以外の男性との子を妊娠したから です。義人は相手が浮気したばあのみ、離婚できました。 しかし主のみ使いが夢に現れて、「聖霊から生まれた」ので「マリアを妻として受け入れよ」と 勧告され、それに従い、マリアとイエースースを妻と我が子として受け入れたわけです。 で、ヨセフはイエースースが生まれるまではマリアとセックスはしませんでした、とマタイは書いています。 裏返せば、出産後は、マリアと夫婦関係にあり、四人の弟と二人以上の妹を作ったのです。 >>154 前置詞的には明確に確定できないわけですね 英訳を調べてみると、その箇所は主に through あるいは from が使われていました ルカほどは明らかな表現ではありませんが、普通に読めば聖霊によって身ごもったように読めます ただ解釈によっては、妊娠は人間の男性によるものだがその妊娠の過程が聖霊を通じで行われたのだ とも読めますね たしかに微妙です >>156 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ31-32章です。 あと、乙女と訳されるパルテノスです。イザヤ7:14からの引用ですが ヘブライ語のアルマーは単に「若い娘」という意味で、「処女」の意味はありません。 70人訳されて、ギリシア語のパルテノスには「処女」の意味がある「若い娘」のことで すがマタイはルカと違いヘブライ語聖書に精通しているので アルマーが若い娘を意味すると知っていた可能性が大です >>157 観られる時間帯だったのでクロアチア戦観てました まさかPKまで粘るとは思ってなかったのでこの時間ですw ということで今回は簡潔にいきます マタイはヘブライ語をよく知っているので元のアルマーの意を知っていた可能性が高いってことですね それもマタイの微妙な表現に現れていたのかもしれないですね さて31章ですが、ここは帰還に関して主が力強く民を励ましている印象があります 目についたのは、5-6節や9節、あるいは27節で明確に元北イスラエル王国を念頭において 語っているところです 少なくとも著者にとってはバビロンからの帰還は単にユダ王国の復興ではなく イスラエル全土の復興であることが見て取れます 32章は冒頭でゼデキヤの運命を告げることばがあるので、また捕囚前の話に戻っているように 見えますが、後半で帰還の話につながってきているので、大きな流れとしては31章とテーマは 同じであるように感じました この章で特徴的なのはアナトテの畑を買って証書を作るという話です 最初はなんのことかと思いましたが、要はイスラエルの地がバビロニアに滅ぼされても のちにちゃんと帰還されることが神の計画にあるので、エレミヤにそれを保証した、というようなことだと 思いました >>158 atheistくん、おはようございます 本日の聖句はエレミヤ33-34章です 遅くまで応援ご苦労様です。 私が注目したのは9節「わたしがイスラエルの父であり」 これは3:19の「我が父」と云い、神を「私の父」と呼ぶ典型であるな、と。 そしてキリスト教が注目するのが31節の「新しい契約」です。 「新しい契約」はヘブライ語聖書ではここだけです。 フランシスコ会訳注は、「預言の頂点」といわれてきたと解説しています。 新約では「新しい契約」はルカ22:20や1コリ11:25などが知られています 32:12節のバルクは、最初のエレミヤ書を書いたエレミヤの書記です。 >>159 そういえばヘブライ語聖書で神のことを父で表現する箇所はあまり見当たらないような気がします ヘブライ語聖書は全体として、明らかに男性神を想起させますが、それでも父と呼ぶのは それほど多くはないわけですね その分、エレミヤでの表現は着目に値する、と 31節の「新しい契約」はわたしもキリスト教の新約の概念に影響を与えたのだろうと思いましたが 36節であくまでもイスラエルの民に対するものであることが書かれていたので ユダヤ教の枠内では捕囚後の新たなるイスラエルに対する契約なんだろうと感じました バルクはなぜか名前を覚えていました たぶんエレミヤ書で覚えていたというより第二正典というか外典というか その書名にもなっていたからかもしれません さて33章ですが、ここはもう明確にユダとイスラエルを再建するという預言が語られていますね ちょっとよくわからなかったのが20節で出てくる昼や夜と結んだ契約という箇所です これは何を指しているのでしょうか? 34章はゼデキヤに関する預言ですね 4-5節で、子どもを目の前で殺された直後に目をくりぬかれ獄で死んだはずなのに どういうこと?と思いましたが、どうやらそのあとを読んでいくと奴隷解放契約を いったんは履行し、また破った、という流れになっているので、4-5節の預言は撤回された ということですよね >>160 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ35-36章です。 昼や夜と結んだ契約は、単に昼と夜が循環するように、ダビデの契約も永続する ということです。つまり昼と夜が順番に来る限り、イスラエルの王権はダビデの子孫が 永遠に座るということです。 34章はわかりにくいのですが、二つの預言からなります。 2,3節は、主の言葉を聞き入れず徹底抗戦すれば、捕えられてバビロンに連れて行かれる 4,5節は、主の言葉を聞き入れて降伏すれば、ヒドイ目にはあわずいのちを全うできる、と。 そしてゼデキヤは徹底抗戦を選びました。 目をくりぬかれ獄で死ぬのは、52::11。子供の目の前で殺されるのは52:10ですね 34:8節以下 奴隷解放をめぐる契約の破棄です ここでまた話が変わり、時代が突然として包囲されている頃に戻ります。 兵糧攻めにあって苦しんでいる時に、ゼデキヤ王は、神に頼るために 代々律法を破って同朋を奴隷としていたことをやめ奴隷解放の宣言をしました。 すると一時、バビロンによる包囲が弱まりました。エジプトのパロ軍が助けに来たからです。 するとエルサレムの気がゆるみ、奴隷を連れ戻しだしたのです。 それをみて主なる神が怒ったという流れです。1-7節とは別の話なのです >>161 昼や夜と結んだ契約は単なる比喩表現ってことですね 34章の4-5節は2-3節とセットの条件つき預言なんですね 8節以下はそれとは別の奴隷解放に関する契約の問題で 一度は認めたものの、再度翻したために神の怒りを買った、と さて35章はレカブびとが代々祖先の命を守ってきたゆえに長く生きながらえているのに対し ユダの人々は神の命を聞かなかったので滅ぼされる、という預言ですが、 レカブびととはどのような人々なのでしょうか? 36章はバルクがエレミヤの預言を書き記し、それをエホヤキム王たちに読み聞かせるという内容ですが エホヤキムは預言を書き記した巻物を焼いてしまったので、神にさらなる災の預言をされる、という流れに なってますね この章で言及される巻物が、まさに今読んでいるエレミヤ書ということになるのでしょうが 物語の中で、その物語自体の来歴が語られる、という構造になっており、このへんは面白いですね とはいえ書物としては、同じバビロニアとの紛争に関して 神に従わず罰せられるという同じ内容の預言の繰り返しなので そろそろ新しい展開がほしいところですw エレミヤ書に限った話ではありませんが、近代的な物語と違って 聖書は同じテーマの変奏が繰り返されるというパターンが非常に多いですね おそらくエレミヤ書ならエレミヤ書を一気に読む、といった読み方ではなく 読みて・聞き手にとって関係が深そうな部分を事あるごとに選び出して読む、というような 読み方で読まれていたのだと思います 現在も教会の牧師なんかがやってる説教と同じような読み聞きの習慣だったのでしょうね だから全体をリニアに筋を追って読もうとすると、あれ、また同じ?とか、元に戻ってる?とかいった 印象になるんだと思います >>162 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ37-38章です。 35章は時が突然戻って、ゼデキヤの二代前のヨヤキム王の時代ですね レカプ人は、モーセの舅エテロが属するケニ人(遊牧民)のうち、 モーセらユダ族と共にカナンに入植しながら、遊牧民の文化を250年ほど 守っている人々です。この人々の中でレカブの子ヨナダブという人が出て (Ⅱ列王記10章15節以下)大活躍し、子孫はヨナタブの言いつけを守ったという ことになっています。で、レカプびとと言われるようになりました。 現代でいえばアーミッシュようなものです。 36章からは第六部が始まります。エルサレム陥落前後に戻ります。 で、エレミヤ書のはじまりが明かされます。 たぶん大飢饉があり、断食で乗り切ろうとしたので これに乗じて悔い改めのチャンスということでエレミヤはバルクに 預言を託して民と役人らに預言をしたが ヨシア王なら衣を引き裂いて反省し悔い改めたのに ヨヤキム王は、反省せず怒り、預言の巻物を火にくべた。 反省しないので神に滅ぼされたということなのでしょう このヨシア王の対比のエピソードを残したかったのでしょう >>163 アーミッシュのようなものというのは分かりやすいですね 純粋なユダヤ民族でなくとも、このように忠実な民というのは神の目によく映るわけですね 36章はヨシア王との対比でエホヤキムを描いているってことですね さて37章と38章ですが、このふたつの章は同じことを異なった伝承で書いているのでしょうか? 37章ではエレミヤをバビロニア側に脱走しようとしていると疑った番兵に捕らえられ 獄に繋がれます それをゼデキヤが連れてきて神からのことばを聞き、獄に返さずにそのまま「監視の庭」に置き パンを与えます 38章では民の要求に逆らえなかったゼデキヤがエレミヤを「監視の庭」にある穴の中に投げ込みます しかし宦官のエベデメレクの進言で、エレミヤを穴から引き上げ、そのまま彼は「監視の庭」に とどまることになります その後にゼデキヤ王とエレミヤの対話が来る、という順序になってます 両章で話は違いますが共通点も多く、また38章26節には 「わたしをヨナタンの家に送り返さず、そこで死ぬことのないように」というセリフも出てくるので 元となった同じ伝承が異なった形で伝わったものが書き記されたようにも思えます >>164 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ39-40章です。 ハーパーの解釈では、BC588-587の間に、ゼデキヤ王とエレミヤの三回の会見が 描かれているとのことで、第一を37:3-10節 第二を37:16-21節。第三を38:14-28節としています。 エレミヤは、一貫してバビロンに降伏しなさい。エジプトはあてにならない。 バビロンに降伏すれば生き残れますと説き、主戦派の高官や預言者らから 兵士と民衆の士気を下げる者として憎まれました。 公に主張したので捕えられたわけです。 現代でもウクライナでロシアに降伏しなさい。死なないですむでしょうと公言して触れ回ると 怒られるのと同じであると思います。 さて王は三度目、つまり最後の会見では、人目を忍んでエレミヤに会いに行ったのです 一縷の希望をもって。しかしエレミヤの預言は同じでした。 そして王は国の方針を転換させることはできなかった。 というか滅亡した理由を後の時代に解釈した際にエレミヤの預言が注目されたという ことなのでしょう >>165 ハーパーの解釈では、一応別で、しかも3回あったということですね 分かりにくいですねw エレミヤがバビロンが攻めてくる前に実際にバビロンに降伏するように説いたとしたら それはもう確実に捕らえられますね しかも神の言葉の預言という形ですから、宗教が大きなウェイトを占めていた当時のユダヤでは 普通に言っても処刑もんですね さて39-40章は捕囚時のゼデキヤとエレミヤの運命について詳細に語っています ゼデキヤは例のとおりですが、エレミヤはバビロンに降伏するように預言したので それなりに良い扱いを受けます ちょっとここも話が出来すぎていて、どうなんだろうと思います そもそもバビロンの王ほどの者が一介の預言者の扱いを云々するんだろうかと思いますが とりあえずはそういうことにして、話を進めます 39章で目に止まったのは、10節です 実質的に王侯貴族階級や有産者階級が排除され無産者が土地を得ることになりますが これは無産階級の人たちにとってはほとんど革命に匹敵するような劇的な社会変動ですね 40章はユダの総督になったゲダリヤへと話が移っていきますが アンモンびとによる暗殺計画の話の途中で終わっています 次章に続く、ってことでしょうね >>166 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はルカ1:5-25 イザヤ40:3-5です。 ハーパーも39;11-14にはエレミヤがバビロン王の宮廷で擁護されるべき人物として 描かれているのは驚くべき主張で、一見すると信じがたい、としたうえで 親バビロン派のシャファン家の一員のゲダルヤがユダ総督に任じられたことからみても バビロンへ降伏を説く預言者エレミヤの情報は、新バビロン派のユダヤ人からバビロン中枢へ 伝えられていたのであろうと推定しています。 ゲルダヤはユダ王家の戦闘派のイシュマエルによって暗殺計画を持たれるのだが 新バビロン派によって、戦後復興してそれなりに繁栄してたが、旧王家から恨みを買った 報復をく計画されているということだったみたいですね >>167 もしかするとバビロニアはけっこう諜報や情報戦に長けていたのかもしれませんね ゲダリヤなる人物はまったく記憶にありませんが、ここではそれなりに重要な登場人物みたいですね 休日分は洗礼者ヨハネに関する箇所ですね ルカはヨハネ懐妊に至る経緯がルカらしい神話的な語り口で描かれています イザヤは、ルカで言えば3章4節以下に対応する預言の部分ですね イザヤの箇所は福音書の記述から、ヨハネの役割としての「主の道の整備」だと思ってましたが イザヤのほうではむしろ主の栄光の現れとして書かれているように思います ルカの書いたエピソードはアブラムとサライのエピソードに酷似しているような気がします 古代では女が子を産めないことは恥とされていたので、このような老齢の懐妊は 神の恩寵、神の奇跡として語られたのかもしれませんね >>168 atheistくん、おはようございます。明日の月曜日の聖句はエレミヤ41-42章です。 創世記/ 11章 30節 サライは不妊の女で、子供ができなかった。 土師記 13:2ここにダンびとの氏族の者で、名をマノアというゾラの人があった。その妻はうまずめで、子を産んだことがなかった。 13:3主の使がその女に現れて言った、「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。 13:24やがて女は男の子を産んで、その名をサムソンと呼んだ。その子は成長し、主は彼を恵まれた。 そーいえばサムソンも赴任の母から生まれた話ですね >>169 サムソンもそうだったんですね 重要人物はその生まれも特別なものとして描かれるのかもしれませんね エレミヤもあと十章余りなので、ようやく先が見えてきました >>170 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ41-42章です。 2章づつはきついですが、もう少しですね。 引き続きよろしくお願いいたします。 >>171 41-42章は40章後半からの続きで、イシマエルらがゲダリヤを殺害し、その後ヨハナンらが カルデヤ人を恐れてエジプトに逃れるべきか、それとも留まるべきかをエレミヤに尋ねるところですね まずはヨハナンのイシマエルによる暗殺忠告を一笑に付してしまったゲダリヤが 食事の席でイシマエルらに殺され、その他ゲダリヤの元に集まっていたユダヤ人や カルデヤびとの兵士まで殺されます 前章でイシマエルは元々アンモンびとの王によって暗殺を依頼されていたように書かれていましたし 10節ではアンモンびとと通じでいたことが分かるので、要はアンモンびと+イシマエルらは 反バビロン派で、バビロンに服属するゲダリヤらを倒してバビロンに対する反乱を企てていた、とも 読めますが、アンモンびとの目的がいまいち分かりません その後イシマエルと戦うために出ていったヨハナンらは、ギベオンでイシマエルは逃したものの 捕虜は連れ戻すことができます しかしその後ヨハナンらはさらにイシマエルらを追撃するのではなく カルデヤびとを恐れてエジプトへ逃れようとします 42章からはヨハナンらが行くべき道を求めてエレミヤに伺いを立てますが 主はエレミヤの口を通じて、エジプトに行けば「つるぎと、ききんと、疫病で死ぬ。」と告げます まあ流れ的にバビロン捕囚時にバビロンに逆らうなと言われても逆らってボコボコにされたときと同様 ここでもエジプトに行くなと言われても行ってしまってボコボコにされるんだと思いますw 自分たちに不利に見えること、あるいは正しくないと思えることであっても 主のことばを信頼し、従順に従え、ということなのでしょうね >>173 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ43-44章です。 40:13またカレヤの子ヨハナンと、野外にいた軍勢の長たちはみなミヅパにいるゲダリヤのもとにきて、 40:14彼に言った、「アンモンびとの王バアリスがあなたを殺すためにネタニヤの子イシマエルをつかわしたことを知っていますか」。 しかしアヒカムの子ゲダリヤは彼らの言うことを信じなかった そもそもイシマエルは、アンモン王バアリスから、総督ゲダリヤ暗殺の密命を受けていたのですね そして、ヨハナンの情報網は優秀でそのことを知っていたので、事前に総督に忠告していたわけい゛す しかし総督は、その情報を信ぜず、王家のイシマエルを歓待しました。そして暗殺計画は成功した。 成功後、手筈どおり、アンモンへ逃亡しようとしていた。 しかし情報通のヨナハンは、イシマエルを追撃し、捕虜を取り戻しました。 しかしイシマエルを取り逃がしてしまった。 そして総督とバビロン兵士を殺害されたので、バビロン王の怒りが自分たちに向かうのではないかと畏れ エレミヤに預言させた。 預言させると、エジプトに逃げるな。留まれ。バビロン王を畏れるなという宣託だった という流れですね 果たして預言に従うか、どうか >>174 こうしてみると、このゲダリヤの箇所は陰謀や暗殺でプロットが進行する政治小説のようで ちょっとおもしろいですね さて43章には、さっそく > 果たして預言に従うか、どうか の結末が書いてありましたw ヨハナン曰く、バルクがエレミヤをそそのかして自分たちをカルデヤびとの手に渡そうとしているのだ、 ということで、案の定、エレミヤの預言には従いません それどころかエレミヤとバルクまでエジプトに連れて行ってしまいます 12-13節で「エジプトの神々」に言及されているところで思ったのですが 一応エレミヤ書の神学ではネブカドネザルは単にユダへの懲罰の役割を果たしただけでなく 異教の神々(この場合はエジプトの神々ですが)を払い清める役割を持っていたのかな、と感じました 44章はそのエジプトの地で、エジプトに逃れてきたユダヤ人たちに下されたエレミヤの預言ですね 内容は今までと大差ありませんが、要はユダにいたときと同様 異教の神々に対する崇拝をやめなかったお前たちは 主が下す災によって滅ぼされる、ということのようです 17節などで天后ということばが出てきますが、天の后ということは女神でしょうから これまたアシュタルテなど異教の女神のことだと思います エレミヤのユダの民に対する中心的な非難は、異教の神々への崇拝であるようですね 結局簡単に行ってしまえば、異教の神々を崇拝することをやめようとしなかった民に対して天罰が下る、 というのがエレミヤ書の中心になっているようですね >>175 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ45-46章です。 BC586のネブカドネザル王によるエジプト侵攻。短期間の占領を知っている 後の世のものエレミヤが預言していたと書いているのではないかと思います。 17節などで天后は、 7:18子どもらは、たきぎを集め、父たちは火をたき、女は粉をこね、パンを造ってこれを天后に供える。 また彼らは他の神々の前に酒を注いで、わたしを怒らせる。 でも出てきましたが 女神イシュタルの称号だそうです。 こう何度も異教の神崇拝と神の罰の繰り返しを読まされますと 自然と、神を信じればよいのに。なぜまた裏切るか などの感情が生まれてきます わかっていても洗脳されそうになりますね。 この繰り返しは読者を信仰へと誘導する効果狙いかもですね >>176 エジプトはバビロニアとユダを含むシリア地方の支配を巡って争ってましたからね そういった国際情勢も背景にあるのでしょうね 天后ということばは7章でも出てきてたんですね たぶんその時は文脈から単純に推測できたので気に止めなかったのだと思います 異教の神への浮気→天罰、の繰り返しですからね 当時エレミヤ書を読んだユダヤ人には、ヤハウェを信じないと大変な目に会うと 実感を持って感じたことでしょう さて45章はずいぶん短くて助かりますw ここはエレミヤがバルクに語った言葉ということですが 内容は神がエレミヤに対して、バルクに伝えるようにと語った言葉ですね 神はユダに天罰を下すが、バルクの命は取らないぞ、ということみたいです 46章は「もろもろの国」についての預言となってはいますが 実際に語られているのはエジプトのことですね(最後の2節はユダのこと) エジプトの王がネコの頃ですから前7世紀後半くらいでしょうか 話としてはバビロニアによってエジプトは滅ぼされるという内容ですが 実際は滅ぼされてはいませんね この章を読んでて思ったんですが、例のバビロニアのことを北の国と呼んでいたのは エジプトから見てそのように呼んだのではないか、と エレミヤもエジプトに連れて行かれたことですし、そのエジプトの地から見ると バビロニアはシリアを通ってエジプトに攻めてくるわけですから エジプトの地から見れば、たしかに北の国と見えそうです >>177 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ47-48章です。 ハーパーによるとバルクに対する宣託はBC605だそうです。 第七部 諸国に対する宣託・・・46-51章 エジプトに対する宣託・・・46:1-26 イスラエルは救われる・・・46:27以下 となるようです。 この諸国への託宣は種種あった託宣を整理して 一つに編集されたものでここは古いそうです ハーパーによるとエジプトへの託宣は二つあり、 2-12節・・・BC605 13-24節・・・BC568年ごろのネブカドネザル王のエジプト遠征 に設定されているそうです ハーパーの分析では、国粋主義者との同盟に失敗したエジプトが バビロニアに敗北したことを捕囚民共同体が喜んでおり、故国帰還の 希望が込められている。散文体の枠組みは捕囚後期のものだとのこと。 捕囚民によって書かれた、編纂されたとすると、 atheistくんの仰せの通り、エジプトから見ての北。 神がバビロニアを利用して我々を開放してくださるという希望があったのやもですね >>178 諸国に対する託宣というのは46章でおしまいではなく51章まで続いているんですね 46章は主にエジプトについての託宣で、前半がネコのころ、後半がバビロン捕囚があったころ と分かれているわけですね エジプトがバビロニアに破れたことを喜んでいる者の観点から書かれているということは エジプトに連れて行かれた人たちの観点から編纂された可能性がある、と 仮にそうなら地理的にはエジプト視点になりそうなので、バビロニアが北の国というのも あながちおかしなことではなさそうですね さて47章はペリシテびと、及びガザとあるのでイスラエルの南方の人々に対する預言のようです 2節で水とあるので洪水かと思いましたが、3節では戦車とあるので、水というのは バビロニアの怒涛の軍勢に対する比喩でしょうか? 48章はモアブに対する預言ですが、前章と比べてかなり詳細に書かれています といっても数多く出てくる地名がまったく検討つかないので、なんかいろいろたいへんそうくらいの 感想しかありませんw それにしてもイザヤでしたっけ?たしかイザヤを読んだときもモアブに対する激しい敵意のようなものが あったように思います それだけユダヤ人にとってモアブというのは大きな存在だったのでしょうね 地名がこれだけ詳しく載せられているということはモアブの地がユダヤ人にとっても よく知られた地であることが伺えます ところが最後の節になっていきなり「再びモアブを栄えさせる」という主のことがば出てきます あまりにも唐突で、理由が分かりません これは一応モアブがロトの子孫ということになっていて、ケンカばかりしているとはいえ、 イスラエルとは兄弟みたいなものだからなんでしょうか? >>179 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ49-50章です。 ガザとアシケロンは、ペリシテ人の主要都市のひとつですね ガザはダゴンの神を祀り、アシケロンはアシュタロテを祀っていたため 主の剣によって滅ぼされるということのようですね。 水が北からあがりは、私は洪水だと思ってましたが、ご指摘を受けると 確かに北からとあるので軍勢の比喩かもですね ハーパーもフランシスコ会訳注にも言及がありませんが。 ハーパーによると48章は4つの託宣がまとめられたものだそうです フランシスコ会訳注はモアブはモーセによってルペン族とガド属に与えらたもので ここで出てくる十の町は、ディポンで発見されたモアブ王の石碑にも刻まれている そうなので、実際にあった町々のようです。 実際BC582にネブカドネザル王によって征服されたそうです モアブ人は異教の神ケモシュを拝むゆえに滅ぼされるわけですが 一方で主イエースースの祖先の一人ルツはモアブ人です。 系譜的には、ロトが自分の娘と交わり生まれたのがモアブ人とアンモン人の祖先です 国としてモアブは滅ぼされるけれども最後の節で唐突に終わりの日々に繁栄させると 予告されていますね なぜなのでしょうか >>180 ガザなどもペリシテ人の地ってことですね 47章2節の「水」についてNETで見てみると、水は軍勢の比喩と解釈してました イザヤ書にも氾濫する水をアッシリア(8:8-9)やエジプト(46:7-8の比喩としている箇所があるとのことです 48章47節についてもいくつかコメンタリーを調べてみました ほとんどが単にモアブの再興と述べているだけで、その理由は書いてありませんでしたが New American Commentaryには推測として、この節はイスラエルに対する励ましを与えることを 意図したものかもしれない、もし神が異教のモアブを復興するなら、選ばれた民であるイスラエルは なおさらだ、という感じで書かれてました なぜモアブなのかという推測がないのであまり説得力はありませんねw いまのところ、ただ単にそういう預言と受け取るしかなさそうです さて49章ですが、ここはアンモンびと、エドム、ダマスコ、エラム等、イスラエルの周辺諸国を まとめて扱ってますね 全部滅びの預言ですが、なぜかここもアンモンびととエラムに関しては 「再び栄えさせる」と書いてあります モアブとアンモン、あるいはエドムならイスラエルの兄弟国、あるいは従兄弟国として イスラエルとともに再興される、という感じで納得できそうですが、なぜかイラン地方のエラムが 再興のリストに入ってます なんだかよく分かりませんねw 50章はバビロンに対する滅びの預言ですね ペルシアやキュロス王の名前は出てきていませんが、歴史的にはもちろんペルシアによる バビロン侵攻のことになると思います それにしてもアッシリアにせよ、バビロニアにせよ、主がイスラエルを罰するために 遣わしてその道具となったはずなのに、なぜ滅ぼされなきゃらないのか、とは思いますw まあ高慢になったとか、異教を拝しているといった理由なんでしょうが そうかホモとは何なのか bunshun.jp/articles/-/55185 公明党候補が違法な「無修正」性交動画を公開 比例名簿から削除へ 「週刊文春」編集部 2022/06/15 source : 週刊文春 2022年6月23日号 genre : ニュース, 政治 そうかホモ twitter.com/takigare3/status/1537024706788081664 滝沢ガレソ🪚 @takigare3 【文春砲】公明党・大沼伸貴氏、裏垢で無修正アナルSEX動画を公開し公明党をクビに bunshun.jp/articles/-/55185?page=1 ・創価高→創価大→創価学会事務局副部長のエリート学会員 ・フォロワー2.5万人の裏垢(@shin_bariuke )でケツイキしまくるバリウケ動画を公開→あまりにも人間革命が過ぎるため公明党をクビに 午後7:50 · 2022年6月15日 9,922 件のリツイート 3,048 件の引用ツイート 2.1万 件のいいね >>181 atheistくん、おはようございます。土曜と日曜の聖句はルカ1:26-38, マタイ1:18-25です。 ちなみにパレスティナって「ペリシテ人の土地」という意味だそうです。 エラムは現在のイランですが、BC530年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされたのですが 支配下にはいるとBC3000からの長い歴史を尊重されペルシアの諸制度に再利用された そうなので、「再び栄えさせる」はペルシアのことかもですね フランシスコ会訳注は、単にエラムは後のペルシアとしてます。(間違ってますけど) つまり実際のペルシアの躍進を知っていた人が書き込んだのかもです 福音派によると、回復されるのはセム系子孫 滅ぼされるのはハム系子孫だそうです でもケダルとハゾルはセム系ですけど、滅ぼされたままですけどね 50:24おまえは主に敵したので、尋ね出され、捕えられた。 とバビロンは滅ぼされた理由を明記されていますが、 神の道具として近国を滅ぼしたとしたら、神に味方しているはずなのにです。 これは実際のバビロンの滅亡を知っての後付けではないでしょうか 福音派はイザヤ14:14雲のいただきにのぼり、 いと高き者のようになろう』。から、 神のしもべとして、一時は、国々を打ち破った輝かしい存在としてのバビロン王が 成功すると、自分を神格化したため、神の怒りを買い滅ぼされたと説明しています TRSM(男優) 大沼伸貴氏(ばり受け) 氷川きよし(おっぱい) 創価はホモの多様性がすごい(褒) 宗教板のみんなは どのホモが好き? ↓ TRSM(男優) 大沼伸貴氏(ばり受け) 氷川きよし(おっぱい) >>184 あーなるほど、エラムの再興は同じイラン地方のペルシアの勃興と考えてやれば それなりに筋が通ってきますね 預言のすべてではないでしょうが、歴史的に具体的な預言は おそらく後世の編集者が実際に起こった歴史に整合するように編集しているのかもしれませんね 休日分はイエス懐妊の知らせを扱った箇所ですね ルカとマタイを並べて読んで、今更ながら気づいたんですが ルカは御使いとマリアの会話、マタイは御使いとヨセフの会話を中心に このエピソードが描かれています マリア視点のルカとヨセフ視点のマタイ、といった感じで ちょうどイエスの系譜と同じように、ルカとマタイでははっきりとした対照をなしていますね ユダヤ教の伝統に重きを置くマタイに対して、ルカはこの点でより開明的というか 非ユダヤ的な視点を持っていたのかもしれません そういえば善きサマリア人のたとえもルカ独自ですよね このへんは「異邦人への使徒」であるパウロの影響もあるのかもしれないと思いました >>189 atheistくん、おはようございます。明日の月曜日の聖句はエレミヤ51-52章です。 マタいもルカもギリシア語がうまいのでギリシア語が母語ですね マルコのたどたどしいギリシア語は、ギリシア語が外国語だったためですね それでマタイとルカはマルコを書き直してやるぞという姿勢で編纂したのですね ヨハネは中学英語レベルの簡単なギリシア語語彙で深淵な思想を語っており キリスト教の神学はヨハネをベースとしていますのでキリスト教では無視できないどころ か、ヨハネをベースとして他のヘブライ語聖書・ギリシア語新約を読むと キリスト教思想を理解しやすくなりますね 最古のマルコには解任物語がないのに、修正版のルカとマタイにはある マタイはヨセフ視点で書かれ、ルカはマリア視点が展開されているので 子供のころは四記者が重層的に書いてくださったので立体的に理解できると教えられたですね >>190 意図的であったかどうかは別として、こう考えてみると正典がこの4つの福音書になったのは キリスト教的にはとても収まりが良かったと言えるかもしれませんね まずマルコがキリスト教の核心となるイエス受難の物語をシンプルに描いて マタイとルカがそれに肉付けをしていき、最後にヨハネがキリスト教神学の土台を提示する、という感じで マタイはユダヤ教の伝統に立脚しながらヘブライ語聖書を旧約聖書としてうまく新約につなげ ルカはイエスの物語を異邦人も共感可能な形で述べ伝えたのかもしれません もちろん史学的ないしは文献学的にテクストを批判的に見る視点は必要であっても 福音書は第一に良き知らせとしての宣教の書ですから、四福音書を読むことで トータルに得られる立体的なキリストの物語というのは その読み方自体ひとつの信仰表明なのだと思います >>191 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はエレミヤ51-52章です。 いよいよエレミヤ最終章です >>192 とうとう最後まで来ちゃいましたね そして最後が長い!w まずは51章です いきなり2節の「あおぎ分ける」の意味が分かりませんw どういうことなんでしょうか? この章はユダを滅ぼしたバビロンの滅びに焦点を当ててますね なぜ滅ぼされなければならないのかの理由は5節で「イスラエルの聖者に向かって 犯した罪が満ちている」と述べられています 9節では「われわれはバビロンを癒そうとしたが、これは癒えなかった」と述べられていますが はたして「癒そうとした」んでしょうかw 19節は造物主(造られた神に対する造る神)、選民(造物主が選び契約した民)、 軍神(歴史を動かす神)といったユダヤ教のエッセンスが詰まった文章だと思いました その後、威勢のいい言葉が続きますが、41節で感極まったようです 60節に「バビロンの事についてしるしたすべての言葉」とあるようにバビロンの滅びについて 高揚した著者の気持ちが伝わってくるような章ですね 52章は時代が戻って、ゼデキヤの命運の顛末とその後のエルサレムの処理の詳細、最後に エホヤキンの処遇といったことについて、本編の補遺のような形で語られています 51章がクライマックスで52章は付け足しといった感じがします 長かったエレミヤ書も、なんとか無事?読み終えました エレミヤ書は、バビロンによるユダへの侵攻、バビロン捕囚、そしてメディアびと(ペルシャ人)による バビロンの滅亡を扱った書なので、ヤハウェは「万軍の主」と言う呼称で呼ばれ続けてきました 国々の興亡を神への従順と離反という観点から描き出した一大絵巻といった趣きでしたね 終わってみるとやはりそれなりの感慨があります >>193 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はフィリピ1章です。 聖書協会共同訳は51:2節を 私はバビロンに他国の民を送る。/彼らは彼女を吹き散らし/その地を荒廃させる。/災いの日に、彼らは四方から彼女に迫る。 と訳しています。 ヘブライ語原典では、「他国の者」と「吹き散らし」とは言葉遊びがあり、母音を変えると、「他国の者」と「吹き散らし」になります。 口語訳はその語を「扇ぎ、分ける」と訳しているようですね。 9節「われわれはバビロンを癒そうとした」は51:60エレミヤはバビロンに臨もうとするすべての災を巻物にしるした とあります。 これはB.C.539年に滅ぼされる約50年前の事ですので、悔い改めのチャンスは与えていたということなのかもですね お疲れさまでした。確かに壮大なるスペクタクルでした >>194 「あおぎ分ける」というのは「吹き散らす」というような意味なんですね 原語的には他国の者」という言葉との言葉遊びが隠されてる、と 癒やしに関しては、悔い改めの時間を与えたが、悔い改めなかった、と読めないこともない ってことですね さて今日からはパウロの手紙に戻って、フィリピですね まず1章ですが、冒頭1節で「監督」「執事」ということばが出てきます この当時のフィリピの教会がすでにある程度組織化されていた様子が伺えます また13節で「獄に捕らわれている」、「兵営」とあるので、これはローマで獄中にあったときに 書かれたものだとすれば、執筆時期は60年代とパウロの晩年に近かったと考えていいのでしょうか? さらにこの章で気になったところは、6節や10節で出てくる「キリストの日」です 文脈からキリスト再臨の日あるいは最後の審判の日と推測できますが、パウロは他の手紙でも 「キリストの日」という表現を使っているのでしょうか? 内容的には、パウロが獄に捕らわれていることで良きにせよ悪しきせよ、キリストが 宣べ伝えられることになるので、それはよいことだと語っています また23節ではパウロの本音が語られています 当時のパウロたち(クリスチャン)は肉体の死によってキリストとともにいることができるという信仰によって 死を厭わなくなったのでしょうね この信仰が先々大量の殉教を生んでいくことになるのでしょうが >>196 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はフィリピ2章です。 監督の語は正しい訳で原語は「監督する者」です。本来は町のトップの方の称号です。 キリスト教ではこの言葉が「司教」という地域トップとなりますが、それは組織化された後です。 パウロの頃はまだ制度化されてなかったので監督とそのまま訳されているようです。 「執事」は原語的には「奉仕者」ですね。後の制度では「助祭」に相当しますが、 広く奉仕する者の意味ですね 13節で「獄に捕らわれている」、「兵営」はどちらも誤訳です。 原文は「繋がれている」、「プラエトーリウム」です。 パウロス先生はロマで未決囚として連れてこられたのですが実際は自分で家を借り ある程度の自由があったので「牢獄」などに入れられてません。 とはいえ未決囚なので、「繋がれている」のです。て゜、ローマに連れてこられたのは60年なので この手紙を書いたのは61-63年ころですね。 プラエトーリウムは、ラテン語をギリシア語音写したものですが、何を指すか議論されていて 確定しませんが、諸都市のプラエトーリウムだと地方長官の官邸です。 ですがここは首都ローマです。近衛師団の建物をまず指します。ただの兵舎ではなくて 指揮系統がすべて入ってるわけです。あるいは皇帝や貴族の私邸を指す場合もあるので確定していないのです キリストの日は、フィリピ2:16と、1コリ1:10に出てきます 23節は、それ以前の手紙では、我々は生きたまま再臨のクリストスに会って 生きたまま救われるとパウロス先生は確信されてました。 しかし終末が来ない。終末遅延問題が語られ、この62年ごろになると 自分が生きたまま再臨を迎えられるという希望的観測を捨てたという箇所ですね つまり新興宗教の終末詐欺がはずれた場合の一つの典型として 預言がはずれた責任を一切取らず、変身する時の言い訳です >>197 監督や執事という訳語から、ある程度組織化されてきたのだろうと思いましたが パウロの頃は組織化、制度化の萌芽くらいの状況と考えたほうがよさそうですね 13節は、そうすると監禁というより緩やかな軟禁に近い状態ということですね 手紙のやり取りができるくらいですから、かなり自由度はあったようですね キリストの日は1コリにも出てきてましたか 完全に忘れてました 23節に関しては、そういえば以前は生きたまま天に挙げられる、生きている間に キリストの再臨を見るって話をしてましたね 待てど暮せどやってこない終末という現実に対して修正してきたということですね さて2章は、冒頭が信徒への説教になってますが 6節11節までが、いきなりキリストのケノーシスについての神学的な記述になっています パウロってこんなにはっきりとキリストが神であり、それが人として受肉したというようなことを 述べてましたっけ?今までの手紙ではキリストが主であることは再三語ってますが これほど明確に神であること、受肉したことといった神学的内容は語っていなかったように思います 12節からは再び説教に戻ってます 特に喜びについて強調されているようです 後半はテモテの名前が出てきますが、テモテを送る前に エパフロデトという人物を送り「返す」と言っています ということはこの人はフィリピの教会の人で、パウロの手伝いをするために ローマに来たってことでしょうかね? >>198 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はフィリピ3章です。 2:6-11はいわゆる「クリストス賛歌」です。パウロス先生の書簡の中でもっとも有名な箇所です。 福音派はここをもってパウロス先生もクリストスを神と考えていたのだと主張します。 ただ学者の多数派は、この種のドグマがパウロス先生の他の書簡に見られないので 既存の詩的文章の引用だと推定されています。 疑似書簡のコロサイ書1:15-20にも「クリストス賛歌」があり、この頃にはドグマ形成が発展してきたようです。 通説ではパウロス先生がローマで軟禁中にキリスト教会の人々から知って引用しなりますが パウロス大先生は引用と断ってないので、似たものを聞いて自分で作った可能性もあります。 「神のかたち」について、様々な解釈があります。一方の極は本質的神であると語っている 神性のことだという ものです。対極は私の立場ですが、神ではないのだが形だけが神と同じであるという解釈立場です その間に様々な立場があり一致を見てません。 エパフロデトは、フィリピ人です。訳せば「ハンサムな、魅力的な」という名前です。 この方は「戦友」とされてますが、この言葉をパウロス先生が使うのは62年以降ですので 戦っている気分になつたのかもですね。 たぶんパウロス先生の身の回りのあれこれの補助者としてフィリピ教会から派遣されてきた方で 便利遣いしていたが、そろそろ返さないといけないということでしょう >>199 2:6-11は引用だと推定されているのですね 仮に引用でないとしても、元になる文章に感化されて自分で作った可能性がある、と 「神のかたち」についても解釈は一致してないということですね これまでローマ、コリント、ガラテアあたりを先生と一緒に読んできたなかで パウロの神学的な言説にここまではっきりと神であることを示唆したり 受肉を語ったりしたものはなかったと思ったので、かなり奇異な印象を受けました エパフロデトはやはりフィリピの教会のひとなんですね 「戦友」ということばは見逃してました たしかにちょっと特徴的な形容ですよね さて3章ですが、ここははっきりと割礼の価値を否定して、信仰による義認を説いていますね それにしても「あの犬ども」(2節)と表現するくらいですから、割礼派(ユダヤ伝統派)との対立は 相当に根深いものであったように思います またパウロ自身の目指すところや希望についても語られています 11節ではこれまたはっきりと復活に達したいと語り、14節では神の賞与を得ようと努めていると語ります 20節では再臨を待ち望み、21節では栄光の体への希望を語ります この章はいつにもましてパウロの本心というか、パウロ派のクリスチャンの具体的な希望が 語られているように思いました ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる