歴史家「歴史学会のほぼ全員が坂本龍馬の功績は創作として否定している」
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いや山上がテロリスト扱いされるならこいつもテロリストやん🤣 武士道とかいうファンタジー作った人はその功績でお札になったからな >>207
それはどうやろ
田中角栄のsage要素が汚職腐敗の一方、age要素は理念やら思想になってるし
改竄と隠蔽とよりにもよって反日カルトとの癒着が明らかになった安倍晋三に、
それらを挽回できるだけのage要素となる理念やら思想はどれだけ残ってるやろうか
もちろん安倍信者の右翼ではなくて、後世の歴史化が客観的に良しと判断できるもので 日本政府って未だに明治維新関係者の血縁ばっかなのやばない?
と思ったけど本を正すと武将なんて大抵豪族やし1000年以上支配体系変わっとらんようなもんか 忠臣蔵が当時からテロ扱いなら近所の屋敷も武士の情けとして見逃さんやろ
明治まで仇討ちが普通やし忠臣蔵は当時の庶民の娯楽や
今の価値観ではかるの違和感ある 今でも高知行ったらたぶん坂本龍馬のお土産ばっかりやろ >>217
それはせやね
ただヨーロッパの王侯貴族はもっと顕著やと思う
革命をバシバシやってる中国がちょっと特殊なくらいかもしれん 秀吉は大抜擢やったんか
それとも良くあることなんか 押井守の幕末マンガ面白かったわ
クソ説教映画より遥かに良くできてる 秀吉非人出身説ってどういう扱いなんやろ
有名な賞取ってたみたいやけど 土佐って有能がほとんど内紛で殺されて明治維新の頃には人材がろくに残ってなかったんやっけ? >>215
歴史戦はあの陣営が大好きやからな
ここから100年かけてプロパガンダしていきそう 斎藤一はイケメン!
いや肖像画がブサメン!
いやその肖像画は別人!!
おい写真が見つかったぞ!!!!
は和月史観に基づいた論争なんやろな なんgの無駄に詳しい歴史の知識はどこで培ったものなんや 大河ドラマを鵜呑みにするワイのパッパに誰か説教したってくれ >>220
むしろ貴族みたいに公にしとるのとかワイはカトリックや!憲法はコーランや!とか初めから言っとるのとかはある意味健全やと思う
日本の場合義務教育で散々「これだけ頑張ったから身分に関係無く選挙で選ばれた人が政治家やっとるんやで!」とか「政教分離しとるんやで!」とか言いながらやっとるのがアカン
民主主義って極論嘘さえつかなければそれが民意やって言えるし国民の責任やって言えるけど騙してるのに民意だ国民の責任だってのは言えん >>229
ガチで幕末の内紛で人材殺しまくったのは福岡藩 司馬史観は悪、司馬(信者)は悪って言うてるやつらも根本的には変わらん気もするけどな >>223
家康北条毛利信玄謙信の家中見てみ
ほぼほぼ一門やそれに準じる一族や譜代に良くて豪族までや
自前で戦力揃えられない野良がトップ5に入る軍団長は他にない るろ剣が流行ってたころに歴史学者が「斎藤一はイケメンじゃねーよ、写真残ってるしすごいブサイクだろ!」
とか主張してたのは可哀想すぎたわ
本人だって歴史書にはイケメンだったって残って欲しいだろうに >>223
そもそもどんなに目をかけられても秀吉みたいな社会的背景の奴は出世できないと思う
身分が上がるごとに家臣団が必要になるけど基本親類縁者からの枝葉別れで構築していくもんだし
だから信長の寵愛があったとしても裸一貫のようなところから成り上がった秀吉の能力は異常 >>228
服部英雄の本か
読んだことないけど割と評判いいよな
秀吉の発給書状で見ると1565年(秀吉28歳)が初見で家臣に知行の宛行をしてるから奉行の地位にいたことが分かってる
これを根拠に低い身分の出ではないっていう研究者も多いよな
最近やと遠江木下氏の出身なんてことも言われてる
遠江木下氏の通字が「藤」で藤吉郎と合致することから言われ始めたことやけどもう少し補強する史料が欲しいな ワイのご先祖さん斉藤一と結婚した後家さんの一族やねん八重の桜で貫地谷しほりさんが演じててめっちゃ嬉しかったわ斉藤一はKJでうんちやったけど >>233
本や講演会や
wikiやネットは最初だけ見て後は参考にせんでええで >>237
皇族の存在でネタバレしてるようなもんだから別にそんな隠してる感もないやろ 義元を討ち取った毛利新介も大して出世してないしなあ
ノッブの小姓や母衣衆も1万石クラスまで行くのは稀で
前田利家あたりがずば抜けた出世頭なのに秀吉はそれの上行くし
秀吉だけは歴史に残る業績以上に有能な可能性ある >>246
講演会とかガチで草
学者さんがそこでしか言わんような話ってあるん?そんなネタは本のためにとっておきそうな気もするけど 中岡後藤あたりの一般認知が低いだけで坂本も大政奉還にはそれなりにかかわってるとおもうがな 亀山社中作ってイギリスのエージェントやってたのはガチやろ
薩長同盟に一枚噛んでるのもガチ
司馬遼太郎の作った英雄然とした竜馬像が創作なだけで普通に凡人ではないだろ >>250
実際劉禅は暗愚ではないみたいな説あるけど
黄皓の扱いと安楽公の後継者指名を見るとやっぱ暗愚としか思えんわ とても凡人では無いが教科書に大々的に乗るような人物では無い
って評価だが「教科書に乗るような人では無い」って部分だけ独り歩きして評価下がりすぎ感はある >>257
逆かもよ
今までの評価が異常に高過ぎた 明治早々に維新の功労者として名前挙がってるんやから全否定もちょっと無理あるやろ まず、結成当時龍馬は長崎に不在だった可能性があり、実際に結成に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らである[3]。
また「亀山社中」という名称も当時付けられたものではなく[3]、「社中」という名乗りが見られるだけである[4]。
グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の伊藤博文(当時は伊藤俊輔)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、
同じく井上馨(当時は井上聞多)は薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが「薩摩藩」名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得たと述べており、
一坂太郎は「亀山社中」の取引への関与の度合いを「謎」として、「亀山社中」を商社や株式会社のようにみなす見解を疑問視している[5][注釈 1]。
町田明広も、「社中」の実態を「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、
薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」として「海軍や商社などとするのは事実誤認」と述べている[6]。
慶応元年7月には近藤が井上聞多とともに小松の帰国に同道し、
薩摩藩に1か月近く滞在する間に大久保利通(当時は大久保一蔵)・桂久武・伊地知壮之丞らの要人と話し合った[7]。
これらを通じて険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介し、
1866年3月、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長盟約の締結に大きな役割を果たしたとされる。
こうした活動について町田明広は、この時点での近藤らは薩摩藩が小松帯刀を通じて庇護・活用した脱藩浪士集団に過ぎず龍馬の関与もなく、
「この段階の社中が、後の龍馬の海援隊に無媒介につながったとする連続性はナンセンスとも言える」と2019年の著書で記している[8]。 坂本龍馬が歴史の教科書から名前が消えたとして数十年後には一般的な評価はどうなるんだろ
今はまだ一般的には幕末に凄いことした人みたいなイメージだろうけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています